Ⅳ-142 前も後ろも一本道
「もう、神依さんったら。驚いてくれるのは嬉しいですけど、そこまで驚かれたら私の方がビックリしてしまいますよ♪」
「……」
「つんつん…あらら、凍ったように固まってしまって…うふふ」
イタズラっ子のように頬を突っつかれ、ようやく俺は感覚を取り戻した。それでも目の前の現実を受け入れるのが精一杯で、体は全く動こうとしなかったが。
それとも、これ以上逃げても無駄なのだと悟ってしまったのかもしれない。
「…なんでだ? どうしてそんなに、俺に拘る?」
違う、これは質問じゃない、ただの八つ当たりだ。
「どうしてって…神依さんは意地悪なんですね。でもいいですよ、神依さんの為なら何度だって言います」
だからやめろ。
「私は、神依さんのことが大好きです」
答えないでくれ。
「神依さんと結ばれるためなら、どんなに遠回りでも、どれだけ長くの時間が掛かっても私はやり遂げるつもりです。…でも出来ることなら、もう逃げないで下さいね?」
もう嫌というほど、分からされたんだ。
「好きな人に拒まれるのって、とっても辛いことですから」
逃避行は、終わったんだから。
「ああ…分かったよ」
「…嬉しいです」
神様は微笑んだ。
神様に取られた言質は…絶対だ。
―――――――――
洞穴の入り口に立って、外に向かって腕を伸ばす。まず指先が外と中の境界で硬い壁にぶつかって、やがて結界に手を突く形になった。いつ結界を張ったのかは知らないが、少なくとも二人きりで閉じ込められていることは事実だろう。
「なぁ…この洞穴、暖かくないか?」
「気づきました? 実は私が、こっそり暖めていたんです!」
「…だろうな」
起きてからずっと、妙な快適さがずっとついて回ってきて不思議な気分だったのだ。振り返ったら、目が合ったオイナリサマにウィンクを飛ばされる。
本当に、これだけを見たらただ美しいだけの神様なんだけどな。…待てよ、『美しいだけ』は貶している感じもするな。訂正しよう、オイナリサマは強くて頭もいい。今俺が置かれている状況が、それを如実に証明してくれている筈だ。
壁を指でなぞった。結界は丁度冬の部屋のガラスのように結露している。昔はこういう風に落書きをして遊んでいると、みっともないとか言われて叱られたんだっけ。
「お絵描きですか? 可愛い絵ですね」
「え、あぁ…ありがと」
でも今は、全く真逆の反応が飛んで来る。
「私も描いてみます! するする~……あ、水が垂れてしまって形が…」
「ドンマイ」
「…うふふ。初めてですね、神依さんから撫でてくれたの」
「え、そうだったか?」
そうですよと頷いて、頭を撫でる俺の手を愛おしげに包むオイナリサマ。やがてその手を下に降ろし、頬ずりをして…指をしゃぶるのはやめてくれ。
「あっ…」
思わず手を引っ込めると、絶望したような表情をする。目尻に涙を湛えた上目遣いにとうとう負けて、俺は左手の指を全て神様の口に捧げる運びとなった。…さっき撫でてたのは右手だろ。
「…神依さん?」
「…何でもねぇ」
結界にゴツンと額をくっつけ、雪が降り積もる朝の森をボウっと眺める。昨日と何も変わりないその光景を見つめていると、否応なしに変わってしまったことが際立って気になるのだ。
一抹の不安、そして勇気と共に、俺は尋ねる。
「一つ気になるんだが、ホッキョ――」
「彼女ならもうここには居ませんよ? 遠くに…とても遠くに行ってしまいました」
勇気を出して尋ねた言葉は、苛立ちを伴ったオイナリサマの無慈悲な宣告によって掻き消されてしまった。
「……そうか」
ホッキョクギツネが消えた原因は、オイナリサマの他に無い。昨日の夜に何が起きたのかもきっと、想像に難くない。けれど、考えたくはない。
何処までも無力な俺は、ただただ彼女の無事とこれからの平穏を祈るしかない。間接的に彼女の幸せを奪ってしまった者として、せめてそれだけは。
「神依さん、そんなことよりも…」
「…ん、何だ?」
「私たちのこれからの生活ですよ、どうしますか?」
ホッキョクギツネのことを『そんなこと』で済ませてしまったオイナリサマに対し、若干の遣る瀬無い気持ちを感じたが、もはや話すべき言葉もない。
しかしまるで俺に選択肢があるかのように話すオイナリサマに怒りを覚えて、俺は投げやりに彼女に問いかけた。
「どうするって、俺に選ぶ余地があるのか?」
「勿論です、私にも…ちょっぴりだけ、無理やりやっちゃったかな…という思いはありますから」
カラカラと乾いた笑いをこちらに向けるオイナリサマにいよいよ我慢できなくなり、俺の腕は彼女の胸ぐらを掴んだ。
あれほどの強さを誇るオイナリサマも持ち上げてみれば案外軽いもので、彼女の足は地面を見失っている。
そんな状況にあっても、俺から怒気をまっすぐに向けられていても、オイナリサマは…普段の調子で笑う。
それが、俺の神経を更に逆撫でするということも知らずに…笑っている…!
