Ⅳ-135 神様の愛は命と引き換え?
『好き』
その言葉を聞いて感じるものが、喜びではなく恐怖へとすり替わってしまったのはいつからだろうか。
俺にだって好きな物はあるのに、誰かがその言葉を口にする度に耳を塞ぎたくなってしまうのは何故だろうか。
…そのたった二音を、どうして誰かに向けることが出来なくなったのか。
「色々とハッキリ思い出しちまったのも、偶然な訳ないよな」
間違いなく、全てオイナリサマのせいだ。
彼女のことを考える度に、心の奥から湧き出るどす黒い恐怖が…俺の体を痺れさせる。
「だから、全部…! いや…違うか」
オイナリサマは、飽くまで切っ掛けだ。引き金に力を込めただけだ。
たった一度引き金を引くだけでこうなってしまうほど、俺が脆かっただけだ。
そのくせ向き合うこともせず…目を逸らしていただけだ。
…あの時と――ホッキョクギツネから目を逸らした時と――同じだ。
「俺は…また繰り返すだけなのか?」
始まりをまた思い起こしかけて、俺は辟易した。
「忘れろ…今は忘れろ…! 考えるのは、終わってからだ…」
そうだ、さっきまで確かにこの足は前に進むために動いていたはずだ。
まだ、向こうへと帰るための希望は全て潰えてなどいないはずだ。
仮定を重ねて、確信の紛い物を拵えて…俺は、また足を動かし始める。
―――――――――
さて…俺はオイナリサマに帰る道を絶たれ、結界の中に閉じ込められた。
その言葉通り多くの自由を奪われてしまったものの、彼女は体の自由まで完全に奪うようなことはしなかった。
だから、彼女が激しいアプローチを仕掛けてくる以外は、前までと同じように過ごすことが出来ている。
「確か、この辺にあった気がするが…」
どうして、オイナリサマは俺にある程度普通の生活を与えてくれるのか。
彼女の真意は未だ分からない。
結界での防護に余程の自信があるのか、若しくはその生活の中で俺が自分から逃げなくなるように細工をするつもりなのか。
そこにどんな目的があるにせよ、歩き回ることを許されているお陰で、俺も目的の物を探し当てることが出来た。
「あった、魔法陣だ…!」
オイナリサマの手によって完全な形を失った、キョウシュウに帰るための魔法陣。
様々な葛藤を味わいながら、それでも綺麗さっぱり諦めてしまうことが出来なかった俺は、この軟禁劇の始まりの場所で…何か、突破口になるものを探そうとしているのだ。
―――――――――
「欠けてるのは一部分だけか。…それだって、俺には直せないけどな」
魔法陣の図面は前に俺も見せてもらった。
非常に複雑だから再現することこそ不可能だが、その知識のおかげで魔法陣が不完全であることは理解できる。
いや…まあ、横一文字に大きな切れ込みが入れられていたら、誰だって「壊されている」と感じるのだろうが。
「けど…綺麗な切り方だな。イヅナとか…知識がある奴ならこれくらいは簡単に直せそうだ」
そして、俺には不可能だ。
何か脱出のための糸口を掴めるかもしれないとここまで来てみたのだが…この体たらくでは到底無理そうだ。
「そうだな…周りも探ってみるか」
今日の俺はなぜだか諦めが悪いらしい、魔法陣の周囲の…結界の中の自然を調べることに決めた。
「…変わった何かがあるようには見えないか」
そして方針を転換した先でも、瞬く間に行き止まりにぶつかった。
言ってしまえば、ごく普通の自然環境だ。
少し草原を散策すれば見掛けられるような植物ばかりで、危険な虫なども見当たらない。
動物さえ全く見掛けなかったが、肉はあったからオイナリサマがどこかから調達しているのだろう。
それと空がおかしな色をしているお陰で色は若干変に見えなくもないが、それだって些細な変化で取り立てて言及するようなものでもない。
そう、ここは至ってありふれた空間なのだ。
「いや…一つだけ、気になることはあった」
唯一俺が感じた異常は、結界の端に辿り着けないこと。
結界の端に触れようと近づいても、一定の距離まで近づくと結界が逃げるように向こうへと行ってしまうのだ。
最初は元の位置に戻されたかとも思ったが、振り返ると神社からはしっかり遠ざかり続けている。
果たして何処まで逃げていくのか興味が湧いてきたものの、あまり離れすぎて帰って来れなくなるのもいけないと思い今日は引き返した。
「まあ行くとしても、もう一回きりだろうがな」
俺が再び結界を追いかける時が来るのならば…それは、脱出を試みる時だ。
「よし…これくらいにしておくか」
