Ⅴ-154 予感、悪寒、傍観。
「…それで、どうだった?」
いつものように結果を尋ねると、イヅナは今日も首を横に振る。
今日でホッキョクギツネを迎えてからおよそ二週間。未だにホッキョクギツネが記憶を思い出す兆候はなく、取り戻す手掛かりさえも掴めていない。
「やっぱり…あの子が拒絶してるのが大きいのかもね」
イヅナ曰く、今の彼女の練度では拒絶している相手の記憶を弄ることはまだ出来ないらしい。
無理矢理記憶を書き換えられないことに僕は安堵しつつ、”まだ”という前置詞に軽く戦慄した。
「それって、やっぱり怖がってるから?」
「まあ…そうかも」
イヅナの返答は歯切れが悪く、何か別の可能性に思い至っているみたい。だけど、僕が詳しく尋ねる前にイヅナは向こうへと行ってしまった。
「少し、話してみようかな…」
口に出したら怒られちゃいそうだけど、僕はホッキョクギツネに対して少なからず自分と似ている部分があると思っている。
だから、話すことで彼女が記憶を取り戻すきっかけを掴めたら。
そんな思いで僕は部屋の扉を叩く。
「はい、どうぞ」
「入るね、ホッキョクギツネ」
中では敷かれた布団の上で、ホッキョクギツネが転がっていた。
「すみません、今朝から気分が優れなくて…」
「気にしないで、僕は大丈夫だから」
僕がそう声を掛けると、ホッキョクギツネは安心したように微笑む。
「よかったです。イヅナさんには座るように言われちゃいましたから…」
「…そうだったんだ」
イヅナのことだし、体調が優れないことに気づかなかったとは思えない。多分、わざとホッキョクギツネに辛い姿勢をさせ続けたんだ。
素直に従うホッキョクギツネも考え物だけど、直近の問題はやっぱりイヅナたちだ。
懸案はかくしてやはり形になって現れている。まだ明確な対立は無いけど、それだって時間の問題だろう。
「それで…まだ思い出せないかな?」
「…ごめんなさい。やっぱり時間が掛かると良くないですか?」
尋ねるホッキョクギツネの声は怯えているように小さい。縋るように布団を握る手は彼女の精神状態を端的に表している。
僕はこれ以上怖がらせないよう言葉と声色を選びながら諭すことにした。
「そう…だね。辛いことだとは思うけど、あんまり長くここに留まっていても良いことは多くないと思うんだ。覚えてないかもだけど、向こうにも君の友達はいるから」
「…友、達」
その四音で、ホッキョクギツネの顔の陰が深まる。なんとなく悪い予感が身に走ったから、僕はもう少しフォローをしておくことにした。
「で、でも、無理したって早くはならないからね…! 休み休み頑張ればいいと思うよ。幸い、時間は十分にあるから」
「…はい!」
ついに僕の行動は功を奏したようで、彼女の顔にも輝きが戻って来た。
記憶の話はここまでにしておこう。確か、ギンギツネが何かの用事でホッキョクギツネのことを呼んでいたはず。
それを伝えると、彼女は待ってましたと言わんばかりの勢いで部屋の外へと跳んで行く。
「あ、励ましてくれて、ありがとうございました…!」
一旦戻ってきてそんな言葉を残し、それを最後にホッキョクギツネは行ってしまった。
「アレは、料理のレッスンかな…?」
教えた分だけ技術を吸収してくれるからとても教え甲斐がある――と、ギンギツネが少し前に零していた。
三人の中で一番ホッキョクギツネとの関係が良いのはギンギツネに間違いない。何かあったとき、彼女が防波堤になってくれる嬉しいんだけど…
「…多分、手は貸してくれるよね」
だって、最終的にホッキョクギツネはホートクに帰すつもりなんだから。
そうやって理屈を重ねてもこの不安が消えないのは、僕が心配性になってしまったからではない。
只ならぬ予感が、頭の中に鳴り響いているのだ。
暖かいはずの部屋の中で強い悪寒に見舞われながら、僕はそぞろ歩きで部屋を後にする。
とても寒いはずの廊下が、どうしてかふんわりと暖かかった。
―――――――――
「…あ、会うの…オイナリサマに?」
冗談であってくれと願いながら訊き返す。イヅナの提案は、爪の先ほども冗談ではなかった。
