光国君異世界世直し漫遊記
沢田和早
第一章 爆誕! 光右衛門
第一話 ご老公逝く
今わの際のほととぎす
「お目覚めになられましたか」
小姓頭の
このまどろみがやがて人生の全てを支配し、眠りに落ちたまま目覚めぬ時を迎えるのもそう先のことではないのだろう。
「もう昼か」
「はい。お食事はいかがされますか」
布団の横に控えている友輔がわしの顔を覗き込んでいる。お互い年を取ったものだ。小姓となって一五年ほどか。親子三代に渡って今日までよく尽くしてくれたものだ。
「いつも通り、粥でよい」
「さっそく支度いたします」
友輔は会釈をすると部屋を出て行った。寝床から身を起こす。寒い。藁布団と重ねて掛けていた半纏を羽織り、傍らに置かれている長火鉢に手をかざす。師走の六日となれば昼になっても寒さが身に染みる。
「この寝所も年を取ったな。まだ十年ほどしか経っておらぬというのに」
障子戸からは容赦なく隙間風が吹き込む。仕上げを施していない粗壁にはひびが入り、古くなった茅葺の屋根から漏れる雨垂れが天井板に染みを作っている。この隠居家も
「江戸を出て水戸に着いたのは今日のように師走の寒い日であったな」
五代将軍綱吉公から隠居を許され、住み慣れた江戸を発ったのが六十歳を超えた頃。直ちに水戸城から北へ五里ほど離れた西山に隠居所を作り、供回り六十余名を従えて移り住んだ。それからは文字通り光陰矢の如く、あっという間の日々であった。
「ご老公、粥をお持ちしました」
「うむ、ご苦労」
障子を開けて友輔が入ってくる。膳の上には雑穀の粥と漬物、それだけだ。それだけの食事ではあるが実を言えば食べたくはない。もはや食欲も湧かぬほど病は進行している。
「ささ、たくさん食べて精をつけてくださいませ」
気は進まぬが匙を取る。食べたくもない粥に口をつけるのは家臣に余計な気苦労をさせないためだ。口もつけずに膳を下げては支度をしてくれた
「うむ。結構な飯であった」
そう言って箸を置くと、すかさず友輔が茶を差し出した。この男も三十の坂を越えたか。祖父の
「何を見ておられるのですか。拙者の顔に何か付いておりますか」
「
「玄蕃、ああ拙者の祖父でございますね。祖父の祖父が武田の家臣、伊藤玄蕃であったゆえ、水戸家の皆様にはそう呼ばれていたと聞いております」
「懐かしいな。玄蕃がわしの
老いのせいだろう、近頃は昔日の出来事ばかりが思い出される。兄を差し置いて水戸徳川家の世継ぎと決められたのは六歳の時。それからは二代目当主に相応しい知識と教養を身に着けるべく、江戸小石川の屋敷で勉学と修練に励む日々を送った。その時に傅役となった三人の家臣のひとりが伊藤友玄だ。わしだけでなく家中の者は皆、彼を玄蕃と呼んでいた。
口やかましいだけの
「祖父に続いて父、そして拙者も小姓としてお仕えでき、身に余る光栄でございます」
「いや、礼を言うのはこちらだ。わしの生涯をかけて取り組むこととなった大日本史編纂。学問に目覚める切っ掛けを作ってくれたのが玄蕃なのだからな」
寝所の隣には書斎がある。たった三畳の間取りに丸窓があるだけの簡素な部屋。玄蕃の死の二年後から始めた歴史書の編纂は、今もなおこの書斎で続けている。
存命中の完成は叶うまい。願わくはわしの死後も編纂を続け、何百年かかろうと完成させて欲しい、今はそれだけが唯一の望みだ。
「ごほ、ごほごほ」
「ご老公、横になってください。拙者は侍医を呼んで参ります」
立ち去ろうとする友輔。その腕を掴む。身近に誰かが居て欲しい、そんな気がしてならないのだ。
「心配無用、いつものことだ。それよりもここに居て、しばし老人の昔語りに付き合ってくれぬか」
「は、はい」
わしの体を布団の上に横たえた友輔は、不安な表情でこちらを見ている。わしは目を閉じた。物心着いてから今日までの日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡っていく。
「大日本史編纂に着手してから四年後、父上が亡くなり、わしは晴れて水戸徳川家の二代当主となった。それから隠居するまでの二九年間、荒海を進む船頭のような心持ちで水戸家の舵を取ってきた」
「良き舵取りでありました。我ら
「一番の思い出は大船快風丸で蝦夷地へ三度赴いたことであろうな。あれは大日本史編纂に当たり、源義経の蝦夷地渡来伝説を確かめるために出航させたのだが、結局真偽は分からず仕舞いであった」
「その代わり、蝦夷地の塩鮭、熊や海獣の皮などを持ち帰り、家臣一同大喜びしていたではありませんか。拙者も鮭鍋をご相伴に預かりましたぞ」