これ以上、ここで手に入れられる情報は無いだろう。
魔法陣に関して得られたものは予想通り何もなかった…嫌な予想だが。
その代わり、結界に関して新しい知見を得られたのは大きい。脱出する時に直面する『予想外』が一つ減ったのだから。
「…まだ、折れてないさ」
最後に、魔法陣の削られた部分の粉を集めて山型に積んでおいた。風の無い場所に置いたし、何処かへ飛ばされることもないだろう。
魔法陣を使えない俺にとっては無意味な行動だが、やっておかなければ気が済まなかった。
「…帰ろう」
神社へと帰る。
いつか帰れるように、祈りながら――
―――――――――
「おかえりなさい、神依さん。お散歩は楽しかったですか? …随分と、遠くまで行っていたようでしたけど」
部屋に足を踏み入れるなりオイナリサマが掛けてきた言葉に…俺は面食らった。
そして確信した。
オイナリサマは勘付いている。俺が結界の近くまで行っていたことに。
そして彼女の表情を見るに…俺のその行動は、好ましく思われていない。
「あぁ…ここがどんな場所なのか、気になってな」
「そうでしたか…だったら、私が案内して差し上げましたのに」
「悪い。迷惑を掛けるかと…思って」
そこまで言って…オイナリサマの顔から、笑顔の表情が消えていることに気づいた。
あ…あれ。俺、間違ったか…?
「…神依さん」
「は…はい」
抑揚のない声で呼ばれて、思わず姿勢を正した。
「結界の中には出来る限り私の目を行き届かせています。ですが…それでも、時折不慮の事故というものは起こってしまうものなのです。もし遠出をするなら、必ず私と一緒に行ってください! 一人じゃダメです、危なすぎます…っ!」
そして、姿勢を崩した。
いや、オイナリサマが涙を流しながら俺に抱き付いてくるせいで、姿勢を変えざるを得なかった。
「神依さんは意地悪です…! 私を、こんなに心配させて…」
「悪かった、本当に悪かったから、な…泣かないでくれ…!?」
ぶっちゃけ俺は、大声で怒鳴られるか叱られるかの二択だと思っていた。
だから…そう。完全に意表を突かれて、どう返せば良いのか分からない。
結局俺は、オイナリサマと同じようにあたふたと慌てながら、彼女を必死に宥めるより他は無かった。
「うぅ、ぐすん…もう、大丈夫です」
それから十数分。
まだ若干涙ぐんでいるものの、滂沱の涙を流していた全盛期の泣き方よりは随分とマシになった。
「ごめんなさい、取り乱してしまって」
「良いよ…それより、一つ聞いていいか?」
あんな様子を見せられたから刺激するのも下策と思い、俺は無難に話題を変えることにした。
「はい…何でしょう?」
「オイナリサマって、どうやってこの結界の中を…その、見守ってるんだ?」
一瞬『監視』と言う言葉が頭をチラついたが、棘のある言葉は厳禁だ。最悪、監禁ルートへ行く可能性もある。
必死に言葉を頭から振り払っている俺の隣で、オイナリサマはそれに気付かぬ様子で説明を始める。
「んー…まあ、勘…ですか……ね?」
「…勘って、それだけ?」
「はい、大体なんとなくです。結界の近くの出来事なら、察知する方法はありますけど」
あっけらかんと言い放つ彼女に唖然として、そして俺はある意味感心した。
彼女は何も気張っていない。自然体で事に臨み、俺には想像の付かない能力を発揮してしまう。
ハハ、これが神様か。敵わないな。
「じゃあ、結界近くのことはどうやって知るんだ?」
「誰かが内側から結界に向かって行ったら、大体分かっちゃいますね。その場合、結界が人に合わせてどんどん広がっていくので」
「広がっていく…なるほど、そういうことか」
説明のお陰で、結界の果てに辿り着けない現象の理由が分かった。
「はい! 結界が広がったら維持するためのサンドスターも増えちゃうので、それで分かるようになってます。…神依さんも、近づいたんですよね」
「ああ、触れないかなと思ってさ」
流石に『出られないか試してみた』は話す理由として不適当すぎるから、適当な嘘で誤魔化しておいた。
それにも…心が読めるはずのオイナリサマは反応しない。
或いは、気付いていながら見逃しているのか。
それにしても、あの結界はかなり都合が悪いな。
おかしな術を使っているのではなく、ただ広がっていくだけという単純さが実に厄介だ。
何故なら俺が結界の果てまで辿り着くためには、オイナリサマのサンドスターが切れるまで結界を広げさせなければならないから。
それは…ここから何十kmの距離になるだろう?