「ホッキョクちゃんのことを訊くなら、それが一番手っ取り早いでしょ?」
「そ、そうだけど…」
最短ルートが一番楽とは限らないし、今回の話に絞って考えれば危険は決して少なくない。
ホッキョクギツネの記憶喪失の原因は、少なからずオイナリサマの占める割合が高いはず。オイナリサマは…危険だ。
「ノリくんの心配なら大丈夫、ホッキョクちゃんは宿に置いていくよ」
「…まあ、妥当だね」
もし本当に会いに行くなら僕もそうする。だけどこれは最低限の予防策で、ホッキョクギツネの安全を確保するには全然足りない。
あのオイナリサマはきっと平気で祟る。そんな神様に触れに行くんだ、並みの備えでは安心できない。
…感情が顔に出ていたのかな。イヅナが呆れたように笑って、僕の不安を払拭するために言葉を紡ぐ。
「ノリくん…思い出してみて? オイナリサマはホッキョクちゃんの息の根を止めずに、私たちに押し付ける道を選んだの。きっと殺したくない理由がある筈、まかり間違っても殺しに来たりなんてしないよ」
「…間違いないよね?」
「もちろん。例え何かあっても、ノリくんだけは私が守るよ」
あはは…そっか、僕しか守ってくれないんだね。
そんなことを思って、僕は静かに首を振った。違うよね、イヅナは僕さえ守ってくれればそれで十分。
イヅナが僕を守ってくれれば…僕は安心してこの宿にいるキタキツネにギンギツネ、そしてホッキョクギツネを守ることが出来る。
「じゃあ…行ってみよっか」
ホートクでの真実を確かめに行こう。
その上で決めるんだ。ホッキョクギツネに記憶を思い出してもらうか否か…そしてホッキョクギツネをこの先どうするか。
願わくば、全てをオイナリサマと出会う前の状態に戻せますように。
『そんなこと出来ない』と一瞬感じてしまったのは果たして予感か。それも一緒に、確かめて来よう。
「それで…結界はこの辺り?」
「多分そうだけど…やっぱり結界は見えないよね~」
僕らは今、ロッジから東に進んだ辺りの場所にいる。この辺りには鮮やかな緑色を見せる平原と林が広がっていて、僕らが探っているのは丁度それらの境界だ。
ホートクから結界を移してきたオイナリサマは、この周辺に見えない結界の出口を設置したと考えられている。目撃情報がここに集まっているかららしい。
だからイヅナの妖術の力も使って探しているんだけど…これがまあ見つからない。
ホートクの時はオイナリサマ自ら案内してくれたし、境界に特徴的な霧を漂わせていたから分かりやすかった。
今回はそれが無い。オイナリサマが来る前と後で、この周辺の状態は何一つと言って良いほど変わっていない。神依君が戻りたがっていたから来ただけで…例えホートクに居ても同じような感じだったのだろう。
「何だろう、”会ってからどうしよう”って一生懸命考えてたのがバカみたいだよ」
「ふふ、会うのがこんなに大変だなんて私も思ってなかった」
大変大変…と口にしながら、イヅナは楽しそうだ。
その程良い手の抜きようを見ると、わざと二人きりの時間を引き延ばそうとしているようにも見える。
僕に出来ることは何も無いから、文句なんて言えっこないんだけど。
「何か…呼んでみれば会えないかな…」
ダメで元々の考えだけど、元々何も出来ないんだから試してみることにした。
「オイナリサマー! お話できないー?」
思いっきり…まあ、三割くらいの声量でオイナリサマを呼んでみた。
……。
案の定返事は無い。
「あはは…やっぱりダ――」
「え、ノリく――」
予測しきっていた失敗に項垂れ、今度こそイヅナに全て任せようと思ったその瞬間…真っ白な霧が僕らを包み視界を奪っていく。
僕はそれがオイナリサマの”招待”の証だと察し、その白に身を任せるのだった。
―――――――――
「久しぶりだね、オイナリサマ。頼んでおいてアレだけど…どうして入れてくれたの?」
「うふふ。私は高貴な神様ですよ、頼みも伝えずに探り回る者に対して門扉を開くと思いますか?」
「あはは、そっか」
どうやら、素直に頼むのが一番早い方法だったみたい。
「それで入れてくれたってことは…お話してくれると思って良いのかな」
