Ⅴ-149 神様のお遊戯
じめっと湿った空気の部屋に、有象無象が犇いている。
生きてはいるが活気を持たず、ただただ怠惰に呼吸をしている。
そして、確かに牢の中にいる彼女はまるで人形のように倒れ臥し、その生気亡き姿は私に彼女は本当は死んでしまっているのではないかと錯覚させる。
「…ぇ、オイナリサマ?」
「よかった、ちゃんと生きていたんですね」
この時私は本当に安堵し、同時に彼女のゴキブリの如きしぶとさに強く感謝の念を覚えた。
ああ、本当に良かった。
もしあのまま死なれていたら、秘密裏に処理しなければならない粗大ゴミが増えてしまうところだったから。
「ところで調子はどうですか?」
「そんなの…けほっ…良い訳が、ないじゃないですか…」
「ふふ、それもそうですね」
確かにここは酷い場所。
元から相当に劣悪な環境だったけど、最近やった実験のせいで死に切れないセルリアンの残骸が散らばったりして、今では更に悲惨だ。
結局自分で閉じ込めたのだけど、よくこんな場所で生きていけるなぁとは思っている。
そもそも生きていなければ困るのだから、近いうちに十分な環境を…おっとっと、これからすることを考えればそれは必要ありませんね。
大体、快適な暮らしをさせることも私にとっては不愉快極まりないのです。
私の許可なく神依さんと知り合い、あまつさえ手を出したコイツだけは…
「さて、もう反省しましたか? 私に謝りたくなりましたか?」
「どうしてですか、わたしはただ…」
「…まだ口答えするんですね」
「うっ!?」
煮っ転がし…じゃなくて寝っ転がした彼女の腹を程良い力で踏みつける。
いけませんね、今日のお昼に作る予定のおかずの名前が出てきてしまいました。
「いい加減に理解できませんか…? 私は、あなたが神依さんに手を出したことが許せないんですよ…!」
「かはっ…だから、わたしは…わたしは…!?」
突如として目を見開き、頭を抱えて呻きだしたホッキョクギツネ。…あ、決して私が頭を踏んずけているのではないですよ?
「あらあら、苦しそうですね…もしかして、神依さんが…?」
「や、やめてくださいッ! その名前を…出さないでください…!」
神依さんの名前を口にした途端に取り乱す彼女。今日も完璧な反応だ。
「うふふふ…! えぇ、貴女がそう言うのでしたらそうしましょう…!」
よし、大丈夫。問題ない…全て、計画通りに進んでいる。
彼らに謎を送るいう形でお膳立てをすることも、無意識下に働きかけてホッキョクギツネに神依さんへの嫌悪感を植え付けることも、私の思い通りの結果を生んでいる。
もうすぐ仕上げだ。
ホッキョクギツネをあの場所に押し付け、私は神依さんの心を完全に手中に収める。
…とはいえ、飽くまで最優先は身柄の押し付け。
そのためにこれから、彼女に最後の刷り込みを行うことになっている。
「そうだ、お腹は空いていませんか? 今日は気分がいいので、少し奮発して持って来てあげましょう」
「え…本当ですか…!?」
食べ物と聞いて、先程までの恐慌も何もかもを失って希望の表情を見せたホッキョクギツネ。
隅々までが私の思う儘で、自分の力が恐ろしくなってしまう。
「ええ、神様は嘘をつきませんから」
壮大な飴と鞭の片割れ。私が用意した、極上の飴玉を彼女の口に放り込んであげましょう。
脳みそが侵されてしまうほど、甘い甘い飴玉を。
―――――――――
「~♪」
「やけにご機嫌だな、良いことでもあったのか…?」
鼻歌を歌いながら歩いていると、偶然すれ違った神依さんにそう声を掛けられた。
結構探し…おほん、本当にタイミングの良い偶然ですね!
