二度目の本元服

「ちょっと光国君、何をぼけ~としているのかな」


 聞き覚えのある声だ。わしは目を開けた。先ほどまでほととぎすと一緒に飛んでいた灰色の空は消え去り、だだっ広い座敷の風景が広がっている。


「ここは、どこだ」

「あれれ、ひょっとして居眠りでもしていたんじゃないのかな。困るなあ、そんなことでは。お父さん、悲しくなっちゃうよ」


 正面に座って情けない顔をしているのは紛れもなくわしの父、水戸徳川家初代当主、頼房よりふさだ。となれば、ここは小石川の江戸屋敷か。


「そうか。本当に生まれ変わったのだな」


 そうつぶやくと同時に記憶が戻ってきた。冥土の風景、閻魔の裁き、玄蕃の取り成し、そして地獄道落ちから人間道落ちへの変更。

 もう一度人間をやり直せと言われたのだから、てっきり誕生の瞬間からやり直すのかと思っていたのだが違っていたようだ。どう見ても今のわしは赤子ではなく若者だ。


「失礼、父上。今は何年、何月でありましょうや」

「はあ?」


 父は大口を開けたまま腑抜けた顔をしている。わしは己の装束を改めた。家紋の入った直垂ひたたれに長袴を身に着けている。おまけに頭がことほか涼しい。手で触ってみると前髪が剃られてツルツルしている。


「奇麗に月代さかやきが剃られておるな。もしや転生した先は元服時のわしか」

「今頃何を言っているのかな。眠り過ぎて記憶が飛んじゃってるんじゃない。九歳で仮元服をした時、従兄いとこの家光君から光の字をもらって光国になったでしょ」

「はい。それは覚えております」


 三代将軍家光に謁見したのは七歳の時。あの頃から随分と気に入られていたな。


「で、今回は一八歳の本元服。九歳の時に前髪を落とすのを嫌がったから今日初めて月代を剃ったんだけど、いい男になったねえ。これからは外見だけでなく中身も大人としての自覚を持ってちょうだいね」

「すると今日は正保二年、正月一五日か」


 本元服は一八歳になる年の最初の満月の日に行う。わしが冥土へ旅立ったのが師走六日だから、それから四十日ほど経ったわけか。

 十王審査を終えるとこの世では四九日が過ぎていると聞く。わしは第五王の閻魔までしか審査を受けておらぬから、四九日が過ぎる前にこの世へ戻されたというわけか。だがどうして一八歳なのだ。五五年前という中途半端な年を選んだ理由は何なのだ。


「単なる閻魔の気紛れか」


 ツルツルの月代を撫でながら考えていると、父の呆れた声が聞こえてきた。


「ねえ光国君、今日の君、さっきからちょっと変だよ。一月一五日は合っているけど、今年は正保二年じゃなくて三年でしょ。なにけてんの?」

「三年? ならば拙者は一九歳と言われるのですか」

「いや、年は一八歳だよ。本元服なんだから」

「どういうことだ……」


 一年のずれ。これは何を意味しているのだ。別れ際の閻魔の言葉を思い出す。

『ただし今回は特例ゆえ通常の転生ではない。おまえが行くのは異世界。これまでとは違う世界だ』

 確かにそう言っていた。似てはいるがわしが生きてきた世とは別物なのかもしれぬ。一年のずれはそのために引き起こされた、そう考えるべきなのだろう。これは慎重に事を進める必要があるな。


「光国君、黙りこくっているけど大丈夫。別に勘違いは恥ずかしいことじゃないからね。僕だってよく間違えるしさ」

「ぼく……父上、先ほどからのその物言い、一体どうなされたのです。聞いているだけで恥ずかしくなります」


 とうとう我慢できなくなった。ずっと気になっていたのだが、さすがに父に指摘するのは畏れ多いと遠慮していたのだ。しかしもう我慢できぬ。この軽薄な喋り方、聞きなれない言葉、水戸徳川家の当主がこのような有様では他の大名に示しがつかぬ。


「そもそも、ぼく、とは何ですか。そのような言葉、聞いたこともありませぬ」

「僕って、僕だよ。下僕げぼくの僕。忘れちゃったの? それにさあ、物言いが変なのは光国君のほうだよ。何、拙者って。鎌倉武士の真似? 今時そんな呼び方をしていたら他の大名に馬鹿にされちゃうよ」

