Ⅳ-143 お引っ越しのご挨拶…?

 寒空を、風に吹かれて流れていく白い雲。今日の青空は青くて、あの場所みたいに薄く虹色に染まっていたりすることもない。


 自分の体も風に吹かれて、ゆうらゆうらと横に揺らめく。


 いつの間にか隣に置いてあった紅茶に口を付けると、とても懐かしい味がしてついつい泣きそうになった。…泣いてはいないよ。


「今日で…帰ってきてから一週間かぁ」


 ホッカイ…だと思っていた場所、ホートクに向かい、神依君を結界から連れ出して逃げ出したあの日。


 イヅナに全てを任せた後…神依君は命からがらまたホートクに逃げていき、僕達はイヅナの機転で何とか見逃してもらったらしい。


「神依君、無事なのかな…」


 多分、彼の安否を気にしているのは僕と…図書館のあの二人だけだ。


 キタキツネとギンギツネは元から全然興味なんて無かったようだし、イヅナもジャパリフォンのデータが全て消えていたことしか気にしていなかった。


 はあ…まあ、データが消えたのはショックだろう。その気持ちは分かるよ、だけど…


「別に、何時かのキタキツネの真似事をする必要はないんじゃないかな?」

「き、キタちゃんの真似じゃないよ! 私はキタちゃんなんかと違って堂々と、隠れずに撮ってるんだから!」


 僕の真横で写真を撮りながらイヅナは叫ぶ。片耳を塞ぎつつ、空いた手で頭を撫でてあげる。


「そっか、偉い偉い」

「えへへ…って、本当は思ってないでしょ?」


 分かりやすく頬を膨らませて抗議するイヅナ。何か言おうかと思ったら、イヅナの方から肩に頭を預けてきて今度は楽しそうな声を上げる。


「むふふ~♪」


 自己完結してしまったイヅナに声は掛けず、僕はまた空を見上げる。


 今日は、何かが起こりそうな予感がする。なんとなく…根拠のない第六感がそう告げている。こういうのを、…って言うのかな?


「むー、またキタちゃんのこと考えてるでしょ…」


 胸に顔をうずめて抗議するイヅナをまた宥めながら、確かに変わった空気の感覚を僕は心地よく感じていた。




―――――――――




「……は?」


 事態を理解できない二人の素っ頓狂な声が、図書館の周囲に立ち並ぶ木々の中へと溶けていく。そりゃそうだ、オイナリサマは幾らなんでも話が早すぎる。


「ですから、神依さんは私と一緒に暮らすことになりました。雪山をちょっと下ったところにある神社でですよ…見ていませんか?」

と言うか、ついさっきようなものなのですがねぇ…」


 博士は頭を抱えながらそう呟く。まあ…頑張れ。胃が痛いのはよく分かるが、如何せん俺ではどうしようもない。


「それは良いんですよ、とにかく神依さんは私と暮らします。ですからこうやって、元々の同居人であるお二人にご挨拶をしに来ました」

「は、はぁ…」

「つまり、カムイを引き取ると…ひっ!?」

「どうして貴女如きが、神依さんを呼び捨てに出来るんですか…?」


 オイナリサマの光無い目に見つめられた博士は縮み上がり、口をパクパク開閉させて後退る。流石にこれはいけないな。


「オイナリサマ、気持ちは分かるが抑えて…」

「本当に分かってくださるのなら…止めないでください…」

「…ハイ」


 ダメです、無理です、不可能です。俺に神様は鎮められません。どうにかこうにか頑張れ博士、死なない程度に。


 とはいえ彼女は島の長。今も震え続ける体を律し、オイナリサマの機嫌を取ろうと掠れ掠れの言葉を紡ぎ始める。


「わ、わわ、分かりました。カムイに…」

「…様」

「は、はいッ! カムイ様をお引き取りになられるということで、我々としましては、何一つ異存はございませんなのです!」

「うふふふふ、そうでしょう」


 …そりゃあ、ある訳ないよな。


 しかもこの二人の目を見ると…ただ圧倒的な力――この場合は武力――を目にしただけではない感情が読み取れる。


 それは何と言うか…権力への追従、みたいな。オイナリサマが持つ『守護けもの』もしくは『神様』という肩書は、同じく『島の長』という肩書を以て普段からふんぞり返っている二人にとってそれはもう強い、大好物のカレーよりも強いインパクトを与えているのだろう。


 その『守護けもの』の肩書も、今や俺を手中に入れるための都合のいい口実に使われているというのだから世話がない。彼女はその力で一体誰を守ると言うのか、まさか俺だけで十分なのか?


