Ⅳ-134 欲したヒトと、神のワガママ
風薫る昼。
向こうに見える花畑は紅い花びらを風に揺らし、それを越えて吹き込む風は目の前の白い長髪の香りを俺の元へと運ぶ。
…まあ風に頼らずともこんなに近ければ、香りは自然と鼻まで届くんだが。
「…なぁ、いつまで膝に座ってるんだ?」
「私が満足するまでです!」
ちょこんと体を小さくまとめて俺の膝上に座ったオイナリサマは、尻尾の先で俺の顎を撫でながらそう言い放つ。
やれやれ。今日もまた、面倒なことになるな。
とうの昔から分かり切っていたことを再確認して、行く先の無い俺の手は緑のネックレスへと伸びていく。
冷たい宝石の感触が、ただただ気持ちよかった。
「それで、今日は何が目的だ?」
「目的って…そんなの決まってます。神依さんと一緒にいることです!」
「そうじゃなくて、何故俺の膝の上に座っているんだ…?」
言葉を変えて尋ね直すも、オイナリサマの顔に浮かぶ疑問の色は濃くなる一方だった。
仕方なく、俺は説明をする方向で話を進める。
「だから、こうやって…そう、俺を監禁した時点で、目的はほぼ達成してるだろ」
「監禁と言うか、自由は与えているので軟禁なんですけど…それに人聞きの悪い言い方ですね…」
…まあ、色々と突っ込みたいところはある。だがそうすると話がやや――
「”突っ込みたいところ”!? 神依さん、それについて詳しく…」
「なんで心が読めるんだよっ!? それと、そういうことは大声で言うもんじゃねぇ!」
「どうしても何も、神様だからです!」
「………」
…よし、理解しようとするのは止めよう。
そうだよな、だって…神様だもんな。ヒトの常識が通用しないなんてしょっちゅうだよな。
だから勝手に心の中を読まれても、聞くに堪えない破廉恥な妄想を目の前で始められても…それは仕方のないことだ。
うむ、そう考えてみると、途端に心が軽くなるものだな。
しかし逆に、オイナリサマの心中は重く沈み始めている様子で、目の端っこから雫がほろりと…
「どうしよう…神依さんに呆れられてしまいました…」
流石にオイナリサマのような少女が泣いている姿は見るに堪えず、俺もフォローに入るしかなかった。
「まあ、俺は大丈夫だ。だが何と言うか…お淑やかにな?」
「はい、神依さんがそう言うのであればっ!」
オイナリサマは喜びと共に飛び上がる。
早速お転婆の片鱗を見せ付けてくれる神様に不安を覚えつつも、俺は消えかかっていた質問を記憶の海から掬いだすことにした。
「まあいい。で、何を訊きたかったんだっけ…?」
えっと…そうそう、膝に座ってる理由だったか。
「えへへ、これもスキンシップの一環です」
「…これはまた、随分と積極的な」
「当然です! これから私たちは一生をここで共に過ごしていくのですから、しっかり仲良くしなくては」
「ハハ……一生ね」
さも決まったことのように語られる未来の設計図に、俺が口出しをする余地などない。
しかしそうか。やっぱり…本気なんだな。
「む、疑ってたんですか?」
「別にそうじゃねぇよ」
むしろ冗談の方が…いや、やめよう。
「だけど今日は特に積極的だな、何かあったのか?」
「…何も無いからです!」
「…え?」
質問とは真逆の回答に戸惑う。
それ以上に、オイナリサマから向けられる非難がましい表情に在りもしない過ちを見出しそうになってしまう。
「それは…つまり?」
「神依さんは、どうしてそんなにガードが堅いんですか!?」
「あぁ…うん」
俺の諭したお淑やかさは一体何処へと投げ捨てたのやら。
実質的なお誘いとも呼ぶべきその言葉に、いよいよ俺は頭を抱える。
「あら、大丈夫ですか神依さん? お辛いようでしたら、代わりに私の膝をお貸ししますよ…?」
気づけば彼女はこちらを向いて、肩に手を掛け俺を寝かせる。
流れる水よりも滑らかな動きに、俺は為す術もなく倒されてしまった。
「うふふ、どうですか…とっても柔らかいでしょう?」
「あ、あぁ…」
…驚いたな、本当に柔らかいなんて。
しかオイナリサマはスカートが短いから、布越しじゃない柔肌の感触が俺の後頭部に…!