「馬鹿にされるのは父上のほうでありましょう。何故武家の当主が己を下僕と称さねばならぬのです。武家としての誇りはどこへ行ったのです!」


 怒りが込み上げてくる。生前、父と対面し直接言葉を交わすことはそれほどなかったが、ここまで軽薄な人物とは思ってもみなかった。

 怒りの直撃を受けた父は言い返そうともせず、またも腑抜けた面でこちらを見ている。


「あ~、分かったよ、光国君。疲れているんだね。うん、居眠りしていたくらいだもんね。もう下がっていいよ。自分の部屋に戻って休むといいよ。お~い玄蕃、光国君を連れて行ってくれないか」

「ははっ」


 背後から声が聞こえた。振り向けば三人のわしの傅役、玄蕃、言員、高康が神妙な顔をして控えている。


「おおっ、玄蕃! 冥土では世話に……」


 慌てて口を閉じる。思わず余計なことを口走ってしまうところだった。無理もない、冥土で別れてからまだ幾ばくの時も経っていないのだから。

 しかしこの時代の玄蕃はさすがに若いな。まだ四十代か。この世だけでなくあの世でも世話になるとは思ってもみなかった。


「ささっ、若君、こちらへ」


 玄蕃に促されて座を立つ。他の二人は平伏してわしを見送る。そのまま座敷を出て廊下を歩く。屋敷の間取りは記憶にある通りだ。中庭に面した廊下の先にわしの居室があるはずだ。


「若君、一体如何されたのですか。先ほどのお言葉と言い、殿の前で見せられた振る舞いといい、いつもの若君とは別人でありました」


 歩きながら玄蕃が話し掛けてきた。いや、別人なのはわしではなく父のほうだ、と言いたくなるのをグッと堪える。ここは異世界。わしはよそ者。玄蕃の言うようにおかしいのはわしのほうなのだろう。


「玄蕃の言葉は父上とは違うな」

「それがしは元和令が発せられる前から殿に仕えております最古参なれば、昔言葉も許されております。もっとも当主に関しては年にかかわらず今様言葉が義務付けられております。もしや、それもお忘れになられましたか」


 元和令、最初の武家諸法度か。なるほど、父上のあの言葉遣いは将軍家の無理強いであったか。参勤交代や普請役で財力を削り、一国一城令で軍事力を落としただけでなく、言葉遣いを軽薄にして大名家の威信まで低下させようとは、この異世界の将軍家はなかなかに手強い相手のようだな。

 しかしそれ以外はわしが生きていた世と大きな違いはないようだ。これならばさほどの苦労もなく名君としてやっていけそう…ややっ!


「お、おい、あれは何だ!」


 足が止まる。背筋に悪寒が走った。中庭には井戸がある。誰かが水を汲み上げたばかりなのだろう、檜で作った井桁がじっとり湿っている。その上で、人の頭ほどの大きさで水饅頭のように光沢のある丸いモノが、プルプルと揺れているのだ。


「気味が悪いな。掃除が行き届いていないのではないか」

「ああ、あれは水来忌すらいむでございますね」


 すらいむ? 初めて聞く言葉だ。この世界ではあれをそう呼ぶのか。


「何でもいい。早く拭き取って捨ててしまえ」

「捨てても無駄でござります。水の好きな魔でありますれば、追い払ってもまた戻ってきます」

「魔? まさか生き物なのか」

「はい。されど心配ありません。あれは低級の魔。人に危害は加えず、井戸の水を汚すこともありません。若君とてご存知のはず。先日も和歌を詠んでいたではありませぬか。

『ただ見れば何の苦もなき水来忌の食うに暇なき我が思いかな』

 何の苦労もしていないように見える水来忌も、本当は食べることで大忙し、我もまた同じ思いなのだ、という意味でありましょう。他の者はどう思おうとも、世継ぎとしての宿命を背負わされた若君のご苦労、それがしにはよくわかっておりますよ」


 いや、確かに今のわしは大変な気苦労を感じておるが、少々意味合いが違うぞ。世継ぎの苦労などどれほどのものでもない。父の軽薄な言葉遣い、日常の風景になっている魔の姿。この異世界はどうなっているのだ。わしが居た世界と何が違うのだ。それが気になるのだ。


「若君、どこかお加減が悪いのではないですか。どうも本日の若君は様子がおかしい。何か気に病んでおられるのなら、それがしにお話しくだされ」

「う、うむ……」


 玄蕃は忠犬の如き瞳でわしを見ている。親子三代に渡ってわしに仕えてくれた玄蕃。冥土では閻魔に取り成しをしてくれた玄蕃。この男ならばわしの話を信じてくれるかもしれぬ。洗いざらい話してみるか。


「とにかく部屋へ行こう」


 廊下を進みわしの居室へ入る。玄蕃と向かい合って座ったわしは、意を決して話し始めた。


「馬鹿げた話と思うかもしれぬが我慢して聞いてくれ。実は……」

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