Ⅳ-136 錠の向こうに、空っぽの箱。

 書斎に足を踏み入れた俺が真っ先にしたことは、書斎の外の確認だった。


「さて…と。オイナリサマは来てないよな…?」


 扉の隙間から向こうに誰もいないことを確認した後、今度は周囲を見回し、些細な物音にも細心の注意を払う。


 なるべく自然体を装いながら座って辺りを探ってみたが、やはりオイナリサマの気配はしない。


「……よし」


 俺は気を緩めて、しかしまだ周りを確かめながら懐へと手を伸ばした。


 硬い感触に息を吐き、取り出してしっかりと形を目で確かめる。


 …間違いない。これはジャパリフォンだ。


「まさか、偶々返し忘れるなんてな」


 これの存在に気づいたのはついさっきのこと。


 神社で偶然栞を見つけ、本を読むときに便利だなと思って懐に仕舞おうとしたその時、ジャパリフォンが手にぶつかって俺はそれを見つけたのだ。


 完全に予想外の出来事だったが、俺にとっては実に僥倖だ。


 更に言うなら、今まで気付いていなかったことは最高に都合が良い。


「流石のオイナリサマも、コレには気づいてないだろ」


 正直に言って、オイナリサマの読心術は完全に未知数である。


 ための条件、読める情報の範囲、能力の影響を及ぼせる距離、そして……その存在の有無さえも。


 読心術そのものが俺を牽制するためのブラフである可能性もゼロではない。


 そして、本当に心を読めてしまう可能性もまた十分にある。



 だからこそ、あの全知全能の神様が絶対に知らないと断言できるジャパリフォンコレは…祝明がここに忘れて行った最後の希望なんだ。


 俺はコレを見て…半ば諦めかけていた脱出の夢を、もう一度見ることが出来た。



「とはいえそれも…今限りの夢だ」


 次に俺がオイナリサマに会えば――彼女が読心術を使えるという前提だが――この秘密は知られてしまう。


 そうなれば…この手に握られた確かな希望の炎は、神様の吐息によっていとも簡単に吹き消されてしまう。


 夢が、夢のままに終わってしまう。


 現実に帰るために、必要なことはただ一つ。


 このジャパリフォンを使って、今出来る最善を尽くすこと。


 もしかしたら、今日コレの存在を知ったのは間違いなのかもしれない。


 いつか、コレの真価を最大限に発揮できる瞬間が訪れるはずだったのかもしれない。


 さても事態は後の祭りで……いいや、祭りの真っ只中だ。


 終わったものを巻き戻すことが出来ないように。


 既に始まってしまったものも、始まる前には戻せない。


「ならせめて、後悔しないようにやるしかないよな…!」


 このまま、何も出来ないままにされてたまるかよ。


 俺がパークに来てから抱いた、恐らくは最大の決意。


 その目に映った機械の画面は俺に…パスワードを、要求している。


「……なるほど、そう来たか」




―――――――――




「さて…これは予想外だな」


 見ての通り、ジャパリフォンにはロックが掛けられている。至極当然のこと、解かない限りはどんな操作も出来ない。


 何と言うか…パンドラの箱みたいだな。この錠を外した先に、希望が入ってるんだから。


 願わくば…災いは入っててくれるなよ?