「うふふ、分かりますか?」
「そりゃ、スキップまでしてるからな」
苦笑交じりの表情を浮かべた神依さん。
私が彼の腕を抱いて優しく引き寄せると、彼の口角は穏やかに緩んだ。
「でも、ごめんなさいね? 最近、一緒にいる時間があまり取れていなくて」
「あー、まあ、そうかもな…?」
「今やっていることが終われば、神依さんとずっと一緒にいられます! 今度こそ私たちだけの、何の邪魔も入らない世界で…!」
「お、おい、くっつきすぎだって…!?」
まあ、いけません。つい興奮しすぎてしまいました。でもそれも当然です。それくらい、私の思い描いている未来とは素晴らしいモノなんです。
しかし今それを力説しても、きっと神依さんの心には届かないのでしょう。
私は先走ってしまったことを詫び、彼を少し早いお昼ご飯に誘った。
「朝は早かったですし、私は少し長くかかる作業の予定があります。ですから…」
「分かった、そうしようか」
「うふふ、すぐに用意しますね」
数日前からレシピを考え、幾度にも渡る試作を経て一つの完成形に至った煮っ転がし。神依さんも満足してくれたようで何より。
レパートリーに新しく加わった料理で神依さんの胃袋を掴むことに成功した私の気分はまさに天にも昇る心地で、これなら今日の午後全てを使ってする予定の酷くつまらない調教も、存外楽しく終わらせられそうに感じた。
食器を片付け終えた私が次に向かったのは自分の部屋で、そこには倉庫と同じく幾つもの秘密の品物が置いてある。
ここに保管しているのは倉庫の物よりも比較的小さく持ち運びが楽で、そして閉じ込めておくより自分自身の手元で管理した方が良いと判断したものだ。
とはいえ守りは厳重で、それらは全て施錠の術で堅く閉じられた扉の先の亜空間の中に入っている。
昔から開けられるような同居人もいなかったし、今も神依さん以外に手出し出来る人はいないのだけど、それでも念には念を入れている。
好きな人だからこそ見せたくないモノだって、そう少なくはないのだから。
「確かこの辺りに…あっ、倒れちゃ…わわっ!?」
…その割に私、扱い方が雑なのは何なのでしょう?
ああ、それは安全ピンが取れると爆発してしまうサンドスター爆弾ですよ。そっちはミニカー…ならいいでしょう。
「むむ…あ、これですねっ!」
数分に渡るゴミ溜めとの格闘の後に、私の手には瓶詰めにされた虹色の液体があった。
そういえばコレも割れ物ですね、今度この中はきちんと整理しておきましょう。そう、今度にちゃんとね。
「ラベルを確めて…よし、間違いありませんね」
瓶を揺らすと一緒に揺らめく虹色の水面はとても綺麗で、思わずコレを飲み干したくなる衝動に駆られる。
けど我慢。コレは今から使うものだし、それにあまり体に良い物でもないから。
「これで、より確実になりますね」
頭の中に確実な成功のビジョンを思い描き、私はまた忌まわしき彼女のいる倉庫へと向かう。
さあ、お説教のお時間ですよ。
―――――――――
倉庫に戻ると、ホッキョクギツネは朝見たのと同じような姿で虚ろに寝転んでいた。
娯楽も快適さもないこの場所では、それが最上の過ごし方なのでしょう。
「まあ、私には理解しがたいですけどね」
「…出来る訳、ないでしょう」
私の言葉に耳を立て、歯ぎしりをしながらホッキョクギツネは身を起こした。
その声には珍しく、強い怒りの感情が籠っているように聞こえる。
「どうしたんですか? 私、何かしたでしょうか…」
「…食べ物」
「…あっ!」
そういえば、そんな約束もしていたような気がします。神依さんとのお昼ご飯に夢中で忘れていましたが。
「嘘はつかないって言ってましたよね…」
「ええ、嘘はつきません。ですが、神様とて間違いはあるものです」
かみさまはウソつきではないのです、まちがいをするだけなのです。
「…っ!」
「まあまあ、そんな顔しないで…とりあえずこれでも飲んでください、美味しいですよ?」
そう言って彼女に差し出したのはそう、件の虹色ジュース。
極彩色に輝く液体を見て彼女は一瞬顔をしかめたものの、口答えすることなく瓶を受け取った。貴女も成長しましたね、偉いです。
「…本当に、飲めるんですよね」
「保証しますよ」
「では……っ!?」