「ええ。…内容によっては、少し場所を変えないといけませんが」
オイナリサマはそう言って振り返る。僕らも彼女の背後へ視線を向けると、こちらへと歩いてくる人物がいる。
「祝明…それに、イヅナ?」
よもや他に可能性は無いのだけど…一応確認しておくと、それは神依君だった。
「神依君も久しぶり。でも今日は、オイナリサマに確かめたいことがあって来たんだ」
「そうか…」
神依君は一歩引いて僕らを見ている。大方、オイナリサマが明るくない顔をしているから行く先を警戒しているんだと思う。
僕だって余計な刺激はしたくない。
イヅナとの目配せで最後の確認をして…僕は遠まわしな表現で、ホッキョクギツネについて教えるようお願いをすることに決めた。
「お宝について詳しく教えて欲しいんだ。頼めるかな?」
「……うふふ、そうでしたか。では、私の部屋でお話いたします」
オイナリサマは含みのある笑いを浮かべ、僕達を彼女の部屋へと案内する。
地図に書かれた『お宝』が『ホッキョクギツネ』であることは、今まではただの推測だった。だけど、今それが事実であると確かめられた。
「…福袋みたい」
「え、どういうこと?」
「あぁ、ただの独り言、気にしないで」
外の世界では、年始に”福袋”と称して売れ残りの詰め合わせを売りつける商売が流行っているらしい。…まあ、全部とは限らないけど。
処分に困っているものを他人の手に押し付ける…オイナリサマの行動はまさにそれで、もっと質が悪いとも言える。そもそも僕達は何も買っていないのだ。
敢えて言うならば、喧嘩を売りつけられたような感じだけど…生憎、神様と戦いたいとは思わない。
そんなこんなでしばし歩いて、扉の前に着いた時。扉の取っ手に手を掛けながら、オイナリサマが思い出したように僕の方を見て問いかけた。
「ところで、あの子はどうでしたか?」
「…え?」
突如飛躍した質問に戸惑ってしまう。
固まる僕を見たオイナリサマはクスリとして口を隠し、訂正して質問の意図を教えてくれた。
「…いえ、失礼しました。コカムイさんのことですからてっきりもう食べてしまったのかと」
「……えっ!?」
コンマ数秒遅れて理解し、僕は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、なんてこと言うの!?」
「これはすみません…ふふふ…!」
抗議の声を上げ食って掛かるイヅナをオイナリサマはひょいひょいと躱し、扉を開けて部屋の中へと招く。
「これからということですね、頑張ってください」
「そんなことしないよ、ホッキョクギツネはホートクに帰すから」
「あら、いつ頃ですか?」
僕がその予定について話すと、オイナリサマは楽しそうに僕の顔を覗き込んで尋ねる。
「…記憶が戻ったら帰してあげるつもりだけど」
「…ふふ」
「何がおかしいの、私たちはふざけてないんだけど」
「うふふ、だって…コカムイさんも酷なことをするんだなって思ってしまって」
クスクスとあざ笑うように肩を揺らす彼女は、とてもホッキョクギツネを憐れんでいるようには見えない。
「酷なことって?」
「アハハ、よりにもよって記憶が戻ってから帰すだなんて…残酷以外の何物でもないとは思いませんか…?」
「全てあなたの所為じゃない? 思い出さない方が良いような事を、あなたがあの子にしたんだから」
「……ええ。では、そのお話をしましょうか。少し長くなってしまいますが…構いませんよね?」
僕達は揃って頷く。
するとオイナリサマも満足げに頷いて、大層楽しそうに自らの所業を語り始めた。
聞いて想像してそれだけで、痛いほどの眩暈を起こしてしまいそうな神様の遊戯を。
――そんなある日の自白劇。真っ白な影が部屋には三つ。
「そう…だったんだな……」
部屋の外には黒い影。
彼は見開いた双眸に、先に立たぬ後悔を深く湛えていた。
もはや、彼に出来ることは何も無い。
賽はもう、彼の手から離れてしまったのだ。
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