友輔の気遣いが嬉しい。やはり玄蕃の孫だ。心根の優しさだけはしっかりと受け継いでくれている。
「鮭鍋と聞いて思い出すのが清国の麺料理だな。招聘した儒学者直伝の拉麺なる食い物。わし自らの手で調理したと聞いて、皆、仰天しておったな。あれは実に愉快であった。おまえも食ったのであろう」
「は、はい。いただきました。家臣一同ご老公のお心遣いに深く感謝したものです」
友輔が苦笑いをしている。どうやら口には合わなかったようだな。さりとてここ西山荘でも時々作って食わせているのだから、皆、それなりに気に入っているのだろう。
「ご老公の思い遣りは家臣だけには留まりませぬ。俵に腰掛けた不埒者を諫めた老婆の話を聞き、特別にその家の年貢を免ぜられたり、老母を介護する孝行息子に金十枚を与えられたり、西山荘の田から取れる米に対しては、年貢相当分の米をきっちり城に収められたりと、これらは全て民の負担を軽減しようというお心遣いでありましょう。領民にとっても名君であられましたな」
名君、心地良い響きだ。若干の世辞が込められているのは分かっているが、持ち上げられれば嬉しくなるのが人というものだ。
「わしは正室との間に子を設けることが叶わなかったからな。おまえのような孝行息子には少々甘いのかもしれぬ」
「聞いております。
友輔の口調が重くなった。泰姫、その名を聞くと四十年を経た今でも胸がざわつく。
二七歳で初めて娶った妻は関白家の娘、一回り下の一七歳だった。輿入れから三年目、ようやく江戸暮らしにも慣れてきた頃、あの明暦の大火が起きた。江戸屋敷は焼け落ち、家臣一同仮住まいを強いられた。その心労が募ったのだろう。翌年、二一歳の若さで世を去った。
それ以後、わしは正室を迎えなかった。家督は兄の子である
「ご老公にも大切な息子がおられます。大日本史、これほど金と手間を惜しまずに育てた息子はおりますまい」
友輔も上手い物言いをするものだ。大日本史編纂は手塩に掛けて育てた我が子のように愛おしい。
「そうだな。わしが逝った後も事業は続け、必ずや一人前の男にしてやって欲しい」
「な、何を気弱なことを。そのようなこと、口にするものではありませぬ……はっ、そうだ」
ふいに友輔が座を立った。縁側の障子を開ける。師走のひんやりとした空気が寝所に入り込む。
「ご覧ください。庭の梅の木に花が咲いたのです。春はもうすぐそこまで来ておりますよ」
目を凝らせば確かに白い花が一輪、寒々しい枝に付いている。そうか、これは寒梅だったな。正月までもうひと月もないのか。
「この梅とも長い付き合いだ。わしは幼少の頃から梅が好きだったのだが、ある日、江戸のとある屋敷で立派な梅の木を見つけてな、主に頼んで譲ってもらったのだ。自らの手で土を掘って引き抜き、自らの手で江戸屋敷の庭に植え、隠居に当たってここに移した、それがこの梅だ。おまえと同じく、この梅も忠義の臣と言えような」
「左様でありましたか」
この梅が満開になる姿を見られるだろうか、そんな疑念が頭をよぎる。一羽の鳥が飛んできた。花の付いた枝にとまっている。
「ほほう、この季節にほととぎすか。珍しいこともあるものだ」
「ほととぎす……」
友輔が首を傾げている。
「そうだ、ほれ、枝にとまっているであろう」
「いえ、そのような鳥は見えませぬが……」
今度はわしが首を傾げた。友輔には見えていないのだ。それとも見えているわしがおかしいのか。考えてみればほととぎすは初夏の鳥、師走の枝に止まるはずがない。それが見えているということは……
「そうか。どうやらお迎えが来たようだな」
「い、いきなり何を仰られるのですか!」
「ほととぎすは冥土を行き来する鳥。わしに見えておまえに見えぬのは、用があるのはわしだけだからだ。つまりあの世からの使い、うっ、ごほごほ」
口に当てた手のひらには血が付いている。最期の時がやってきたのは間違いないようだ。友輔の顔が青ざめている。
「侍医を呼んで参ります」
慌ただしく縁側を駆けていく。無駄だ、もう遅い……行ってしまったか。どうやら一人で旅立つことになりそうだな。いや、違う。迎えのほととぎすが傍にいるではないか。
ほととぎす誰も一人は寂しきにわれを
飛び立ったほととぎすと共にわしの体は飛翔した。西山荘が、水戸が、日の本の国が遠ざかっていく。何の後悔もない。実に良き人生であった。薄れていく景色を眺めながらわしは大いに満足していた。
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