右腕が、上がる。固く握りしめられた拳を振り上げ、彼女に向かって振り下ろす。さあ、言ってみろ…何か、言ってみろ!
「いいですよ」
振り下ろした腕が、当たる寸前に硬直した。拒絶でも謝罪でもない…殴られることを受容した寛容な言葉が、意外にも俺の拳を止めたのだ。
「…あら、殴らないのですか?」
「なんで、殴られても良いって思うんだ?」
「だって神依さんですから。神依さんが私にしたいことであれば、どんなことでも受け入れますよ」
「…ハハ」
…前言撤回。何が寛容だ?
俺が、オイナリサマに、することなら、どんなことでも。それはつまり、それ以外は認めないと…自分以外を見るなと言っているのと同じ。
だから…笑ってんじゃねぇ!
「アハハッ…!」
俺に殴られた瞬間、歓喜の声が洞穴に響き渡った。違うだろ、お前が出すべき声は、そんな声じゃないだろ。ホッキョクギツネは…そんな声を出さなかった筈だろ…!?
「こんなの…おかしいだろ…」
馬乗りになって、振り上げて、再びオイナリサマに当てようとした拳は。
「いいえ、何もおかしくなんてありませんよ」
何処にも行けない虚しさで、儚く力を失った。
「神依さん、そろそろ元気になりましたか…?」
「いや…もう少し、掛かりそうだ…」
「…そうですか」
壁に背を着け体育座りをしてうずくまる俺の隣に、オイナリサマも腰を下ろした。顔に柔らかい尻尾が掛かって、前が見えないのが今はありがたい。
俺の心は罪悪感で満たされていた。
怒りに任せて怒鳴り付け、あまつさえ手まで上げてしまった。馬乗りになって見下ろしたオイナリサマの、喜びに歪んだ顔が瞼に焼き付いて離れない。
おかしな話だが、オイナリサマが泣いて嫌がってくれればまだ心の蟠りも小さく済んだ。悪いことをしたんだから反省しなければと、そう考えるだけで終わらせられた。でも…彼女は喜んでいた。
彼女は嫌がっていないのだから、許す以前に怒ってさえいないのだから…一体何が悪いのだと、俺は一瞬そう思ってしまった。
だからまた俺は洞穴の暖かい空気の中で、深い慚愧の念に身を凍えさせるのだ。
「大丈夫です、神依さんは何も悪くなんてありませんよ?」
「違う、俺は…悪い奴なんだ…」
「自分のしたいようにしただけでしょう? 私は神依さんに本気で迫ってもらえて、とっても嬉しかったですよ」
「俺は何も見えてなかった…! 怒りに任せて暴れただけだ…」
俺の、はらわたから絞り出したような懺悔の言葉も。
「うふふ…それの、何が問題ですか?」
神様は甘ったるく優しい声で、こうも無慈悲に切り捨ててしまう。
「神依さんが十字架を背負う必要なんて何処にもありません。大丈夫、私は神依さんの全部を受け入れてあげられます」
「……それで、良いのかよ」
「私は良いと思います。…だから、後は神依さん次第です」
オイナリサマが力強く抱き付いてきて、自然と俺の体勢は崩される。纏わりつくように俺の後ろに頭を持ってきた彼女は、悪戯っぽく耳に息を吹きかけながら囁いた。
「あなたがどうしても自分を許せないのなら、罪悪感を背負ってしまうのなら、そうしなくても良くなる日まで、私が傍であなたを支えます」
遠い意識と揺れる心は、吐息で容易く吹き飛ばされる。
「だから神依さん…全部、私に預けちゃってください」
今となっては思い出せないが…きっと俺はまた、頷いてしまったのだろう。
―――――――――
「キョウシュウ、帰りたくありませんか?」
「……え?」
それまでの話の流れを一刀両断するオイナリサマの問いかけに、喜びよりも早く疑問が心に湧いてきた。俺が続く言葉に迷って凍り付いていると、察したようにクスリと笑って詳しく説明してくれた。
