Ⅲ-124 雪峡に響く
逃げるキツネと追う二人。
雪山に響き渡る声は、少しづつだけど確実に奥へと向かっている。
「ひゃー、ごめんなさーい!?」
「謝るくらいなら止まってくださいよ、ホッキョクギツネさん!」
「そうだ、話だけでも聞かせてくれ!」
「い、急いでるのでー!」
急斜面を駆け上り、三人のフレンズが辺りに真っ白な雪を撒き散らしていく。
周囲に舞った人工吹雪は、彼女たちの姿を僕らの目から覆い隠してしまった。
「…見えなくなったな」
「しかもみんな白いから、誰が誰だか…」
「つくづく、お前があの中に混ざってなくて良かったと思うぜ」
そう言って、神依君はリュックから取り出した白いマントを羽織る。
これで、晴れて彼も『真っ白け軍団』の仲間入り。
「妙な軍団だな、仲間割れしてそうだ」
「あはは、真っ最中だね」
ホッキョクギツネには悪いけど、僕達は予定通りに神社を目指すと決めた。
僕達は本来いてはならない人物だから、彼女を助けになど行けない。飽くまで誰にも見つからずに神社へとたどり着くことが目的だ。
と言っても見失ってしまったから、今から助けようと思っても無理なんだけど。
「しかし、完全に見捨てるのは酷じゃないのか」
「まあ…途中で鉢合わせたりしたら、上手くやるよ」
僕達は、少しだけ開けた木々の間を歩いていく。
誰かが歩いているうちに出来た『道』なのだろう、ポツポツと木の枝が雪に刺さって立てられている。
「そういや、あの二人は誰なんだろな?」
「聞く限り、少なくとも片方は知り合いみたいだけどね。一方的にって可能性もなくはないけど」
「ま、そもそも俺らには分からん話か」
彼女は久しぶりの友達と言っていた気もするし、面識があっても不思議じゃない。
「じゃあ…どの動物なんだろうね?」
「片方はホッキョクギツネに似てるようにも見えたな」
「イヌ科の仲間ってことかもね」
そしてもう一人の方は、結構長めの耳があったように見えた。…ウサギかな?
「どっちにしろ、上手く逃げ切れるといいな」
「うん…そう、だね」
「…どうした、何か気になるか?」
「ううん…別にいいや」
そう、気にしている場合ではない。
ホッキョクギツネの住処からヒトの施設までおよそ二日、行こうと思えばいつでも行ける距離にあったことも。
それにも拘らず、誰かと話すのが久しぶりだと彼女が言っていたことも。
どんな理由があったところで、僕が深入りする理由はない。してはいけない。
――これ以上、僕は必要以上に誰かと仲良くしてはいけないから。
「神依君、今日はこの辺りで寝ようよ」
「そうだな、すぐ先も見えないくらい暗くなっちまった」
…でも、僕じゃない誰かなら、それこそ神依君なら。
「おやすみ、また明日ね」
「ああ、また明日」
彼女の心に踏み込んで、そして仲良くなれるのかな。
分からない、分からないけど…一つ明確なことはある。これは、僕が決めるべきことじゃない。
さあ、神社までの道のりも、もう折り返しだ。
このイレギュラーな旅も、気付けばあと僅か。
―――――――――
「っ……はぁ、はぁ…」
荒れ放題の息を振り撒いて、わたしは真っ暗な雪世界を見渡した。
…よかった、もうあの二人は追ってきていないみたい。
「でも、カムイさんたちとはぐれちゃいました…」
お二人はどこにいるのでしょう、出来ることならもう一度会いたい。
折角、わたしに出来た久しぶりのお友達なんです。こんなことでお別れなんて、あまりにも寂しい。
それはもう、今まで過ごしてきた一人きりの生活よりもずっと。
うふふ、どうやら一度この楽しさを知ってしまうと、もう手放せなくなるみたいです。
まるで、前にオイナリサマが言っていた『アブナイおくすり』のようですね。
「お友達…いい響きですね……あれ?」
仰向けになって呑気に休んでいたわたしですが、大きなお耳は文字通り耳聡く異変を察知しました。
ふむ、遠くから声が聞こえます。
「おーい………いるかー…?」
この声は…誰のでしょうか? 遠くてうまく聞き分けられません。
ですけど、口調からしてアレは二人組の片割れ、ホッキョクオオカミに違いないでしょう。
なんとしつこい。
この限りだと、ホッキョクウサギさんもまだ諦めていないと思った方が良さそうですね。
「とりあえず、穴掘り頑張ります…!」
素早く動いて、わたしは隠れ家を量産します。
一つだけでは心許ないですね、沢山作って安心感の獲得と欺くための準備をしておきましょう。
そして盗んできたジャパリまんも半分まで減ったころ、わたしの穴掘りは無事に終わりを迎えることが出来ました。
「ふぅ…五つもあれば十分ですかね」
五つで十分、一つで二分。
オイナリサマに教えてもらった簡単な計算です。…でも、これ以外は知りません。
…この先へ進めばもう一度、あの方に会えるのでしょうか?