瓶を上向きに呷り、口に虹色の液体が一滴…そう、たった一滴流れ込んだ瞬間、彼女の体はビクンと跳ねて、彼女は恐る恐る口から瓶を離した。
「こ、これ…ふふ、おいしいですね…!」
「そうでしょう、全て飲んでしまって構いませんよ」
「そうだった、まだこんなにたくさん…ふぇへへ…!」
齧りつくように瓶の口を咥え、目を見開いて狂気的な表情で一気に飲み干すホッキョクギツネ。その姿を見て私は確信し、呟いた。
「これで、掴みはバッチリですね」
彼女に渡した虹色の液体の正体。
それは何のことは無い、単なる美味しい水だ。単純に美味しいだけだし、その分気が狂ってしまうくらいの味なんだけど、結局はただの水。
場合によってはそれ無しでは生きていけなくなったり、それを手に入れるために他のフレンズを傷つけてしまったりすることもあるけれど……まあ、その理由もこの水が美味しすぎる所為なだけで、特に他の作用はない。
私も最近一口飲んでみたんだけど、ただ普通に美味しいだけで面白みは無かった。
やっぱり、神依さんの方がもっとずっと素敵な味。
栓を抜いたバスタブの如き勢いで無くなっていく虹の水。あっという間にそれを飲み干したホッキョクギツネは、案の定おかわりを求めた。
私はそれを抑え、交換条件を提示する。
「そんなに気に入ったというのならお渡しすることも吝かではありません。その代わりと言っては何ですが、私のお話を聞いてくれませんか?」
「はい、アレがまた飲めるなら…!」
「うふふ、よかった。じゃあ、始めましょうか」
自らに敵意を持っている相手に、自分の考えを理解してもらうことはとても難しい。
私は彼女を痛めつけて極限状態に置くなどの工夫を凝らしてなんとかやって来たが、やはり本能的な部分に訴えかけるのが精一杯だった。
ならば、他のアプローチで話を聞いてもらう他に無い。
例えばそう…病みつきになるほど美味しい飴を与え、それを渡す条件として鞭を振るえば、彼らは快くそれを受け入れるだろう。
そして行く行くは、自らを傷つける鞭すらも飴の一部として認識してしまうかもしれない。
とはいえそれは今回の場合重要ではなく…大事なのは、好意的に感じている相手の話はよく聞くということ。
病みつきになってしまうほど美味しい『
…どうして、嫌いになんてなれますか?
まあ、これは飽くまでなりふり構わない場合の手段。
実態は水に依存しているだけだから私が美しく思えるはずもなく、しかし彼女のような薄汚い泥棒ギツネにはこれ以上ないほどお似合いだ。
「うぇ…っぷ…へへへ…!」
そして、すべきことは終わった。
彼女を眠らせ、特殊な解毒薬を使って虹色の水の効果を全て取り去った。
次に目が覚めた時、彼女は無意識の中に私にとって都合の良い思想を固持した存在となる。
あとは死なないように十分な装備を与えて、あの場所に置いておくだけだ。
…ほんの少しのアクセントを添えて。
「こんな回りくどいゴミの処分も、もうすぐ終わってしまうのですね。そう考えるととても…爽快な気分です」
でも、本当はもっといい方法があった。
全て効率的に、あの子のように論理的に片付けていくのならば、私にはそれを行う能力もあった。
じゃあ、どうして?
分かり切っている。コイツが憎いからだ。
例え殺してしまったとしても許せない。だから、全てを歪ませて生き永らえさせてやるのだ。
繕いの言葉なんていらない。これは私怨だ。コイツ以外に行き場を失った憎しみだ。
ごめんなさい、神依さん。例え真逆のベクトルを持った感情だとしても、この身を焦がすほどの強い想いを…本当は貴方以外に向けてはいけないというのに。
だけどこれさえ終われば、また貴方の為だけに生きていけます。
だから、もう少し待っていてくださいね。
「ふう…短いようで、長かったですね」
謎は作った。すごろくの盤面も用意した。駒もこれから、置きに行く。
神はサイコロを投げない。
全て計算通りに、私によって選ばれた数字の通りに駒は進んでいく。
「…ゴールまで、残りは1マス」
いつの間にか床に転がっていたサイコロを、私は一の目で置き直した。
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