最終話:狂える世界とボヘミアン
最終話
誰も傷つかない。
そんな都合のいい
今よりずっと、大人になれば。
今よりずっと、強くなれれば。
何かをきっと、守れるはず。
誰かをきっと、救えるはず。
けれど世界は、非情さに満ちていた。
自分の手が届く範囲、その中の、ほんの一端でさえ、
豊かな都を旅した。
──────────そこで、
辺境の山村を旅した。
──────────そこで、
南海の孤島を旅した。
──────────そこで、
覆い隠された戦場を旅した。
──────────そこで、
そして、それらがもたらす、おびただしい
なにもわからぬまま、旅先を去ることもしばしば。
なにひとつ変えられぬ自身の無力を知り、おのれの手を見る。
もちろん、旅の中で、人の光も、
その
いつしか心は、
凍りゆく心を自覚しながら、光の
だが、見せつけられるのは、人の心の闇ばかり。
そんな旅が続けば、嫌でも気づく。
人間が生きている限り、
ゆえに、人々は、永遠に救われることはない。
なんて醜悪な世界。
なんて残酷な
こんなことを知るくらいなら、あの時、あの場所で、死んでいればよかったのに。
そう、涙を流しはしても。
命は続く、
ならばこの身はせめて、誰かの
それでも誰かの笑顔を守る、ひとつの盾になるのだと。
自らには
延々と、
平等を
平和を
愛情を
ああ──────────なんのことはない。
人間の
そんな
純粋に、正しさを
自分の
─────────────それでも、
誰の理解も、祝福もない。
辛く、苦しく、後悔ばかりの道行き。
しかし、この
それだけは胸を張って、歩き続ける。
その道で、あのひとと出会った。
あどけない笑顔でいて、深遠な瞳。
銀色の髪を躍らせて、高貴なたたずまい。
不思議な子だな、と素直に感じたのが最初の記憶。
初めて見た時の出で立ちは、青色のスポーツウェアに、パーカーを羽織っただけ、というもの。
気軽さ、ラフさが半端なかった。
自分と同じ年頃の女の子かと思いきや、なんと伝説の〈
〔ははぁん、わかりました。さては、ひねくれ屋さんなのですね?〕
もっとも、初めて会った時は、やたらお姉さんぶりをしたがる、世間知らずのお嬢様としか思えなかったのだけれど。
そんなこんなで騒動に巻き込まれ、あれよあれよと大冒険。
気がつけばあのひとと共に、〈
……ああ、そういえば、この時も、〔敵〕のお題目は、人々の〔救済〕だった。
大地の精霊の集合体、星の巨竜、〈災凶竜〉を呼び起こすことで、龍脈を乱し、〈
そして、地上の生命体を間引けるだけ間引く。
──────────それが、地球という
まったく、〈救世主〉を名乗る輩は、どいつもこいつも極端だ。
〔知るものですか! そんなこと!〕
その時の〈救世主〉に、あのひとは、思うさま
〔わたくしにわかることは、わたくしの
格好いいなあ、このお姫様。
そんなことを思いつつ、最終的には僕も〈救世主〉を許せなくなり、我を忘れるほどに大激怒。
呼び起こされた〈
夜明け前の海岸、崖の上で、あのひとは、ズタボロになった僕を、抱きしめてくれたのだった。
〔ありがとう〕
───────別に、お礼を言われることじゃありません
〔……え?〕
───────僕はただ、あの男のやることなすこと、全部を認めたくなかった
竜を殺してなお収まらぬ怒りに、そんな風な八つ当たりを、あのひとに言ったのだったか。
〔…………それでも、ありがとう。あなたは、人々の
───────そこまで、考えて動いたわけじゃありません
〔それは、嘘です。……考えてはいなかったのかもしれませんけれど。あなたはきっと、わかっていた〕
───────なにを?
〔
───────なんですか、それは
反射的に、僕は強がりのような、
あのひとから逃げるように身を離して、
───────そんなものは、この世のどこにも存在しません
〔………ひねくれ屋さんなのですね。確かに、口に出してしまうのは、気恥ずかしいのでしょうけど〕
───────そんな
〔信じていますとも〕
きっぱりと、あのひとは断言した。
〔この世界の誰もが否定しようとも。わたくしひとり、ただひとり、信じ続けます。でも───────〕
あなたも信じていてくれるなら、心強いです、と。
あのひとはそう言って、微笑んだ。
…………ああ、よかった─────────。
あのひとの言葉に、心の底から、そう
そう思えたのだ。
それまで心の中で渦巻いていた怒りも、どこかに消えて。
緊張の糸が切れたように、僕は、あのひとの前で、ガクンと片膝を地面に落としてしまった。
〔……ニフシェ・舞禅。これからはどうか、わたくしの、騎士になってください〕
───────え?
