閻魔の叱責


 わしは閻魔えんま宮の中にいた。十王の審査が四王まで終わり、五番目の王である閻魔の裁きを待っているのだ。


「それにしてもとんでもない人数だな。前も後ろも右も左も亡者で溢れ返っているではないか。これではいつ順番が回って来るか知れたものではないぞ」

「そこ、口を慎め」


 鬼に注意されてしまった。鬼と言っても頭に角が生えているだけで、見掛けはふんどし一丁の人足と大差ない。さりとて鬼に逆らえば閻魔の心証を害してしまうだろう。ここは素直に口を閉ざす。


『もうどれくらいの時が経ったのだろうな』


 心の中でつぶやく。死んでみて驚いたのはあの世が思っていた通りの有様だったことだ。

 まず我が身の装束に驚いた。まとっているのは純白の経帷子きょうかたびら。頭には三角の天冠てんかん。手に手甲、足に脚絆、首にぶらさげた頭陀袋ずたぶくろには六文銭が入っていた。幼い頃、寺の僧侶から聞いたそのままの格好だ。


「ほほう、これが死出の山か」


 最初にたどり着いたのは険しい山だ。真っ暗な山道を一人で歩く。なかなか頂上へたどりつかない。八百里あると聞いていたがどうやら本当だったようだ。


「やれやれようやく越せたか」


 越した先にあったのは三途の川だ。河原には鬼よりも強欲な顔をした老婆が立っている。六文銭を持たぬ者の装束を剥ぎ取るという奪衣婆だつえばだ。生前に聞いた僧侶の説教と寸分違わぬ風景が、わしの前に広がっている。


「寺の坊主たちはどのようにしてあの世の風景を知り得たのであろうな。一度死んで見てきたわけでもなかろうに」

「ああ、そりゃ、あんた、あの世ってのは亡者の心の風景だからさ」


 わしのつぶやきを聞いた奪衣婆が答えてくれた。


「心の風景?」

「そうさ。仏を信じている者には仏が教える風景。神を信じている者には神が教える風景。何も信じていない者にはそれなりの風景。亡者によってあの世の有様も変わるのさ。あんたは仏を信じているんだろ。だからその通りのあの世の風景が広がっているのさ」


 なるほどそうであったか。わしは神道に重きを置き、領内の半数近くの寺を廃却、移転させた。おそらくわしの葬儀も神式を取り入れた簡素なものであったろう。

 だが隠居してからのわしは次第に仏の教えに傾倒していった。寺の僧侶たちとも親しく交わり、西山荘に移って六年目の冬、遂に落飾した。神道を敬い、儒教を中心に据えた水戸学を起こしておきながら、心の底では仏への信仰心を捨てきれなかったとみえる。


「十王審査を開始する」


 三途の川を渡った後に始まった十王の審査は聞き取りだけで進んでいった。生前、僧侶たちから十王に関する話をほとんど聞いていなかったせいだろう。わしの心には閻魔以外の十王の姿はほとんどない。それが反映されたのであろうな。すんなりと閻魔宮へたどり着けた。


「次の者、前へ」


 ようやく順番が回ってきた。閻魔は十王の五番目の王。ここで六道のどこへ行くかが決定する。名君の誉れ高かったわしのことゆえ、行先は天道しか考えられぬ。ここもすんなりと通過できるはずだ。


「入れ」


 鬼の案内に従って裁きの間に入った。床一面に白い砂利石が敷き詰められている。まるで奉行所のお白洲だ。これもわしの心の反映なのだろう。裁きにお白洲は付きものだからな。

 砂利に敷かれたゴザに座り、唐風の卓に着いている閻魔を見上げる。


「徳川光圀。諡号しごうは義公。水戸徳川家の二代当主……」


 閻魔は閻魔帳をめくっている。地獄絵図に描かれている閻魔はどれもこれも魔物の如き面構えだが、目の前の閻魔にはそれほど厳めしさを感じない。赤ら顔で背の高い角のある壮年の男、そんな感じだ。