それだけの距離を、追いつかれること無く逃げ切れるのか?
そして逃げきれたとして…俺が出てくるのはあの雪山、結界の目と鼻の先だ。
「神依さん…どうしました?」
「いや…オイナリサマって凄いなって思ってさ」
「えぇ!? あ、ありがとうございます…!」
照れているのだろう、頬を真っ赤に染めてオイナリサマは頭を抱える。
そして俺は…光明の見えない脱出劇に頭を抱えた。
―――――――――
「なぁ…気になることがあるんだ」
「神依さんの疑問とあらば、どんなことでもお答えしますよ!」
例えばスリーサイズでも…と冗談めかして彼女は言うが、きっと本気なのだろう。
だが俺には、そんな事よりもっとずっと気になることがある。
気になるけど、出来るなら尋ねたくないこと。だけど尋ねなければ、俺はまた逃げることになる。
だから…向き合わなければ。
「オイナリサマ…どうして、俺を好きになったんだ?」
「……え?」
突然の真剣な質問に驚いたのだろう。
オイナリサマの目は見開かれ、忙しなく動いていた手はピタリと動きを止める。
「どうして…ですか?」
それでも神様は数秒後には調子を取り戻し、口に手を当ててくすくすと笑う。
そして俺の目をじっと正面から見つめ、彼女は答えた。
「理由は勿論、好きになったから…ですよ」
「いや、俺は真面目に…」
「私だって真面目です!」
彼女が本気ということくらい、声色で嫌と言うほど分かる。
だけど俺は、その答えに満足できなかった。
「他には…無いのか?」
「他ですか? そうですね…私に掛けてくれた優しい言葉も嬉しかったですし、見た目も…とても私の好みです。多分あなたの性格も……うふふ、色々ありすぎて言い切れません。ですから、一目惚れしてしまった…って理由じゃ、いけませんか?」
俺は、首を横に…振りたかった。
オイナリサマの持つ理由は、語られた分だけで十分すぎた。
そして元々、彼女の想いそのものを否定する気なんてさらさらなかった。…筈だったのに。
不満か?
…いいや、認めたくなかった。
今の状況が…俺をここに閉じ込めるという行為の
聞きたかったのは、もっと特別な何か。
例えばそう…自分を守護けものの一人ではなく、『お稲荷様』という神様として見てくれた唯一の人間を、どんな手を使ってでも手放したくなかった…とか。
俺の掛けた言葉…自らを望んでくれる人間を、自分以外を望めないようにしてしまいたかった…とか。
もっと言えばそこに、理解しようのない妄執があってほしかった。
彼女が、強硬手段に及んだ理由に…それ相応の異常を求めていた。
そうすることで…かつて殺し合いにまで及んでしまった二人にあった感情が、歪んでしまった全ての大元が、純粋な恋心ではないと信じたかったのだ。
「もう、神依さん…何か返事してください。聞いておいて黙っちゃうなんてひどいですよ?」
「…あぁ、素敵な理由…だな」
「そう…ですか? うふふ…でも、もっと素敵な生活をこれから一緒に作っていくんですからね…!」
神様の恋に加減は無い。
ただ想いのままに、彼女は力を振るう。
それを抑えるタガが、そもそも存在していないのだ。
法が、神を裁けるか? 人が、神を疎むことが出来るか? そして、力を以て排除できるか?
否。否。否。
だからこそ、オイナリサマは俺を捕まえた。
…そしてそうだ。
人間であるあの二人にも、そのタガが備わっていなかっただけなのだ。
結果として望まぬ形に終わってしまったけれど、その未来を予言されたとしても、彼女たちの進む道は変わっていなかっただろう。
―――――――――
「神依さん、ずっと一緒にいましょうね♡」
「俺は…いつか死ぬぞ?」
「大丈夫ですよ。その体、セルリアンのものでしょう? だったら、ずっと生きられるように私が何とかしてあげられます」
「…そうか」
俺の腕を掴む彼女は執着的で。
向けてくる笑みは恍惚に歪んでいて。
それでもこの腕を振りほどく気にはなれなくて。
…逃げられないのか?
神様が広げた、この結界の中からは。
…逃げないのか?
キョウシュウに帰るのだと、あの時決意を新たにしたというのに。
オイナリサマは強い。だから、逃げられない理由はここにある。
俺はとても弱い。だけど、逃げない理由は、どこにあるんだ?
今にも圧し潰されてしまいそうな心で、俺は必死に希望の輝きを探していた。
…違う、その虹は、俺の欲しい輝きじゃない。
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