〔特に目的もなく世界を旅している、と言っていたでしょう?〕
───────それは、そう言いましたけど
〔なら、わたくしの騎士として働いても、
───────いや、なにが『なら』なのか、つながってませんけど
〔あら、では、嫌なのですか?〕
まったく、そんな言い方をされては、かなわない。
押しに押されて、押しきられたような。
そんな会話のさなかに、
夜明けと共に、僕は、あのひとの騎士になる契約を
〔すべてはお気に召すまま、気の向くままに。………でも、末永く、よしなに〕
そう言って
なんだ。
この時にはもう、あのひとのことが、好きになっていたのだ。
あのひとの
ああ─────────────────────困ったな………………。
今、まさに、死にかけていることを思い出してしまって。
同時に、
もう一度。
もう一度だけ、あのひとの。
姫様の笑顔を見たいと──────────────
*
目を開けているのか、開けていないのか。
意識が戻ったのはいいが、視界がはっきりとしない。
身体に苦痛は感じなかった。
だがこれは痛みが消えたわけではなく、肉体の限界を越えすぎて、痛覚が麻痺してしまったのだろう。
そのせいで、体調不良からくる精神的苦痛も感じない。
そうすると、意識があるだけでも、奇跡と言っていい状態だった。
しばらく落ちる感覚だけを感じていたが、断続的に目に入ってくる光景で、今、自分がどのような状態にあるかがわかった。
周囲は黒一色の虚空。
眼下には、黒い海と、暗灰色の都市。
海岸沿いにポツリと見えた、白い、できそこないのピラミッドの
そう───────どうやら僕は、神楽市の上空を、落下しているらしかった。
姫様が持つ魔法の護符を座標にしたとはいえ、急造でこしらえた〈銀〉では、おおまかな位置への次元転移しかできなかったようだ。
格好としては、ほぼほぼ頭から地上へ落ちる体勢で、落下中らしい。
元の〈
どの程度の高さから落ちているのかはわからないが、海面に激突したら、僕の肉体は
〈
…………まあ、姫様のいる世界で死ねるだけ、ましなのかな。
そんな、前向きなのか、後ろ向きなのかわからぬことを、うっすらと思い浮かべ。
───────高々度の空の気温は、マイナスだっけ、どれくらいだったっけ。
ほとんど死んでいる身体で、外気の心配をしても意味はないのだけれど、そんなことを考えるほかに、できることはなにもなかった。
もう、指先ひとつも、動かすことができない。
〈
〈世界〉ひとつ壊すために、この身に宿るすべての〈力〉を出し尽くしたのだから、当然の結果だった。
むしろ、それだけで済んで
このまま〈
……意識のほうも、秒ごとに、飛んでいる気がする。
空中で気絶したまま、海に落ちて絶命、という形に、なり、そう、か──────────。
まともに、思考も、できな───音と、目にす─────も、ない。
風の音。
自分の体が起こす音。
暗闇、街。
まだ明けない空。
闇───闇、闇、闇、闇、空、夜─────────────────────。
地上にひとつ、星が見えた。
薄れゆく意識が、そのかすかな光に、引き戻される。
───────それは、夜闇に包まれる中で
それが、徐々に増え、広がっていく。
人為的に封じられていた電力網が、復旧したのだろう。
…………地上の混乱は、収まっただろうか。
姫様とボーア老公は、無事に救助されただろうか。
あの男が消滅したことで、巨大な
手放しかけた意識で、ぼんやりと、あれこれ浮かぶ心配ごと。
今の僕にはもう、どうしようもないことばかりだけれど。
せめて、姫様の安否だけは、確認してから
それだけが、唯一の心残り。
…………………………………………………………………………………………と。
うっすらと、
それは、蒼い炎をまとった
まるで、地上から飛び立った流星のよう。
そう、その煌めきは、凄い速さで夜空を飛翔し、こちらに向かって近づいてきているのだった。
光速で飛んでいるのか、と、おぼつかない頭で錯覚するほどの、尋常でない速度。
…………確証はなかったけれど、その煌めきの正体に、心当たりがひとつあった。
唯一の心残りが、心当たり。
いやはや、なんの
嬉しいやら、苦笑したいやらの心持ちなのだが、残念なことに、表情筋すら動かすこともできないのが、今の僕である。
だから、自由落下に身を任せるがまま、待つことにした。
蒼い煌めきは、
やがて、その姿を、おぼろげに視認することができた。
僕の心当たりは、間違っていなかった。
二枚の青い翼を背に広げ、夜闇を飛翔する、少女の形をした蒼い煌めき──────────。
マリア・アルトヴェリア王女殿下。
僕の、一番大好きなひと。
姫様、だった。
姫様の無事な姿を目にして、心底ほっとする。
だが、姫様が、その顔に浮かべた表情が必死そのものだったので、不安もよぎった。
またあれから、何事か起こったのだろうか。
いや、それよりどうして僕が空を落下中だと気づいて─────ああ、魔法の護符を使ったのか。
……姫様は、僕の体へ手が届く距離まで近づくと、落下する僕に並行するようにして飛行を続けた。
そして、僕の落下速度と姫様の飛行速度が等速になった時。
姫様が、体当たり気味に、僕の体を抱きしめてきた。
グン、という軽い衝撃を覚えたかと思うと、落下速度が劇的に
視界が、夜の虚空の中にいるとは思えぬほどの、光に満たされる。
それから、姫様の顔が、ありえないくらい目の前に迫って──────────。
唇に、柔らかで、甘く、力のある感触を覚えた。
……………………えっ。
今の、は──────────────?