 …そうなんだろうなぁ。



「さて神依さん、お二人へのご挨拶も終わったことですし、私たちの神社愛の巣へと早く帰りましょう!」

「いや、もう少しだけ…待ってくれないか?」

「それは…何故ですか?」

「今までお世話になったんだからさ、俺も…二人に別れの言葉くらいは言っておきたいんだ」


 俺の言葉にオイナリサマは逡巡する。悩むようなことか、そんなに俺を他人と関わらせたくないか。


「まあそれくらいなら…分かりました」

「心配するな、手短に終わらせて来るさ」

「…はい!」


 俺がそう言った途端に彼女は目に見えて元気になる。…もうダメだこの神様、俺にはどうにもできない。


 そんな俺の心情などいざ知らず、気分上々の神様は手まで振っちゃって俺を見送る。ああもう、恥ずかしいからやめて欲しい。歩いて数秒、目的地見えてる、博士たち呆れてる!


「…ひっ」


 少し呆れたくらいで、睨まないでやってくれよ…


「…か、カムイ。本当に、行ってしまうのですね」

「ああ、それしか道は無いんだ。そんなに長い間じゃなかったが…世話になったな。まあこれからも、元気でいてくれ」

「カムイ、これは…」


 今日会った時からずっと抱えていた本を助手が俺に向けて差し出す。これは俺がホートクに飛ばされる前に探すよう頼んでいた本だ。


 そっか、俺がどんなに悪い想像をしていても、二人は待っててくれたんだな。でも…


「悪い、それは…受け取れない」

「…そう、そうですよね」


 助手は目を伏し、声を落とす。しかしその声色には確かに納得の片鱗があった。オイナリサマの様子から察して…いや、察さざるを得なかったのだろう。この瞬間から俺が、図書館の住人ではいられなくなることに。


 助手の目の中に燻っていた声を読み取った俺が感傷に浸っていると、後ろから違えようのない気配が飛ばされる。…短気なものだな。


「あぁ、そろそろ時間切れみたいだ。…じゃあな」

「はい、お元気で…なのです」

「今まで…お世話になったのです」

「…お互い様だ」


 最後の言葉を告げて、俺が踵を返した瞬間…途轍もなく強い向かい風が吹きつけて来た。その風は、まるで俺を図書館に引き止めようとしているようで、暖かい。


 けれども俺は、風に逆らう。


 ああそうだ、この風は心地いい。出来ることならまたここで暮らしたいな。


 本を読んで、料理を作って、一緒に食べて、時に二人につつかれて。


 失ってから気づくことが多すぎる。どうしてだ、どうして、持っている内に気づかせてくれなかったんだ。


「さて、神依さんの用事も終わったことですし、今度こそ…」

「もう一か所だけ、行きたい場所がある」


 でも、いいか。


 俺の人生はもう、神様に捧げられた。


 こんな悩みだって、持てるのは最後なんだ。我儘だって通させてもらう。


「祝明に、会いに行きたい」



 どうせなら後腐れなく、愛に生きたい。




―――――――――




「私が先に入って確かめてきます、神依さんと変なのを引き合わせる訳にはいきませんからね!」

「あぁ、任せたよ」


 俺は特に何も言うこと無くオイナリサマに従う。反対する理由もないし、第一彼女の意見を押しきれないしな。


「ですから神依さん、何処かに行ってしまわないで下さいね」

「ちゃんとここで大人しくしてるさ、だから早く…な?」

「約束ですよ…?」


 加えて「心配するな」と今一度言っておいたが効果は薄く、オイナリサマは何度も顔を出して俺が居なくなっていないか確かめに戻って来る。


 おいおい、俺が祝明を探したほうがずっと早いじゃないか。


 放っておいても埒が明かなそうだし、釘刺しとくか。


「早くしないと、俺が変な奴に絡まれるかもだぞー」

「ですが…むぐぐ…」


 俺の言葉が効いたのか、オイナリサマは名残惜しそうに振舞いつつも宿の中へと消えていく。


 そうだ、少し覗いてみるか。変なことやらかさないか心配だし。



「コカムイさーん、コカムイさんはいませんかー? 天都神依さんが呼んでいますよー」


 …早速変な探し方してるよ。


 まあ、不意に誰かと出くわすよりは堂々と振舞う方が間違いがないかもな。この屋敷にいるキツネ、祝明を除いた全員が、”出会ったら即戦闘”の危険がある粒ぞろいの爆弾だからな。