「よし…じゃあまずは、推理の時間だな」


 開錠に必要なのは4桁のパスコード。


 単純計算で10000パターンあると考えて、全てを試している時間は無い。


 イヅナが何か数列を設定していることを願って、それを見つけ出すのが最善策だ。


「候補はそうだな…誕生日と語呂合わせと…ってところか」


 俺はイヅナの誕生日を知らない、祝明のも同様だし、ぶっちゃけてしまえば今の日付も分からない。


 パークにに住んでいると、そういうものに気を配る必要が無くなるからな。精々、数日の予定さえ覚えていれば良い。


「研究所に行けば分かるんだろうけどな…ジャパリフォンも、日付は見せてくれないし」


 仮に誕生日から決められていたとして、俺の置かれた条件じゃ到底導き出せそうにもない。


 …誕生日の可能性は捨てた方がいいか。


「方針は決まったな。パスワードは語呂合わせで導く」


 昼食まであと三時間。


 今日の昼の担当はオイナリサマ。途中での乱入が無ければ、呼びに来るまでの時間は目一杯に使える。


「よし、始めるぞ…」


 時計の音鳴る書斎の机で、密かな戦いが始まった。




―――――――――




「まずは候補を挙げる。人や動物、建物、持ち物…それぞれの名前だな」


 人や動物なら単純に、イヅナと祝明…そしてキツネ。


 建物なら雪山の宿と平原にある屋敷も候補だ。


 持ち物なら…イヅナが贈ったという勾玉とか、思い入れのある品が選ばれることだろう。


「候補は大体把握した。そしたら、簡単な奴から試していくとするか」


 画面の電源を入れて、パッと思いついた数字を入力していく。


 入れた数字は『0127 イヅナ』。


 足りなかった部分は0で補い、四桁に揃えてさあ決定。


「…ダメか」


 画面が揺れて失敗を告げ、空っぽに戻った入力画面がまた俺を出迎える。


 一番可能性のある語呂合わせだと思ったが、残念ながら違っていたらしい。


 一応0の位置を四桁目に変えてもう一度試してみたりもしたが、結果は変わらなかった。


「なるほど…いや、次だ」


 悔やんでいる時間など無く、事実として今も差し迫っているのだから。



「他の名前…祝明…ノリアキか…?」


 とても、難しいな。


 どれほど千思万考を重ねても、俺に『ノリアキ』という文字列を数字に置き換える法則は思いつくことが出来ない。


 頑張ってみても…『キ』を『≠』に置き換えるのが精一杯だ。


「となると名前は難しいか…?」


 俺の中では、割と『イヅナ』を『127』に変換する語呂合わせが有力視されていた。


 それが違うことは既に、この機械によって無情にも証明されてしまった。


 早く、四桁ないし三桁の語呂合わせを知っている言葉の中から見出さなくてはいけない。


「キツネ…いや、無理だな」


 横暴を通して『キ』を『9』、『ツ』を『2』に変えたとして、『ネ』はどうあっても不可能だ。


「だったら、数字に変えられる音が多い言葉を探せばいいんじゃ…!?」


 良いぞ、この考え方は突破口になるやも知れない。


 となると何だ…どれが語呂合わせに適している…?


「『ヤシキ』はまず『84ヤシ』…さっきの通りキを9で…ダメか。『ユキヤマ』も…そもそもの話だな」


 地形や建物に当てはまりそうな言葉は見受けられない。


「『マガタマ』はダメ、着物に和服、刀…いや、思いつきそうにないな」


 仕方ない、一度最初の考え方――名前の語呂合わせ――に戻ってみよう。


 万に一つ、見落としている可能性が残っているかもしれない。


 無論、さっきと同じ思考方法では辿り着く先も同じだろうから、違ったアプローチで迫ってみるとしよう。


「さて…例えば俺なら天都神依だから…『カムイ』は難しそうだな。そして……ん?」


 いきなりあったかもしれないぞ…俺の見落としが。


 そうだ…祝明には、狐神コカムイという苗字が有ったじゃないか!


 やれやれ、綺麗サッパリ忘れていた。


 なにせ…フレンズという苗字の無い存在と共に暮らす生活だ。


 祝明のことも名前で呼ぶようになっていたし、気が付かぬ間に頭の隅まで追いやられていたのだろう。


「『コカムイ』…少し無理してでも…5…5…61…か?」


 暗い書斎でよく映える、ジャパリフォンの明るい画面。入力された、四桁の数字。


 震える人差し指で、決定ボタンを押す。


「あ…!」


 次の瞬間、液晶に表示されたのはジャパリフォンのホーム画面。


 そう…成功だ。




―――――――――




「けど、本番はここからだ」


 ジャパリフォンのロックを解除したくらいで安心など出来ない。


 ここから俺は結界の外の情報を手に入れて、最終的に脱出まで漕ぎ付けなくてはいけないのだ。


「運良く三十分で解けたからな、まずは連絡だ」


 しかし声を出せば或いは、オイナリサマに感付かれる危険がある。


 今は、隠れて事を運ぶのが最善。例え、数時間後にバレてしまうのだとしても。


「なら、使うのはメールだな」


 文面も、読みやすいようなるべく事実だけを纏めて送ることにした。



『俺は神依だ。”5561”…パスワードを解いてメールを書いている。察しているかもしれないが、俺はオイナリサマによって結界に閉じ込められた。脱出したい。手を貸してくれないか? 力を貸してくれるのならなるべく早く、可能なら今日の正午までに空メールでも良いからメールを送って来てくれ。オイナリサマは強い、いつまでジャパリフォンを隠していられるか分からない。…どうか、頼む』



「よし…!」


 書いたメールの文章を読み直して、誤字脱字が無いことを何度も何度も念入りに確かめて、荒れ始めた息を、一度穏やかに抑えた。


「ハァ…ハァ…これで、いい…」


 さっきよりも大きく震える指で、『送信』を押す。


「…?」


 あれ、震えすぎたせいか?