「な、なあ…」
「ダメです、ちゃんと寝ててください」
天井を眺めていると、それを遮るようにオイナリサマが俺を見下ろす。
キラッキラに輝く瞳が影に入って、昏く歪んだ口元から涎が零れ落ちてくる。
「あっ!? ごめんなさい、つい夢中になってしまって…」
「…気にすんな」
今更顔に涎が掛かったくらいでどうこう言うかよ。昨日は料理にまで入れられたって言うのに。
「えへへ、今後は気を付けます」
…俺の目の前でオイナリサマが盛り付けた皿に涎を掛け始めた時は、とうとう手遅れになったのかと思ったよ。
全く、これ以上取り返しの付かない出来事を増やさないでほしいものだ。
「オイナリサマ」
「はい、神依さん」
「…寝ていいか?」
「どうぞ、お好きなだけ眠ってください」
瞼を閉じると、手櫛が髪の毛を梳いていく。
柔らかいふとももの枕と、ふわりと顔を覆うもふもふに挟まれて、自分が穏やかな眠りへと落ちていくのを感じた。
―――――――――
菜箸がフライパンの底を叩く。
オイナリサマに料理を気に入られてしまった俺は、今日も二人分の晩御飯を作っている。
分担は、朝がオイナリサマ、昼はまちまち、夜は俺。
やれやれ、いつの間に彼女の生活リズムの中に取り込まれてしまったんだろうな?
「それと、毎食欠かさず油揚げが出てくるのはやっぱり運命なのか…?」
しかし、今のところ油揚げに飽きが来ているという訳でもない。
それもこれも…『オイナリサマの油揚げ活用術』とタイトルが付けられた本が優秀すぎるからだ。
「何なんだ…油揚げサラダって…?」
レシピも常軌を逸しているのは大前提のこと、出来上がった料理は美味しいというのだからオイナリサマは恐ろしい。
「神依さん、そろそろ出来上がりましたか?」
「ああ、後は仕上げだけだからもう少しだけ待っててくれ」
「はい! 神依さんの料理ならいつまでも!」
また突拍子もないことを言うオイナリサマに笑って。
彼女ならば本気で待ちかねないなと軽く畏怖して。
また彼女に絆されようとしている自分を鏡で見て…それ以上、そこに映ったエプロン姿を直視できなかった。
「さてと、待たせたな。…今日は涎を掛けるなよ?」
「神依さんは私を何だと…じゅる…ふふふ…大丈夫です!」
「…いただきます」
「いただきます!」
神の威厳も全て彼方へ放ってしまったオイナリサマと、今夜も共に食卓を囲む。
「今日の油揚げは一段と出汁を吸っていて…素晴らしい味ですね…」
最初に箸が向けられたのは件の油揚げサラダ。
オイナリサマはハフハフと大きな油揚げを一口に飲み込み、俺の油揚げへと視線を向ける。
「あ、あげないからな…!」
「……」
無言の主張を向けてくるオイナリサマを尻目に、俺はさっさと油揚げに噛み付く。
…すると、オイナリサマは目の前まで迫ってきて、俺の口から伸びる油揚げのもう片端を口にくわえた。
「…っ!?」
「ふふ…!」
そのまま彼女が油揚げを頭ごと引っ張ると、ついに耐え切れなくなった油揚げは真っ二つに両断されてしまった。
「……全く、行儀が悪いんじゃないか?」
「…む」
人から油揚げを奪うというあんまりな所業。
俺が”行儀”という言葉を使ってそれを諫めると、オイナリサマは見るからに機嫌を悪くした。
「神依さんは…ロマンというものを知りません」
…え?
