Ⅳ-133 翠晶に愛を込めて

 カチ、コチ、カチ、コチ…


 時計の針が音を鳴らす。書斎の大きな壁掛け時計だ。だがこんな音、あの日俺は聞いていたっけ。


 ああ、きっと聞いていたのだろう。そして、気にも留めていなかったのだろう。


 そんな他愛のない筈の音響が今は、俺を動揺させるように空気を揺らしている。


 湯気を昇らせるコーヒーは、熱さも味も分からなかった。


「……」


 何もかもが止まったような空間。針の音が辛うじて時の流れを教えてくれる。


 俺もここから動き出せば書斎からは逃げられるのだろう。


 …そう、書斎からは。


 オイナリサマは扉に鍵を掛けたりなどしなかった。それは慢心ではなく、確実な余裕なのだ。


 今の俺に、神社を取り囲む結界から逃げ出す術は何一つとして無いのだから。


「……」


 彼女は、本殿の掃除をすると言っていた。


 これから新しい生活が始まるのだからしっかり清めておかないと、と微笑んでいた。


 恐ろしく美しい笑みに、俺の体は硬直してしまった。妖の術ではない、縛るような縄さえ無い。


 『逃げられない』という認識だけで、彼女が俺を拘束するには十分だったという訳だ。


 諦めからは妥協が生まれ、絶望は帰還の意思を捻じ曲げる。



「…けど、これで良かったのかもな」


 最初から、俺の帰りを待っている誰かなんていなかったんだ。


 たった一人でも俺を待ってくれる誰かがいるとすれば。それは今ここで、俺を帰すまいとするオイナリサマ以外には在り得ない。


「いいじゃねぇか。ここにいれば平和で、楽だ」


 思えば初めてだな。


 新しい体を手に入れてから、こんな風に何の気兼ねもなく休んでいられる機会は。


「いいんだ…神様に、見初められちまったんだからな」


 ひとたび口を開けば、そこから出てくるのはこの状況を肯定する言葉だけ。


 果たしてこれが本心なのか、知る術はない。


 …だが、それで良いんじゃないか? 本心なんて曖昧な物、在ると信じてしまう方が恐ろしい。


 どうあれ俺は今、この状況を良しとしている。


 なら、無駄な精神力を使ってあれこれ思い悩む必要も無いだろう。そうだ、折角書斎にいるのだから、何か面白そうな本でも探してみるとするか。


「面白い本があるのはあの日に確認済みだからな。漁ってみれば、興味の湧く本の一冊や二冊はすぐだろ」


 これはそう、この書斎を舞台とした小さな探検だ。『面白い本』という秘宝を探すトレジャーハントだ。


 …ハハ、なんかワクワクしてきた。


「じゃ、行くとするか…!」




―――――――――




「ほう、これは勉強になる本だ」


 『世界の鉱物図鑑』という本のページをめくり、俺は一人でうんうんと頷いていた。


「マラカイト…綺麗だな」


 見開きのページに大きく載せられた写真は、”孔雀石”とも呼ばれる不思議な模様が浮き出た緑色の宝石の姿を鮮明に写し取っている。


 他にルビーやダイアモンドなどの有名な宝石も勿論載っていたものの、俺の興味は専らこの宝石一つに向けられていた。


「もし昨日読んでたら、大した興味も湧いてなかったろうな」


 皮肉にも全ての余裕が奪われたせいで、俺はこんな風に後先考えずに座っていられている。


 それにしても素敵な石だな。一度本物を見てみたい。


「でしたら、用意しましょうか?」

「うわっ!?」


 前触れなく聞こえて来た声に驚き、本が音を立てて床に落ちた。


「わ、悪い、突然すぎて…」

「気にしないでください、驚かせようと思っていたので」

「わざとかよっ!?」


 反射的に突っ込むと、オイナリサマは面白いものを見たように口に手を当て笑った。


 俺は止めようのないため息を漏らし、本に付いてしまった埃を払う。


 というか、俺はどうして俺を閉じ込めた奴とコントをしているんだ…?


