Ⅴ-151 楽園は壊させない
かくかくしかじか。
晴天の霹靂と呼ぶべき再会を果たしたホッキョクギツネから色々話を聞いて彼女が重度の記憶喪失を患っていると知り、僕は彼女をしばらくの間宿に置いておくことに決めた。
怯える彼女は洞穴から中々出ようとしなかったけど、どうにか説得して連れてくることが出来た。
徒歩数十分の道のり。
宿に着いたころには日が少し傾き始め、雲も掛かって世界はほんのりと暗くなっていた。
「…ただいま」
帰りを知らせる声も震えている。寒さなんかよりもずっと色濃い緊張が舌を痺れさせる。
「もう、遅かったじゃ…ん…ノリ、くん?」
「…ごめん、事情は説明するから」
「そ、そう…」
僕を迎えに出てきたイヅナは、隣に縮こまるように立っているホッキョクギツネの姿を見てとても驚いている。
当然だ、僕も同じ気持ちだ。蜃気楼か、質の悪いダイヤモンドダストでも見たのかと思った。
結局、僕は彼女を置いて帰ってこれなかったけど。
「じゃあ、根掘り葉掘り聞かせてもらうからね」
「…あ! は、はじめまして…」
イヅナの睨みつける視線を浴び、ホッキョクギツネはブルブルと震えながらたどたどしい挨拶をする。
その時つい僕の袖を掴んだせいで、イヅナから向けられる圧はもっと強くなってしまった。
「ひっ…!?」
更に震えを強くしながら、ホッキョクギツネは袖を放さない。臆病な上に強情なのか、もしくは威圧される理由が分からないほど憔悴しているのか。
このままでは悪いと感じ、僕はイヅナを宥める。
「イヅナ、今は抑えてくれないかな…?」
「…分かった」
早く入ってきてねと言い残し中へ消えるイヅナ。
「あ、えっと…わたし、大丈夫でしょうか…」
「保証は、しかねるね」
正直、既に薄っすらと後悔の念を感じている。
こんなところに連れてこず、近場のフレンズに預けた方が良かったのかもと考え始めている。
「…だけど、出来る限りは守るつもりだから。危なくなったら、逃がすことにするよ」
連れて来たのは僕の責任だ。彼女を捨てておいてはいけないと感じた。
その理由は自分でもまだ明確に掴めてはいない。だけど僕はとにかく彼女を死なせたくなかった。
今はきっと、それで十分だ。
「じゃあ、入るよ」
「は、はい…!」
ようこそ、雪山の宿へ。
彼女にとっては到底安らげるような場所じゃないけど、どうにかなりますように。
―――――――――
僕が危惧していた通り、ホッキョクギツネの第一印象は驚くほど芳しくなかった。
「ふーん…偶然洞穴で出会った、ねぇ…?」
猜疑の目が向けられる。
それはギンギツネにとってはごく自然に持ちうる弱い疑いだったが、それでも今の弱り切ったホッキョクギツネを委縮させるには十分なほどの敵意だった。
「い、いえ、わたしは…」
早速泣き出しそうな気配を感じて、僕はフォローに回る。
「本当に偶然だよ、それは間違いない」
「そうかしら。ノリアキさんは本当に…全てが偶然だって思ってるの?」
「う……」
面と向かってそう尋ねられると、簡単に首を縦には振れない。
斯く言う僕自身も、この件にはかなり疑わしい部分があると思っている。
「大体ね、ホートクにいるはずのこの子が、何の理由もなく偶然キョウシュウに来るなんて…そんなこと、起こるはずがないでしょ?」
「それは…その通りだよ」
鋭く核心を突きながら、ギンギツネはまだその名前を口にしない。
一番の元凶は、僕の言葉で話題に挙げて欲しいのかな。
…ならそうしよう。
「ホッキョクギツネは、オイナリサマが連れて来た。その可能性が高いと思う」
「いいえ、確実にそうよ」
ギンギツネが僕の言葉に被せるように訂正した。
「曖昧な表現は良くないわ。テレポートを使った痕跡が見えない以上、現状他の可能性なんてありえないもの」
更にギンギツネは続ける。
「オイナリサマが連れて来たのなら疑問は無くなるわ。イヅナちゃんの術に頼る必要も無いし、結界ごと飛んできたって話だし」
「じゃあ、オイナリサマに会って聞いてきたら…?」
キタキツネが出した至極真っ当な提案。しかしギンギツネは首を振る。
「無理よ、結界がある場所が分かってないわ」
「…そうなの?」
「ギンちゃん曰く上手に隠してるらしくてさ、別に私たちは探してないからいいけど」
更なるギンギツネの談に因れば、ロッジから海へと進んだ方向の何処かに有るのではないかとおおよその当ては付けられているらしい。
…なんで?
「まあ、なぐ…乗り込めない以上これ以上は無駄よ。別の話をしましょ」
何だか聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がした。
「今、殴り込むって…」
「…ノリアキさん?」
「……そ、そうだね。話を変えよっか」
でもまあ…時には聞き間違えてしまうことだってあるよ。けものだもの。
「それで、
「雪の中にポイッ!」
「却下よ、キタキツネ」
「うぅ…」
落ち込まないでキタキツネ、こっち見ないでキタキツネ。流石にそれは賛成できないよ。
「じー…」
…えっと、フォローしなきゃダメな感じ?