「ロマンって、ただ行儀が悪いだけの…」
「神依さんはッ! 自分がくわえた油揚げにどれだけの価値があるのか全く分かっていませんッ!」
…ああ…なんだ。発作か。
新しい行動パターンに思わず身構えてしまったが、正体さえ判明すれば恐るるに足らず。
俺は波立った心を落ち着けて味噌汁を啜る。…うん、味噌汁も良い出汁が取れているな。
「神依さん。私は神依さんが大好きです」
「うん」
「神依さんのモノなら、どんなものでも欲しいんです」
「うん」
「特に神依さんのた…体液とかは…ふふ…喉から手が出る程素晴らしいんです」
「うん」
「しかも、神依さんの唾液と油揚げの出汁が混ざった味ならそれは、そこらの山の一つや二つ潰してでも口にしたい味なんです!」
「…うん」
「真面目に聞いてくださいッ!」
そう言われたって、真剣に聞くような内容じゃなかったしなぁ…
なんてことを考えていると睨まれた。顔に出てたか? …ああ、心読めたんだったな。
「神依さんは、私に涎を飲ませてはくれないんですか?」
ふむ、訳が分からない。
如何にも当然と言う調子で彼女は言うから、俺の方が変だと錯覚しかねないな。
とりあえず、返事は曖昧なものにしておいた。
「…まあ、そのうちな」
「ッ! や、約束ですよ…!」
「わ、分かったって。ほら、冷めないうちに食べろよ」
俺との約束に満足したオイナリサマは、ようやっと箸に手を掛ける。
するとどうだろう。見る見るうちに、皿から油揚げだけが消えていくではないか。
数ある食べ物の中から油揚げを正確にサルベージして奪い去っていく箸遣いの手際は、もはやプロフェッショナルと呼んで差し支えない鮮やかさ。
だが俺としては…ちゃんと他の食べ物も口にして欲しい。
「油揚げばっかり食べても良くないぞ」
「良くないって、一体何に良くないのですか? 言っておきますけど、神様は風邪をひきませんし、サイコロも振りません!」
何処で聞いたんだアインシュタイン。というか、そうじゃない。
「ほら…せっかく作った料理だからさ、しっかり全部食べて欲しいんだ」
「今朝私が作ったご飯は、「あまり食欲がない」と言って残しましたよね? 忘れたんですか…?」
「…う」
これは痛いところを突いてくる。
でも…ほら、朝は食欲が万全じゃないことも多いし…な?
「神依さん?」
「…悪い」
なんということだ。
オイナリサマを窘めようとしたら、逆に謝らされてしまった。
恐ろしや、神様。
それでも、食べて欲しいことは変わらないというか…
そんな俺の困った表情を見かねたのか、オイナリサマは指を立てて提案する。
「…なら、こうしましょう」
「…?」
「神依さんが「あーん」って言って、私に食べさせてくれればいいんです!」
ガッツポーズで何を言っているんだ。
ああ可笑しいかな、神様。
「でも、神依さんの手で食べさせてくれるなら私、全部食べ切っちゃいますよ?」
「…分かった」
正直あまり気乗りしないし、オイナリサマに良いように乗せられてしまった気もするが、料理を食べてもらうためなら仕方ない。
そしてやっぱり、料理を残してしまったことへの罪悪感もあるし。
閉じ込められている身とはいえ、これくらいの配慮は必要だろう。変な話だがな。
「…ふふ」
オイナリサマは雛鳥のように口元をスッと差し出して、俺が料理を運ぶのをじっと待っている。
料理を箸で掴むとその瞬間、葛藤が心の中を駆け巡った。
しかし、迷っている時間は無い。もう、約束してしまったのだから。
「あ、あーん」
「はむ…もぐもぐ…!」
シャキシャキと音を立てて野菜が噛み砕かれる。
淡く頬を染めて咀嚼するオイナリサマの表情に、俺はしばしの間見惚れてしまう。
…ごくり。
喉が小さく動くのを見て、俺は意識を引き戻される。
そして満足げに微笑んだオイナリサマは、もう一度さっきのように口元を差し出した。
その姿を見た瞬間に俺は、ある致命的な事実に気づく。
そして急いで、フリーズし掛けの頭で計算を始める。
こいつらを全部無くすために俺はあと何回、間抜けな声を出しながらオイナリサマに食べさせてやれば良いんだ…!?
脳が弾き出した答えは……とってもたくさん。働けよ俺の脳みそ。
後悔先に立たずとは言うが、オイナリサマ相手に安請け合いするんじゃなかったな。
「…うふふ、どうしたんですか?」
「な、なんでもない…」
「じゃあ…早く続きをお願いできますか?」
何ともまあ不用心なことに…俺は忘れていたんだ。
ヒトを化かして、欲望を意のままに満たしていくオイナリサマは、疑いようなく狐なのだということを。
「…はい…あ、あーん」
「もぐもぐ…ふふ、神依さんの料理はとっても美味しいですね♪」
ああ黄金色に、瞳が光る。
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