「…んで、何で分かった?」

「目がこれ以上ないほど釘付けになっていましたからね、気付かない方が変ですよ」


 そ、そんなに夢中だったのか…


「本当に用意できるのか?」

「当たり前です、神様の力を信じてください!」


 自信満々に胸を張るオイナリサマ。正直に言ってやめてほしい、オイナリサマの体形だと強調されるものが十分にありすぎる。


 俺は…そっと目を逸らした…


「うふふ、神依さんは初心ですね。かわいらしいです」

「…そ、それよりもだ! 出来るなら、早く持って来てくれ…」

「そうですね、少しだけ待っててください♪」


 分かりやすく声を弾ませて、オイナリサマは書斎を後にする。


 俺は目に焼き付いた景色を何とか取り払おうと、もう一度マラカイトの写真を凝視する。


 …余計に、思い出してしまいそうだ。




―――――――――




 しばらく悶え苦しんだ後、腹の鳴る音を聞いて俺は籠に入れられたジャパリまんを口に入れた。


 …これは稲荷寿司味だ。何と言うか、普通の稲荷寿司を食べたくなる味と食感だった。


 次は一緒に入っていたバターロールを頬張りながら、良く合いそうなコーヒーで喉を潤す。

 

 今度のコーヒーは味が分かる…とても苦い。砂糖とミルクを入れよう。


「…うん、美味い」


 程よくマイルドになった味わいが俺を癒してくれる。コップ一杯飲み干すと、随分と気が楽になったように感じた。


「にしても、至れり尽くせりだなぁ…」


 しばらく歩き回って気が付いた。


 この建物は書物庫の体で作られてこそいるものの、他の設備も充実しすぎているせいで、大抵のものはここだけで揃ってしまうということに。



「…少し横になるか」


 奥の扉を開けた先、本棚の森よりもかなり狭くなった部屋には一台のベッドが置いてある。


 目で確認した限りではダブルベッドで、シーツや掛布団は非常に肌触りの良い素材が使われている。多分かなりの高級品だ。


 この二つの部屋と用意された食べ物だけで、上等な『図書館ホテル』の一つくらいは名乗れそうである。


 …勿論、更に恐ろしいのはこれだけで終わらないことなのだが。


「ハァ…」


 ベッドに横たわって、極大のため息を天井に吹き付ける。


「あぁ…柔らけぇ…!」


 快適すぎる寝心地に、オイナリサマによって殆ど絆されかけていた緊張感にいよいよ止めが刺される。


 緩み切った体には眠気が差し込み、抵抗する理由も術も持たない俺はいとも容易く微睡みに陥落するのだった――




―――――――――


―――――――――




「ん、ぐぐ…!? うぅ…寝てたのか」


 …夢を見ていた気がする。


 それは夢らしく忘却の彼方へ葬り去られてしまっているが、どうにも心に引っ掛かる。


 はて、果たして俺が見た夢はどんなものだったろうか?


 数秒にわたる思案の末…思い出せないという結論に達した。


「オイナリサマは…まだらしいな」


 それほど長い間寝ていたわけではないのか、彼女の姿も見えないし気配も感じない。


 或いはマラカイトの確保に手間取っているのか…まあ、気長に待つのが得策だな。


「さて、本でも読むとするか」


 書斎に向かうため俺はベッドから立ち上がる。


 その瞬間、扉の向こうから崩れるような大きい音が聞こえてきた。


「…まさか、丁度よく帰って来たのか?」


 かすかな疑問を抱きつつも、予定通りに俺は書斎へと向かう。


 目的地の扉を開けた俺の目に飛び込んできたのは、本棚から飛び出し、崩れて幾つもの山を成す本の数々。


「…これの音だったのかよ」


 これから数分…数十分?


 兎にも角にも長くなりそうな片付けを想像し、大きなため息がカーペットを撫でた。



「よいしょ…っと! やっと終わった…全く、本の整理くらいちゃんとやっておけって…!」


 宝石を探しに行った神様への文句も程々に、俺は作業の途中で得られたへと視線をやる。


「…だけど、悪いことばかりじゃなかったな」


 俺はただ棚に戻すだけではなく、大まかな内容で本をジャンル分けした。


 そのお陰だろう、俺は本のタイトルをしっかりと見て片付け、そして興味を惹かれた本は取り分けておくことができた。


「おお、こうやって積むと壮観だな」


 一番上の本を手に取って、鏡を見なくても分かるほど吊り上がった口角を手で降ろして、椅子に腰かけて悠々と読み始める。


 一冊目のタイトルは『赤狐と緑狸』。


 『いつも自分の得意料理で競い合っている二匹の動物が、どちらの腕前が上かを決めるために料理大会を開く』…というあらすじの、所謂童話だ。


 懐かしいかな、読んだことこそ無かったが、外の書店ではよく見かけたベストセラーの一冊である。


「何だかんだ機会は無かったが、興味はあったんだよなー」


 …へぇ、そうなるのか。


 この物語の結末は…三日三晩にわたる料理対決の末、結局二匹は和解して一緒に麺類のお店を開くというものだった。


 まあ、典型的な童話の語り口ってところだな。案外面白かった。


「んで、この本のスポンサーは『西洋水産』とね…」


 そりゃあ、題名からしてあからさまだもんな。


 この物語は随分有名になったらしいし、商品の宣伝効果も十分だったことだろう。


「…こんな神社の片隅にまで置いてあるくらいだもんな」


 脚立を取りに行った倉庫で見かけた時は驚いた。


 まさか外の食べ物――しかもカップ麺――があるなんて夢にも思っていなかった。


 オイナリサマは…じゅる…どうやって…ずず…用意したんだろうな…?


