Ⅴ-152 ドジっ娘白狐はがんばれない?
『第269日目
今日は大体いつも通りの一日だった。
ホッキョクギツネを住まわせてから今日で三日目。大きなトラブルも見当たらないし、イヅナに聞いたところ体力の回復も良い調子らしい。
反面、精神的にはまだ不安定に見える。今日も彼女の部屋からは度々うめき声が聞こえた。彼女曰く”思い出せない”記憶が苦しめているのだろうか、そう思うと他人事には思えない。
彼女自身とも話し合って、ホッキョクギツネの記憶が戻ったらホートクに帰してあげることにした。
ギンギツネはこれに不服の様子。理由を聞いたけどはぐらかされてしまった。
それとやっぱり、僕が懸念していた嫉妬心は根深いみたい。
ホッキョクギツネを帰して、この生活が元々の形に戻るまで大きな事件が起こりませんように。
この一文をを末に添えるのも、すっかり癖になってしまいそうだ。』
「よし…こんな感じかな」
今日の分の日記も書き終えて、僕は閉じたノートにペンを乗せた。
深く息を吐いて体を伸ばしていると、珍しく気を利かせたキタキツネがお茶を淹れてくれた。
「ノリアキ、それ書くの好きだね。楽しい?」
「結構楽しいよ。文字に起こすために今日のことを思い出せるし、やっぱり…何だろう、ちゃんと形に残しておきたいんだ」
ただでさえ素早く過ぎ去っていく時間に、楽しくも変わり映えのしない毎日。
日記を書いていれば、普通は見過ごしてしまうような些細な違いさえも掘り出して大事に残しておくことが出来る。それはきっと、素晴らしいことだ。
と言っても…再び日記を書き始めたのはホッキョクギツネと出会った三日前で、日付は僕がこの島に来てからの――僕が生まれてからの――日数。
イヅナに聞いたら教えてくれた。毎日欠かさず数えているらしく、そのひたむきさには舌を巻いた。
だから僕も、これが三日坊主にならないように努力しよう。
「そっか、まだ一年も経ってないんだ…」
「あはは、だから僕の歳はまだ…九か月足らずってことになるんだね」
不思議な気分だ。
外の高校生相応の知識があって、かつ普通の人間のように活動できているのに、体は一年にも満たない時間しか過ごしていないなんて。
「そう考えると、フレンズに近いかもしれないね」
「…確かに。ボクたちも、生まれてすぐに喋ったり動いたり出来たもん。じゃあノリアキ…ボクと一緒だね!」
「…多分、ギンギツネもだけどね」
軽い気持ちでそう言うと、キタキツネの機嫌は途端に悪くなった。
「む、今はギンギツネの話しないで…っ!」
「ご、ごめん…」
ズンズン頭突きをしてくるキタキツネを撫でながら、軽率な自分の発言を反省する。
やるべきことも終わって眠いのかもと思い、キタキツネを布団へと誘った。
「寝る、寝るの!?」
「…そう、寝るだけ」
「…ちぇっ」
体力が尽きる様子の無いキタキツネの元気っぷりに呆れ、僕は苦笑する。
布団は二人の熱を包み、深くまで毛の絡みあった尻尾は融けて混ざってしまいそうだ。
障子の向こうにぼやけて見えるお月様を薄目に、夜は静かに解けていった。
―――――――――
「あ、お二人ともおはようございます! 昨夜は…ええと…そう、お楽しみでしたね!」
目覚めて着替えて居間に出て、一番に掛けられる言葉がこれだとは。
「えっと…何処で覚えたのかな、その言葉」
「ギンギツネさんが、そう言ってあげると良いって…」
思わず強張った口調でホッキョクギツネに尋ねるとそんな答えが返って来る。
「あはは、相変わらずだね…」
”いたずらごころ”に先制されて、なんだか眠気も抜けてしまった。
「うふふ、本当にお楽しみだったんでしょう?」
「…ノーコメント」
笑わぬ目とニタニタした笑みを貼り付けてやって来たギンギツネには素っ気なく言葉を渡す。
「あら、もしかして怒ってる? ちょっと悪戯したくなっただけよ、そんな風にしなくたって良いじゃない」
「それより、朝ご飯は?」
「撫でてくれたら教えてあげるわ」
別にそれくらいならいっか。そう思って頭に伸ばした腕は途中で捕まえられる。
「…どうしたの?」
ギンギツネは問いに答えず、掴んだ腕を少しずつ下に引っ張っていくと、やがて僕の手は彼女の胸元へ…
「って、何してるのっ!?」
「あら、頭を撫でてなんて一言も言ってないわよ。…ね、もっと良い場所撫でてくれない?」
「…っ!」
僕は力任せに腕を振り払って、強引にわしゃわしゃと頭を撫でた。ギンギツネはまた不満気に頬を膨らませるけど、ちゃんと撫でたんだから文句は言わせない。
「ほら、早く用意してね」
「はいはい…でもノリアキさん」
「…な、何?」
「もっと乱暴な撫で方も…私は好きよ?」
「……そ、そう」
人差し指を唇に当て、艶めかしく呟いて消えるギンギツネ。
今朝も、彼女には勝てなかった。
―――――――――
「ふう、美味しかった…ごちそうさま」
いつも通りの昼食の後。
食べ終わったてお箸を置くと、横から手が伸びかっさらう。
驚いて手が伸びてきた方を向くと、ホッキョクギツネが両手で力強く箸を掴んでいた。
…なんで、片方ずつなんだろう?