「大丈夫だよキタキツネ。今回はアレだったけどほら、この方法が役立つ日もいつか来るかもしれないからさ」
それがいつかは知らないし、来るべきなのかも分からない。
曖昧で不確かな慰めの言葉は、頭を撫でる手で有耶無耶に隠してしまうことにした。
「えへへ…」
キタキツネは幸せそうに笑う。
明らかな僕の嘘に気づいていないのか、それとも初めから真偽になど興味は無いのか。蕩けた表情を見る限り、心底どうでも良さそうだった。
「わ、わたし、捨てられちゃうんですか…!?」
「…少なくとも僕は、そんなつもりはないよ」
「そ、そうですよね…!」
遅れて怖がるホッキョクギツネに安心させる言葉を掛けて、僕は休まらぬ頭で考える。
――僕はホッキョクギツネをしばらくここに住まわせておくつもりだ。
原因はさておき彼女は酷く弱っていて、下手をすればそこらの小さなセルリアンにも食い殺されかねない。
ただ生かすだけなら他の場所でも構わないけど、彼女が暮らしやすいのはやはり雪山だろう。それなら宿に置いておくのが最も安全だ。
…ええと、非常に残念なことに”イヅナたちの存在を考慮しなければ”の話だけど。
(上手く説得できなきゃ…セルリアンより先にキタキツネ辺りにコロッと殺られちゃいそうなんだよね)
キタキツネだって冷静に考えればそういうことはしないと思うけど、如何せん理性を失う頻度が他二人よりも多い。
(だからキタキツネには特に個別で対処して…イヅナとギンギツネには、直近の危険は無いはず)
十分に回復させれば、ホッキョクギツネはホートクに帰すことが出来る。
二人の懸念は理解できる。その可能性を絶ってしまう方法も提案できる。
それでも怖いなら、彼女に手を出さないことを条件に世話を全て任せてしまってもいい。
…死にさえしなければ、それで何とかなるはずだから。
「…ふぅ」
改めて考えを纏め、落ち着いた息を自然と肺から吐き出せた。
「…決めたんだね」
「決めた。ううん…ずっと前から決まってたよ、イヅナ」
「あはは…そうだね、ノリくんはそうだ」
僕の頭の中を…覗いていたわけではないだろう。
ただイヅナとは無意識の段階から一番長い付き合いだし、イヅナだけは神依君の記憶を通して、僕の中にある恐怖を誰よりも一番よく知っている。
イヅナは止めなかった。諦め混じりにも許してくれた。
今度はそれを、宣言するだけ。
「ホッキョクギツネは…しばらくここに住まわせておくよ」
「えっ…!?」
「やっぱり、そう言うのね」
対照的な反応。
そんなので言葉は止められない。
「あくまで、体調が戻るまで。十分に回復したら、ホートクに飛ばして送ってあげるつもり」
「で、でも、ノリアキ…!」
机を揺らして叫ぶ。瞳には恐怖の色が浮かんでいる。
切り札は、ここで使おう。
「やっぱり、僕じゃ出来ないことがある。身体の勝手もそうだし、少しは神依君に似てるから怖がられてしまうかもしれない」
事実、彼女はサラっと流れるように出てきた彼の名前にも只ならぬ畏怖を示している。
「だからお世話は、みんなに任せてもいい?」
…時間が止まった、ように思えた。
みんな考えている。
その心中は分からない。
僕はただ祈るだけ。ホッキョクギツネの命が救われるように。
そしてしばらく経った後…一人が口を開いた。
ある意味僕が一番肯定の言葉を求めていた彼女が、声を出した。
「それだったら…ボクは、良いと思う」
「…ありがとう、キタキツネ」
すると後の二人もキタキツネの様子を窺っていたのだろうか、次々に承諾の意志を示す。
「わたし、ここにいて大丈夫なんですよね…?」
肯くと、儚い笑顔が咲いた。
僕は一先ず形だけでも保たれた小さな楽園の未来に安堵し、そして次なる懸念を頭に浮かべた。
「問題はやっぱり、オイナリサマかな…」
現状全ての元凶と考えられていて、会うことがとても難しい神様。
どういう対応が一番なのか考えているとイヅナがこんなことを言った。
「大した理由じゃないんじゃない? 精々粗大ごみの処理ってところでしょ」
「い、イヅナったら…!」
「そだい、ごみ…? それって多分、良い意味じゃないんですよね…」
落ち込んだホッキョクギツネは宣言通り早速ギンギツネに預けて、僕はまた癖となった思索に耽る。
…けど、そっか。
結局のところ厄介者を押し付けただけかもしれないなら、わざわざ会って事態が進展する可能性も低い。
下手に彼女を連れて行って、今度こそとどめを刺されてしまっては話にならない。
「まあそうね、後々事実確認にだけ行ったら良いじゃない。この子を帰した後でゆっくりね」
「それが…安全かな」
ため息が出るほど自分勝手な神様の話もコレでお終い。
真っ白な新しい仲間を迎えて、宿はまた時を刻み始める。
「終わったなら、ゲームしていい?」
「もちろんだよ、時間取っちゃってごめんね?」
「いいよ。でもボクいっぱい我慢したから、ほら…褒めて?」
「ふふ。はいはい、偉いねキタキツネ」
「あっ、私は!?」
「イヅナちゃんは関係ないじゃん…っ!」
「わわ、わたしは一体どうすれば…?」
「ならホッキョクギツネちゃん、こっちでお昼ご飯を作るのを手伝ってくれるかしら」
「でも…わたしに出来ますか?」
「大丈夫よ、一から教えてあげる」
紡がれる光景は平和そのもので、裏側に隠れているドロドロした心情なんて忘れてしまえる。
例え本心がどうでも、普段からこんな風にしてくれればなぁと……諦めた夢を僕は笑った。
――こうして結ばれたまだ白い糸。それが赤く染まってしまう未来の可能性に僕は思い至らない。
もう解けない運命で雁字搦めにされていた僕に、知る由もない。
そして、知った頃にはもう――
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