ああ、沈みかけていたお日様もいつの間にかお月様とすり替わってしまいました。
なんとなく、辺りの空気も重くなったように感じます。
「…寝ちゃいましょう」
また明日、明るくなってからカムイさんたちを探すことに決めて、雪の中に体を沈めます。
深く深く、
「お…ここにいたか」
意識さえも沈み切ってしまう直前、わたしの耳を揺らしたのは…
―――――――――
「ん、なんだ…この音?」
「え、音って…?」
「聞こえないのか? …雪を掘ってるような音だ」
微かな音だが、確かにそこから響いてきている。俺たち二人以外の誰かが、この雪山で生きている。
ホッキョクギツネ? 追いかけていた二人? それともセルリアン?
その正体に関わりなく、『ここを動くな』という結論を本能が訴える。
厄介事を引き寄せる必要はない、朝になれば安全に確かめられる、だからここに居ろと叫ぶ。
疑う余地なく合理的な恐怖はしかし、好奇心とも似て非なる知りたいという衝動に上塗りされていく。
「僕には聞こえないけど…神依君?」
「なんだ、俺は何が気になるんだ…?」
何故なのか、音の主が誰かなんてどうでもいい。
これを放っておけばもっと別の何かが知れなくなってしまいそうで。
その恐怖は、身の安全を訴える臆病さよりも強くて。
そう、結局恐怖に打ち勝ったのは、別のもっと強い恐怖だった。
「祝明、少し確かめてくる」
「そんな、こんなに暗いんじゃ危ないって、また明日…」
「それじゃダメだッ! た、多分、だが…」
行き場のない感情に荒ぶった声は、遠くの樹上の雪を揺らした。
「ねえ…一体どうしたの…?」
目に映るのは祝明の怪訝な顔。
そりゃそうだ。こんな気が狂ったような衝動、他の誰かに解る筈もない。
「…怒鳴って悪い、だけど、行ってくる」
イヅナの携帯を祝明の目の前に突き出し、ポケットに入れた。
「コレさえありゃ、こんな雪山の中でも連絡は付くだろ」
「そう…本気なんだね」
「心配するな…とは言えないが、なるべく早く戻って来るさ」
「…うん、気を付けて」
―――――――――
懐中電灯から、まるで暗闇を切り込むように広がる光。
驚かさないよう、でも聞こえるよう、静かな声を光の方へと響かせる。
「おーい…誰か…いるかー…?」
返事は聞こえない。それもそうか。
向こうだって、得体の知れない呼び声に返事をするほど能天気ではないということ。
「或いは全部、俺の幻聴だったか?」
夜闇は俺の心を呑み込むように眼前へと迫ってくる。
「…おわっ!?」
黒の中から赤いセルリアンが飛び出してきた。ハハ、時間が巻き戻っているようだ。血のように赤い。
真夜中に、
「あぁ…! いよいよ幻覚っぽくなってきやがった」
まだ問題ない、セルリアンは本物だ。俺の腕を食おうとして…して…
「って、やべっ!?」
今からでも戻るべきか? 我ながらヤバい気がする。
「いや、もう少しだけ、何か在るかもしれないんだ…!」
沈み込んだ足を持ち上げて、前へ前へと踏み均す。
間違いない、俺は目指しているものへと確実に近づいている。そんな奇妙な感覚が、俺の背中を押してくれている。
これも幻覚だったなら、溺れてしまって構わない。
「お…ここにいたか」
「か、カムイさん…?」
良かった…これは、幻覚じゃなかった。
―――――――――
雪の結晶をはらりと落とし、雪のように美しい髪の毛を引き摺って、ホッキョクギツネは体を起こした。
「…どうしたんですか、こんな夜中に」
「お前がここにいるような…そんな気がしてな」
「でもそれだけじゃ、来なかったでしょう?」
彼女はほんの少し体をずらし、空いた場所を手で撫でて、座るように促した。
その言葉に甘えて腰を下ろすと、抑えていた疲れが一気に腰を襲った。
ああ…結構無理してたみたいだな。
この腰の痛みは、ホッカイに来てからずっと我慢してきた疲れの全てだ。
「…?」
すると、柔らかな暖かさが腰を包んだ。横を見ると、ホッキョクギツネが体を寄せて腰に腕を回していた。
「暖かくすれば、疲れも取れますよ」
「…ありがとな」
どうやら、随分と分かりやすい表情をしてたみたいだな。でもいいか、無理して繕う必要なんてきっと無い。
体を寄せてくるホッキョクギツネの片腕を取って、手を繋いだ。