「それに今更だが…本の隣で飲み食いしてもいいのか…?」


 恐らくマズい。しかし、下手に焦って零してしまうのはもっとマズい。


 …このスープをしっかりと飲み干してから、落ち着いて片づけるとしよう。




―――――――――




「そして次は鉱物図鑑…その2」


 さっき俺が取り分けた本は、童話や図鑑や写真集など、文字よりも絵の方が多いものがほとんどを占める。


 小説は読むのに時間が掛かるからな、興味のある本は見つかったが後回しにしてしまった。


 そしてこれから読むのは、最初に読んだものとは違う鉱物図鑑。


「さあて、何処が違うかな」


 同じ題材を取り扱っていても、編集者が違えば内容は当然の如く異なる。


 そんな些細な違いを見つけるのも図鑑を読む楽しみだろう…と、ついさっき思い至った。


「ふむふむ……ん?」


 とある宝石に目が留まる。


 その宝石の名前は真珠。真珠貝によって作られる白く丸く美しい石だ。


「そうか…貝か…」


 思い出した。


 そう言えば、貝を使った料理を作るため、あの二人に貝類を大きく取り扱っている料理本を探してもらってたんだっけ。


 頼んだその日のうちにしまったせいですっかり忘れていた。


「でも、もう読みになんて行けないな」


 俺はここから出られない。

 

 頼んだきりになってしまうことには罪悪感も湧いてくる。だけど、どうしようもない。


 …無駄な憂いが戻ってきてしまった。


 そう、思い出して、ただ気分を悪くしただけ。そんなことをして、良いことなんて今一度も起きなかった。


 外の世界に別れを告げた日あの日も、俺が意識を取り戻した日あの日も、そして…今日も。



 嫌な記憶から目を逸らした先に、今日は鉱物図鑑がある。


「健康に、長寿に、富ね…」


 この鉱物図鑑には、最初に読んだものと違って『宝石言葉』というものが載っている。


 要は、花言葉の宝石版ということだろう。俺がさっき読み上げたのは真珠が持つ宝石言葉の一部だ。


「こんなのもあるんだな……あ」


 そこで疑問が頭に浮かぶ。


 オイナリサマに頼んでしまったマラカイト、あの美しい緑の宝石はどんな言葉を当てられているのだろう?


「調べてみるか。ええと、索引から…」


 あかさたなはま…マラカイト…は、172ページ。


 172ページと言うと…この本の真ん中から少し後半寄りのページになるな。折角だ、ピンポイントで開けられるかチャレンジしてみるか。


 …おお、170ページ。惜しい、ほんの少しズレたな。


 さあ、マラカイトにはどんな言葉…が…


「………」


 …へぇ、そうか。

 

 何とも、タイミングの良い言葉があったものだな。


 そして俺は、ピッタリそれに心を惹かれてしまった訳だ。



「ハハハ…『』か。凄いな、コレも神様のイタズラか?」



 ガチャ…扉の開く音。


 この『世界』の中で、そんな音を出す人物は一人しかいない。



「神依さん、持って来ました…! えへへ、少し遅くなっちゃいましたね」

「気にするな。別に俺も、暇はしてなかったからさ」


 本から視線を外し、オイナリサマの手元に向ける。


 両手に握られた緑色の宝石は、写真よりも暗い色をしているように見えた。


「折角なのでアクセサリーにしてきました! そのせいで時間が掛かっちゃって…」

「…ネックレスか」


 渡された輪っかには彩りを良くするためだろうか、緑の他にも輝く色がある。


 …だが、そんなことはどうでもいい。


 俺の気を更に引いたのは、オイナリサマの首にも同じネックレスが掛かっていることだった。


「なぁ、って…」

「うふふ、気付きました? そう、お揃いにしたんです!」


 ぐらり、地面が揺らいだようで、気力で足を踏ん張り耐える。


 そんな状態を知ってか知らずか、オイナリサマは笑顔で語る。


 …耳鳴りで、碌に聞こえない。



「勿論デザインだけのお揃いじゃありません! 加工の仕方も寸分違わぬ様にしましたし、形が崩れないように護術を何重にも掛けました! これが神依さんを守ってくれるようにお祈りもして、いつでも繋がっていられるように『通信』の――」

 


 俺は、オイナリサマを――その首元を――俺の手元を――お揃いの装飾品を――鈍く輝く緑色を――『危険な愛情』を――ただ、見た。



 ただそれだけで…眩暈がした。

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