自分の身になにが起こったのか、きちんと認識する間もなく、姫様の顔は離れた。
それから今度は、僕の左首筋に、サス……と、優しく、なにかが触れた。
次の瞬間、僕の頸動脈が、爆発した。
もちろんそれは錯覚だったのだろうけど、それぐらいの、凄い灼熱感だった。
その熱が、僕の首筋から、一気に体の隅々まで広がっていく。
ああ。
これは、命、だ。
姫様が、僕に、ご自身の血を、分け与えられたのだろう。
僕の身体に、わずかだが、活力が戻った気がした。
それでついでに、思い出したことがあった。
〈
それは、自分の〈眷属〉に魔力を与える時に行われると聞いた。
そして………純血統の〈
緊急事態とはいえ、僕なんかのために、申し訳ないことをさせてしまった。
と、いうか。
そうだ。
〈銀〉に飛びこむ前に、姫様に告白してしまったのだった。
勢いで、庶民の、しかもどこの骨とも知れぬ若造が、暴走気味に、やってしまったのだった。
どうしよう。
今更だけど、どうしよう……!?
告白をするだけして、事件を解決したあとのことは、これっぽっちも考えていなかった。
………不敬罪とかに、該当しちゃったりするのだろうか。
いまだ体を動かすどころか、声を出すこともできない状態なので、姫様に弁解も謝罪もすることはできない。
心だけが、慌てふためいて、もどかしさと恥ずかしさで死にたくなる。
〈…………許しませんよ〉
ただひたすら狼狽する僕の心に、姫様の声が響き渡った。
え。
これは……?
〈わたくしの血を分け与えたのですから。……体を触れ合ってさえいれば、
そうなのか。
それはそれとして、再び響いてきた姫様の声に、怒気がこもっているのをひしひしと感じた。
あ、これ、黙ってたらまずいやつだ、と、直感でわかるくらいに。
これはやはり、不敬罪かなあ…………。
僕の心の声も、姫様に届くのだろうか。
姫様に向けて、思念を集中してみる。
〈……どういう理屈かわからないけど、そうなんですね。えー…………それで、その、姫様、やっぱり怒ってらっしゃいます?〉
〈……怒っています〉
姫様は、僕の首筋から顔を離すと、僕の目を覗きこんできた。
〈わたくしを、婚姻前に未亡人にするつもりだったのですか?〉
〈えっ〉
〈『えっ』ではありません! 何故、わたくしを置いて、ひとりであの男と戦おうとしたのですか! 絶対に、許しませんから!〉
〈えっ〉
姫様からの
今の今まで瀕死状態だった僕の頭は、ただでさえうまく働いていない。
だというのに、唐突に場違いな単語が飛び出てきたので、面食らったのだ。
婚姻前?
未亡人?