「流石に私もちょっぴり…端折って迫りすぎたかなーって思いまして。それに、一緒にキョウシュウで住むなら問題ないかなとも思ったんです」
オイナリサマにもそういう考えがあるんだなと頷きつつ、サラっと聞こえたとんでもない提案に質問をぶつける。
「…待て、オイナリサマもキョウシュウに住むのか?」
「はい。少しだけ時間は掛かりますが、結界ごとキョウシュウに飛ばしちゃえば万事解決です!」
さも得意げに語られる衝撃の事実を聞いて、俺は氷漬けにでもなりたい気分だった。
「それって…大変じゃないか?」
「いえ、こんなこともあろうかと普段から蓄えておいた力がたっぷりありますから、精々数か月分使えば問題ないはずです」
「…な、なるほどな」
まあ、そうか。神様だもんな。それくらい造作もないよな。はあ。
「ですからキョウシュウにしばらく住んで、未練がバッチリ無くなったら…私とホートクに戻ってきて素敵な引きこもりライフを送りましょう!」
何言ってんだこのひ…神様は。
「…それなら、結界閉じるだけで十分じゃないのか?」
というか俺も何言ってんだ、引きこもりのアドバイスするんじゃねぇ。ついに狂ったか。
「…ハッ!?」
あの…何だその目。『天才を見つけました』みたいな輝いた目でこっちを見ないでくれ。今までも十分キラ付いてたけどいよいよギラギラしてる、まるで真夏の太陽。
「言われてみれば…その通りですね!」
もはや、何も言うまい。
「ところで…どうやってホッカイからここまで?」
「え? 普通にテレポートして来ましたよ」
「…その普通の中身を教えてくれないか?」
「あ、そういうことですか。分かりました」
そう言ってオイナリサマは洞穴の中を見渡す。少しして、目当てのモノを見つけたような笑顔になると、彼女は土のある方へと歩いていった。
「よいしょ、こんな感じですかね…」
彼女は何処からともなく取り出した虹色の棒の先で土をなぞっていく。その手先はまるで、子供が公園で地面に絵を描くような動きだ。
「何を描いて…あ」
「うふふ、分かったようですね」
地面を覗き込むと、そこには幾度となく見た模様が描かれていた。もはや説明も必要無いとは思うが一応言っておこう、例の魔法陣だ。
「一度しっかり見ましたからね、覚えているんですよ」
なるほど、しっかり壊した筈なのにどうやってと思っていたが、新しいのを作り直せるのなら納得。わざわざ壊した意味もなかったという訳だ。
「まあ実際はこんな風に…」
「…え?」
ここまでは納得できた。だが次の瞬間、俺は完全に意表を突かれる。
「…空中に描いて転移しましたけどね」
「…マジかよ」
オイナリサマの手の上に浮く魔法陣、手を伸ばせば触ることも出来る。しかしとんでもないな。宙に描けるのも驚きだし、もっとすごいのはその速さだ。ものの十秒足らずで完成していた。
「まあ、私は神様ですからね。この程度のことは朝飯前です!」
グルルルル…
「……」
「…ええと、そういう訳なので、朝飯を食べに行きましょう!」
「ああ…そうするか」
オイナリサマはこちらに手を伸ばす。テレポートするということなのだろう。俺はその手を掴んだ。
瞬間光が洞穴を包み、周囲は既に白の中。
「……」
さよなら…ホッキョクギツネ。それと…ごめんな。
二度と誰も戻っては来ないであろう思い出の場所に…せめて心の中で別れを告げて、そして去っていく。
オイナリサマも…ごめんな。
何とも交われない一本道を進んでいくしかないからこそ…今はまだ、この十字架は手放せない。
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