「えっと、え…?」
困惑し、見ていることしか出来ない僕。
ホッキョクギツネはその様子をどう誤解したのか、大変なことに気付いた様子でお皿まで持って行ってしまった。
「あ、一緒に皿もお下げしますねっ!」
「いや、それくらいは…あぁ、行っちゃった」
ドタドタバタバタガンガンガン。
見ていて不安になる足取りでキッチンに消えたホッキョクギツネ。
十中八九ギンギツネの差し金だと思い、僕は代わりに彼女へ尋ねることにした。
「アレ、ギンギツネがさせたの?」
「ええ、彼女はとても精力的に働いてくれてるわ」
「…やめようよ、働かせるために置いたわけじゃないんだしさ」
ガシャーンッ!
「あー、割れてしまいましたー!?」
無言で視線を交わす僕とギンギツネ。
「それに…ほら、ね?」
「…確かに、考え直す必要があるみたい」
深くため息を吐いて立ち上がろうとするギンギツネを止め、僕が代わりにホッキョクギツネの様子を見に行く。
キッチンの状態を一目見て、僕は絶句した。
床には破片が散乱し、ついでに調味料が池を作る。その中で派手にすっ転んでいるホッキョクギツネの姿勢は、目のやり場に困る如何わしさを醸していた。
「…大丈夫?」
「お、お手間をお掛けします…」
「うん、本当だよ」
流石に僕一人では無理な惨状。とても放置はしておけない。
安全の為、ホッキョクギツネに手頃なテーブルクロスを掛けてから、ギンギツネを呼びに行った。
そしてギンギツネがやって来て、後始末は任せてと封鎖されたキッチン。僕は念のため、中の様子に聞き耳を立てる。
「あらあら、大変ね。可愛らしいドジなんて踏んで、ノリアキさんの気を引くつもりだったのかしら?」
「いえ、そういう訳では…」
「うふふ、幸運だったわね。もしもあなたが変な恰好で彼を迎えていたら、私我慢ならなかったかもしれないわ…さあ、助けてあげる」
「……あ、危なかったかも」
向こうに小さく聞こえた声で、さっきの行動が正解だったことを僕は悟ったのだった。
―――――――――
片付けが終わった後は、お茶を飲みながら居間でひと時。
「…まあ、元気出して?」
「はい、頑張ります…」
項垂れたホッキョクギツネのその言葉を聞いて、調子が戻るまで長くなりそうだと感じた。
「わたし、やっぱりダメなんでしょうか」
励まし掛けても暗いまま。彼女の非を無くす方向に持っていくことは難しいと思った僕は、それとなく矛先を逸らした。
「さあ、半病人を働かせるギンギツネも大概だと思うんだけどね…」
「でもわたしが大失敗した事実は無くなりませんよね。えへへ、わたしったら、本当にドジでマヌケで…」
…根深いなぁ。ホッキョクギツネは笑いながら自嘲している。
自分のことが何一つ分からない不安が彼女にそうさせているのだと、他人事ながら境遇の近い経験者として、僕はそんな風に考えていた。
だから、ホッキョクギツネには親切にしたくて。
「だから、記憶も失くしちゃったんでしょうね」
…だから、その言葉は捨て置けなかった。
「違うよ、ホッキョクギツネは悪くない。少なくとも、記憶を失くしたのはキミの所為じゃない…!」
「コカムイさん…」
「仕方ないことなんて沢山在るんだから、全部背負ってちゃキリ無いよ。その…だから…大丈夫、だよ?」
勇んで声を上げたのに、最後は曖昧でグラグラしてて。
そんな情けない励ましなのに、ホッキョクギツネは受け取ってくれた。そして気が楽になったと言って、安らいだ様子で微笑んだ。
「それで、もし良ければ…コカムイさんのお話を聞かせてくれませんか? 何となく、私とコカムイさんは似ている気がするんです。だから、何か参考になるかもって思って…」
「僕の話が役立つのなら…うん、話すよ」
そしてギンギツネが戻って来るまでの間、僕は自分の今までの話をホッキョクギツネに語り続けた。
目覚めた時の混乱。居もしなかった『自分』を見つけられない焦燥。