……とりあえず、答えられることには、答えておこう。
〈すいません。……でも、あの大儀式魔法で開かれた別次元への『扉』は、姫様の回復を待っていたら、間違いなく消えてしまっていたでしょうし、って
姫様から、耳をぎゅうっ、と引っ張られた。
〈そのようなことを訊いているのではありません!〉
姫様は涙目で、そんな理不尽なことを言ってくる。
いや、ちょっと、本気で姫様がわからない。
そもそもの意思疎通が、困難になってる気がした。
僕がそう困惑していると、姫様は、僕の体を抱きしめてきた。
〈─────こんなに、消耗しきって……。ひどい
無茶。
無茶だよなあ…………。
〈世界〉を身ひとつで滅ぼすようなことをしてきたのだから、まあ、なんと言い訳のしようもない。
言い訳はしないけれど、そうしなければならなかった理由は言える。
〈…………姫様と、姫様の信じるものを、守りたかったから。だから、頑張りました〉
〈─────────────────────────!〉
なにやら悲鳴のような、姫様の感情の波が、僕の心に伝わってきた。
〈……………………もうっ─────そんなことを言われたら、怒れないではありませんか………〉
……しばらくの間、お互いに無言で、僕らは夜空をゆっくりと落ちていっていた。
いや、より正しく言うなら、
おそらくは姫様の〈
気づけば、自由落下による激しい風圧もなくなっている。
姫様の、この蒼い炎をまとう光が、一種の結界として作用しているようだった。
おかげで、ようやく命の危険が去ったのだと、安心できた。
心に余裕も生まれてきたのか、夜空を姫様とふたり、遊覧飛行しているような気分にもなってきた。
地上の街灯りを眺めながら、ふたり、時間を忘れて、飛び続ける──────────。
それは、ロマンティック、なのかな。
………でも、このまま地上まで黙っているのも気まずいので、まずは、
〈姫様、あの男は─────〉
〈……ニフシェが倒したのでしょう。今は、それだけで充分。詳細は、あとで聞きます〉
姫様は、強い語調で僕の言葉をさえぎった。
〈……………もう少し。このまま、なにもかも忘れて、飛んでいたいのです〉
〈………わかりました〉
なんだかよくわからないけれど、素直に了解して、姫様の飛空に身を任せる。
うすっら考えていたことが、にわかに実現してしまい、胸の内が温かくなった。
しばしの間だけれど。
この限られた時間を、大切にするとしよう──────────。
……………………………………………………………………………………………………………………。
〈……もうっっ! どうしてなにも言わないのですかっっっ!?〉
〈ええっ!?〉
なんだか良い感じで、温かな気持ちに
台無しだ。
しかも続けて、ぷりぷりと怒った調子の感情が、姫様の心から流れこんできた。
〈そこは、ちゃんとささやくべき言葉というものがあるでしょうっっ!〉
えっ、なにを?
と、反射的に返しそうになった思念を、危うく押しとどめる。
間違いなく、火に油案件の受け答えになるところだった。
それにしても、ささやくべき言葉とは。
弱った頭でぐるぐると思考を高速回転させたけれど、
なので、素直な気持ちを、思念の波に乗せて送ることにした。
それは、姫様と無事再会した時に、真っ先に言うべきだったこと。
〈………姫様。この世界に、姫様のもとに帰ることができて、本当に、本当に嬉しいです〉
そして続けて言うのは、これからのこと。
〈─────どうか、これからもずっと、姫様のおそばに、いさせてください〉
〈───────────────っっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!〉
思念で僕の気持ちを伝えた瞬間、大歓声のような感情の激震が、僕の心を揺さぶった。
あまりの精神衝撃に、
その余波が治まらぬうちに、姫様は、ぽす、と僕の胸元に、額を押しつけてきた。
〈……聞きたかった言葉とは違いますけれど。それ以上のことを聞けたので、よしとします〉
それから、
〈
言質。
はて、今の会話のどこに、取られては困る言葉があったのだろう。
そう疑問が浮かんだが、明確な解答を姫様に問い
さらに言えば、全身に、じわじわと広がりだしている感覚が、追求する気力を
意識が遠のいていく感覚だ。
姫様から血を分け与えられ、命を取り留めたとはいえ、心身の極限的疲労は、消えてはいなかったのだ。
端的に言って、眠い。
このまま意識を
〈すいません、姫様。……少しだけ、眠らせてください。さすがにちょっと、疲れちゃったみたいで〉
姫様は、ぎゅ、っと僕の体を抱きしめ直してきた。
〈ええ。わたくしがちゃんと、起こして差しあげます。だから──────────〉
安心して、お眠りなさい。
そう言ってくれたのだと思う。
と、いうのは、姫様の言葉を最後まで聞き取ることはかなわず、僕は、眠りの淵へと落ちていったからだ。
そして最後に目にしたのは、見下ろす海と、街と、空──────────。
それらに、光の幕がかけられていたような光景。
もちろん世界が輝いているのではなく、姫様の〈
知らず、あの、白い〈街〉を思い出していた。
あの〈世界〉と、この世界。
ひょっとしたら、本当は、どちらも大差のない、狂える世界なのではないか………。
そんな思いが、一瞬だけ、僕の心をよぎった。
だから、僕は、眠りに落ちる瞬間。
半ば以上まどろんだ心の内で、祈りの言葉を
…………どうか、この狂える世界で生きるすべての人々に、祝福を。
そして。
「狂える世界とボヘミアン」完
狂える世界とボヘミアン メルヘンポエマー @merupoe
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