「…カムイさん?」
「良かったら、聞かせてくれないか? どうして友達がその…ええと…」
「ふふ、気を遣わなくていいんですよ? 少ないのは本当のことですから」
そう言いながら、カラカラと彼女は笑った。
寂しそうな目をして、不釣り合いな程に明るい笑みを浮かべて。
俺はゆっくり息を吐いて、今度こそしっかり尋ねる。
「教えてくれ、キミの…友達のこと」
「…分かりました」
彼女の顔にも、今度こそ笑顔はない。悲しい表情がとても自然で、本当によく似合っていた。
―――――――――
「昔の友達って、ホッキョクウサギさんのことなんです。ずうっと前の話ですけどね」
彼女が言う『昔』が果たしてどれほど前のことなのか、推測することは出来ない。
ただその口ぶりから、彼女がかつての日々をとても遠いものだと思っているのだと、俺は感じた。
「今更ながら、わたしたちはとっても仲良しだった…って、そう思ってるんです」
やたらと強調されるその三文字は、彼女が立てた過去を遠ざけるための柵だ。
「もしかしたら、今からでも戻れるかもしれない」
「カムイさんは優しいんですね……いえ、話を戻します」
”雪山って、食べ物が少ないんですよ”
そう一言懐かしむ声。
美しい思い出話の取っ掛かりに聞こえなくもないこの言葉も、きっかけを暗示している。
「だからわたしも時々、食べ物に困っちゃったりしました。ボスやヒトのみなさんに中々会えなかった時は大変でしたね…ふふ」
「つまり、それって」
「盗んだりしましたよ、丁度今日みたいに」
頭の中をいくつもの想像が飛び交い始める。
湧き出るように現れる下種な勘繰りを気持ちで押さえ、じっと堪えて次の言葉を待った。
疑いようのない答えを、彼女自身の口から聞くために。
「…ふふ、見つかったのは初めてですね」
「盗みがバレて、こじれた訳じゃないのか」
「ええ、あの子はきっと、今回が初めてだと思ってるはずです」
「一つ聞かせてくれ。ホッキョクウサギは、お前のことを…その、良く思っていないのか?」
沈黙が響く。
この質問が核心を突いたのだと、その静寂が雄弁に語っている。滲み出した寂寥の雫を目の端から零して、彼女は尚も笑った。
「きっとまだ、友達だって思ってくれてるんでしょうね。避けてるのは全部…わたしですから」
「なら、だったら尚更…?」
「無理ですよ、わたしのせいで、ホッキョクウサギさんは…」
笑う、コイツはまだ笑う。
口角が吊り上がって、見るに堪えないほどに顔が歪んでも、彼女は笑うことを止められない。
「ああ、きっと、わたしはあの子のことなんて何とも思ってなかったんです。だからまた盗んだんです。全部忘れて、性懲りもなく」
「……そうか。嫌なこと、思い出させたな」
「いいんです、わたしなんて、別に…」
また沈黙がやって来る。今度こそ何も語らない静けさには、寒空がよく似合う。
声を掛けて慰めるべきだろうか。俺に、彼女の心を癒すことが出来るのだろうか?
「…”全部忘れて』”、それは、俺も…!」
きっと同じだ。
全部忘れて逃げたのだ。俺はもっと臆病で、確実な方法を使った。
誰が違うと言っても、許してくれたとしても、俺はこの枷を外せない。
俺には無理だ。 コイツの心に踏み込んで、それを癒すことなんて。
「…なぁ、寝ないか?」
「はい、そうしましょう」
出来ることならば、この場所から今すぐに逃げてしまいたいと、そう、心の底から願った。
お誂え向きな『逃げる理由』が向こうから現れてくれないかと、酷く怠惰な望みを抱いた。
叶わないから俺は願って、優しく暖かな白に包まれて、深く深く…眠った。
―――――――――
―――――――――
そして、再び日が昇り始めた頃のこと。
ゴゴゴゴゴ……!
俺たち二人は、時計よりも耳障りな目覚ましに目を開かされた。
「何でしょう、この音…!?」
「まさか、雪崩か…?」
外に出てハッキリと音を捉えれば、すぐに分かった。聞き違えようのない鳴き声が、俺の元へ届いた。
「ああ…そういうことか…」
ああ…憎たらしき神様、叶えてくれてありがとう。ただ、少し遅すぎるかな。
吼えて、轟く、この銀世界に。
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