イヅナとの出会いと、彼女の欲望と向き合った屋敷での日々。解決したかに見えて却って悪化し、望まぬ形で表に出てきたキタキツネとイヅナの軋轢。
『最悪』を防ぐための三角関係に、自らの蟠りを無くすために呼び寄せた神依君との出会い。少しして、災害とも呼べるセルリアンとの戦い。
そして最近になって、ギンギツネまでもがその想いを露わにしたこと。
そのお話も終わって、いよいよホートク旅行の話をしようとしたその時、ギンギツネが戻ってきてしまった。
「…ふう、ここまでだね」
「”ここまで”…? 一体何をしてたのかしら」
「ただの昔話だよ、聞きたいって言うからさ」
「…そう」
何度も聞いた無関心な返事。気にしてないかもと思ったら早速ホッキョクギツネをこき使い始める。
「ぎ、ギンギツネ…」
「…この子の肩を持つの?」
「そうじゃなくて、飽くまで回復を待ってるんだからさ…ちゃんと回復するようにしないと」
「分かってるわよ、それくらい…」
珍しく負の感情を強く見せるギンギツネ。ホッキョクギツネが現れたことによる影響は、キタキツネだけにとどまっていない。
やはり、近いうちにこっちの対処も考えなくては。
ホッキョクギツネが帰れるようになるまでに、誰かが爆発してしまわない保証はない。ましてや、何も起こらない可能性の方が極めて低いのだから。
「ノリアキさん…偶には、捨てたっていいんじゃないかしら」
「…ホッキョクギツネのことを?」
「今回はそうだけど、別に今に限った話じゃないわ。見捨てないのは美徳だけれど、良いことばかりじゃないのよ…?」
目に薄く涙を浮かべ訴えるギンギツネ。僕も事実として理解はしている。僕の行動が、三人に深い不安を植え付けていることも。
「それでも…ダメなんだ。それは出来ない。呪われてるんだよ、僕はきっと」
「ノリアキさん…」
「それに…ね? 僕が”コレ”を捨てちゃったら…もう、誰も死なない未来なんて絶対に保証できない。そうでしょ…ギンギツネ」
「…ええ、その通りね」
記憶を取り戻すまでの辛抱。そう言って、僕はまだ時間を繋いでいる。
けど…”ホッキョクギツネが記憶を取り戻せばまた元通りに暮らせるようになる”なんて世迷言の、いったい何処に保証があるというのだろう?
”忘れたい”と願ったであろう記憶を取り戻してしまって、果たして平穏が訪れるというのだろうか。
少なくとも僕には無理だった。記憶を呼び起こして、神依君と出会って、決定的に世界は変わってしまった。
「大丈夫、思い出せれば終わるから。難しくてもさ、イヅナに頼めば割とどうにかなるよ…多分」
僕はそう言って、ギンギツネから目を逸らした。ホッキョクギツネにも顔向けできる気分じゃない。
あとどれだけ、このハリボテが保ってくれるだろう。
向こうを走るホッキョクギツネの背中を見送りながら、僕は幻を大事に抱え込んでいた。
―――――――――
「そっか、そうだったんですね…」
聞いた。聞いてしまった。
あの人の気持ちを、わたしを匿ってくれた訳を。
嬉しかった。理由はどうあれ、自分を助けようと本気で思ってくれていたことに。
そして、不安にも思ってしまった。
「わたし、向こうでも生きていけるんでしょうか…」
自分の身に起きたこともまだ思い出せない。思い出すべきかどうかなんて分かるはずもない。
怖い。
同じことが起きたら、今度こそ死んでしまうかもしれない。
その点、時折射殺すような視線も感じるけど、ここはまだ安全だ。
「ずっと思い出さなければ、ずっとここにいられるんでしょうか…?」
上手に甘えれば、あの人はきっと自分をここに置いてくれるに違いない。
「えへへ…もう…一人で生きていける気がしません…」
何とかして、繋ぎ止め続けないと。
それが出来ないのなら、わたしは――
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