 俺の指は、ついに液晶を触ることは無かった。


 あぁ、力も抜けちまったのか?


 俺の手は、もうジャパリフォンを掴んでいない。



「ねぇ、何が…”いい”…んですか?」



 …違う。


 震えのせいじゃない。


 だけど、震えのせいにしたかった。その方がずっと良かった。


「答えてください…コレで、何をしようと?」


 おかしいだろ。


 どうして…気付かれた…?


「神依さん…忘れちゃったんですか?」

「な、何を…?」


 やっとのことで振り返る。


 オイナリサマと…目が合った。


 光なく見開かれた彼女の瞳が怖い。そのはずなのに、視線を逸らすことは出来ない。


 彼女はジャパリフォンを投げ捨てて、大きく開いた腕で、俺を捕まえる。


「私は神様です…神様は何でも、どんなことでも知ってるんです。…隠し事なんて、出来る訳がないでしょう?」


 …痛い。


 強く抱き締められたせいで、腕が軋む。


 …痛い。


 希望を失うことが、こんなにも苦しいなんて。


 いっそこんなもの…初めから…


「そう、おかしな希望なんて必要ないんです。それはあなたを傷つけるだけ。希望なんて、簡単に裏切るんですから」

「そ…んな…」

「でも、安心してください。私は絶対に、神依さんを見捨てたりなんてしません…!」


 俺の希望を冷たく突き放しながら、暖かく体を掴んで離さない。頬に唇に口づけをしては、額を合わせて目を覗き込む。


 ああ、オイナリサマの目は美しい。


 取り込まれてしまいそうだ。


「あなたの傍に、私はいますよ。ずっとずうっと…


 長らえる、沈黙。


 葛藤は無く、迷いなどなく、ただ畏怖に、口を動かせないだけの沈黙。


 やがて、俺を抱き締める彼女の熱で氷は解けて。


 心の錠前も、こじ開けられた。


「…本当に?」


 やっとのことで吐き出した言葉は…暗に肯定を示している。



「…はい、約束します」



 小指を結んで、指切りげんまん。


 やがて絡まった指は五本に増えて。


 もう片方の手も、俺の指を絡め取って。


 腕も、動けないように押し付けられて。


 脚も、彼女の素足が撫でて絡めて。


 部屋は変わって、押し倒されて。


 舌が入って、唾液が混ざって。


「うふふ…約束、しっかり叶えてもらいましたよ♡」



 抜け殻は、まだ魂を絞り取られる。




―――――――――


―――――――――


―――――――――




「……」


 真っ暗な書斎。


 足の指に何か当たって、急に眩しい光が目に飛び込んでくる。


「……あぁ」


 それは、かつての希望。


 …オイナリサマは、置いていったのか?


「…5561、だったかな」


 それは、友の苗字を象ったような、自らの名前をもじったような、不思議な数字。


 一縷の望みを掛けて、それの中身をまた確かめる。


 パンドラの箱の中に、希望が残っていることを希望して。


「…ハハ」


 俺の手から、ジャパリフォンが滑り落ちる。


 カランと鳴ったその音は、異様なほどに高く聞こえた。



「……だよな、そうだよな」


 

 ジャパリフォンからは、全てのデータが消えていた。


 あの一瞬で、果たしてどんな術を使ったのかは分からない。


 サンドスターで動く携帯だ、輝きを自由自在に操れるオイナリサマなら、多少のことは造作もないのだろう。


 …だからこそ、オイナリサマがわざとを残したことが、悪趣味に思えてならない。 


「パスワードなんて、もう意味ないだろ」


 それはまるで、空っぽの箱に鍵を掛けるようなもので。


 期待して開けた者を、酷くがっかりさせる安上がりなビックリ箱。


「けど…いいかもな」


 俺は落としたジャパリフォンを、もう一度拾い上げた。


「お互い空っぽなんだ…お似合いじゃないか」


 寝室の窓を開けて、遠くの空を眺める。


 ここからなら、何処へでも行くことが出来そうだ。


「…じゃあな」


 ジャパリフォンを、遠くの空へと投げ捨てた。


 …何故?


 それはきっと、自由への憧れ。


 自分の夢を、空っぽの箱に託した最後の抵抗。


 けれどそれも…これでお終い。


 錠も、箱も、無くなった。


 『5561』にも二度と、頼れやしない。

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