 それはさておき、オイナリサマの堂々たる宣言を聞きつけて姿を見せたキツネがいた。あの落ち着いた毛色は…ギンギツネだな。


「まあ、お客さんなんて珍しいわね」


 そりゃな。誰が好き好んでこんな瘴気まみれの宿使おうとするんだよ。ここの悪評は博士たちが巧妙に振りまいていたし、まあ誰も来ないだろうな。そしてそれこそが、一番Win-Winな関係なんだろうな。


 ああ、手伝いをさせられた時の記憶が蘇る。フレンズたちあいつらの大半がすごく面倒な性格してるんだよ…善良すぎて。


 宿に住むキツネたちが危険だと真実を言えば「そんなわけがない」と口を揃えて言い、雪山がセルリアンまみれになっていると嘘を言えば「助けに行かなければ」とチームを組みだす始末。


 考えに考え抜いた結果、彼女たち自身にしか解決できない問題を抱えているから、解決するまで関わらない方が彼女たちの為でもある…と――まあ事実だが――中々にきわどい説明をすることになった。


 え、解決するまでっていつまでだって? ……聞くなよ。



 ええと、ものすごく脱線したな。今の出来事に話を戻そう。


「そうですか、いい宿なのに…」

「まあ、来ない方が好都合なんだけどね」


 ギンギツネは手をひらひらとさせて、そう素っ気なく言い放つ。ホントにアイツは何時からだ? 全く気が付かなかった。


「ところであなたは、ギンギツネ…ですよね?」

「そうだけど…それが?」

「…いえ、何でも。でもあなた…幸せそうですね」

「うふふ、そうかしら?」

「ええ、何と言うか…良い雰囲気です」


 …マジで言ってやがるのか?というか意外だな、オイナリサマがギンギツネに興味を向けるなんて。聞いてみれば、オイナリサマの声は昔の知り合いに話しかけるような調子だ。


 神様だし…何かあったのかもな。


「ところで…カムイさんがノリアキさんに何かあるみたいね?」

「ええ、お引っ越しのご挨拶をしまして」

「ああ…それで」


 納得する声。


 ギンギツネからしたら奇妙だったんだろうな。祝明が救出しに行っても帰って来なかった俺が来ているという話も、それにオイナリサマがついて来ているということも。


 そして聡明なコイツならもう察しただろうな。俺が神様の手に落ちたことも。


「じゃあ呼んでくるから…少し待っててね」

「はい、分かりました」


 おお、やけにあっさり連れてくるんだな。オイナリサマは引っ込んでろ…とか言われてもおかしくは無かったんだが。


 まあ確かに…オイナリサマは一番信用の置ける人物の一人だ。


 祝明に靡かない、他の男にとんでもなく強い想いを寄せている存在。


 今のギンギツネはキタキツネよりむしろ…オイナリサマとの方が、余計な気を回さずに喋れるのだろう。


 それが一概に悪いことだと言えるのか…分からない。けどあの二人はお互いに、そんなことは気にもしてないんだろうな。



 はあ…外野から眺めているだけで胃が痛い。


「なんで、祝明は笑ってられんだ…?」

「呼んだ?」

「うわっ!? …って驚かすなよ、確かに呼んだけどな」


 深いため息を見せつけるように吐くと、祝明はごめんごめんと軽く笑いながら俺の隣に腰を下ろした。


「それで、どんな用? どうして戻って来れたの?」

「ハハ、戻っては来れたが…状況は全然良くなってないぞ」


 そう前置きをして、俺は再びホートクに転移してからの出来事を話した。洗いざらい、俺が完全に追い詰められるまでのごく短い時間での出来事を全て。


「……そんなことが」

「まあ俺は…言うなれば”詰み”だったんだ。祝明が気負う必要なんてない」

「そう言ってくれると気が楽になるよ。でも、ホッキョクギツネはどこに?」

「…分からない。さっき言った通り、オイナリサマに何か、碌でもないことをされたってことしか…」


 言えば言うほど自分が情けなくなって、段々と語気が弱くなる。


「神依君…」

「…いや、もう、どうしようもないよな」


 本当に手遅れだからこそ、もう考えない。時間は戻らず、流れて行った雲は引き寄せられないのだ。


 努めて俺は何でもないような声色で、重い気分を誤魔化し笑う。


「まあこの通り、俺はオイナリサマと暮らすことになった。機会があればまた会えるかもしれないし、そう重く取る必要はないさ」

「…そうかもね。じゃあ、イヅナにも早く戻ってきてって言われてるし…また」

「ああ、またな」


 祝明の背中を見送る。


 いつか、全く違う目で見ていた筈の背中に…どうしようもなく、親近感を覚えてしまっていた。

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