「では裁きを言い渡す。光圀の行く先は地獄道である。行ってよいぞ。次の者をここへ」

「な、なんと!」


 一瞬我が耳を疑った。わしの行く先が地獄道、そんなはずはない。


「失礼、閻魔大王殿。この光圀、不覚にも聞き損じたようだ。何と言われたのか」

「光圀は地獄道送りである、と言ったのだ。どの地獄へ行くかは他の王に訊くがよい。この罪の重さからかんがみるに、焦熱地獄あたりかと思われる」

「承服しかねる!」


 わしは立ち上がった。このわしが、領民から名君と慕われ将軍からの信頼も厚かったこのわしが、地獄送りだと。納得できるわけがない。


「如何なる理由でそのようなお裁きになったのか。詳細に説明していただきたい」

「やれやれまたか。時間がかかって仕方ないわい」


 閻魔が口をへの字に曲げている。またか、と言うのだからわしの他にも異議申し立てをする者は多数いるのだろう。どうして閻魔宮だけこうも大勢の亡者がひしめき合っているのか、その理由だけは納得できた。


「本当は嫌なのだが、一応、亡者の言い訳は聞くことになっておる。よって発言を認めよう。で、おぬしはどんな理由で地獄送りが不当だと思っているのだ。手短に頼むぞ」


 急に閻魔の喋り方が軽くなった。かなり気を抜いているようだな。ここは攻めの一手だ。


「わしは多くの功績を残した。その最たるものは歴史書「大日本史」の編纂である。これひとつだけでも天道行きの資格は十分にあるものと思われる」

「ええっと、大日本史、大日本史……ああ、これか」


 閻魔帳をめくっていた閻魔は面倒臭そうに答えた。


「あれはむしろ地獄行きの要因だな。この編纂にどれだけの金がかかったか知っておるのか。水戸の家臣を全国に派遣するための旅費はまだ許すとしても、歴史資料を集める経費が膨大すぎた。貴重な文献があると聞くと、公家や僧侶、大名家から金に糸目を付けずに買い漁る。相手が門外不出と言って売り渋ると、天皇や将軍の力を借りて無理やり供出させる。その結果、編纂にかかる経費は水戸家予算の三分の一を占めるまでに膨れ上がった。その金の出どころは領民が汗水たらして収めた年貢。しかもそれだけでは足りず、つぐない金として家臣の俸禄の一部を天引きしたり、御用金として富農や豪商から上納させたり、将軍家にまで金を借りたりと遣りたい放題。通常ならば四公六民の年貢が水戸では五公五民。酷い時には八公二民にまで達していたではないか。これだけ周囲に迷惑を掛けておきながら、編纂に当たる彰考しょうこう館の藩士だけは好待遇。お勤めは一日おき、高い棒給、昼と夕の二食に加えて、菓子、酒、煙草、風呂まで供する有様。領民や城勤めの家臣たちは言葉にはせぬものの、皆、怒りと不満ではらわたが煮えくり返っていたのだぞ」

「う、そ、それは……」


 痛いところを突かれた。確かに大日本史編纂には莫大な金を費やしてしまった。しかもまだ未完成。完成までにはこれまで以上の金と年月が必要なのだ。


「国家としての大業を為すために大金を掛けるのは、致し方のないことと存ずる」

「ああ、そうかね。まあ金だけの問題ならまだよかったのだが、六七歳にもなって家老の紋太夫もんだゆうを手討ちにしたのは、どう言い訳をするつもりなのかね」

「ぐっ、」


 さすがは閻魔、わしの生前の行状は全てお見通しか。


「公儀へはもっともらしい理由を付けて報告したので特にお咎めもなかったが、これも結局は大日本史絡みであろう。おぬしが隠居したのを幸いとばかりに、三代当主綱條つなえだと家老の紋太夫は大日本史編纂の経費削減を画策し始めた。西山荘でそれを耳にしたおぬしは立腹。再三翻意を促すも受け入れられず、こうなっては実力行使あるのみと江戸屋敷へ出向き、当主の代わりに家老を手討ちにした。そんなところであろう。名君が聞いて呆れるわ。どうだ、まだ何か申し開きがあるか」

「……」


 言い返せない。まずいぞ。このままでは地獄道送り決定だ。何とかせねば……わしは必死になって考えを巡らせた。

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