Ⅱ-117 シロツメクサの解けぬ指輪
「…約束。破ったら、許さないわよ?」
クローバー、またの名をシロツメクサの花言葉。
四つ葉で『幸運』、三つ葉で『復讐』。
他にも言うなら、それは『約束』。
復讐とは、何のための復讐だろう。 …裏切られた『約束』のための?
それはどんな復讐か。 果たしていつまで『許さない』のか。
だとしたら、その復讐に終わりは訪れないのかな。
本当に、ずっと『許さない』のなら。
「……うん」
彼女の言葉を噛み締めて、僕はゆっくり首肯する。
結ばれたそれを、じっと見つめた。
―――――――――
「…木の実?」
僕が聞き返すと、ギンギツネははにかんだ笑みを浮かべる。
「ええ、雪山のふもとに、美味しい木の実が落ちてる森があるの」
ご飯に使いたいから、一緒に取りに行って欲しいのだと言う。
しかし…いや、そういうことか。
彼女の顔を見て、僕はこんな朝早くに呼び起こされた理由を悟った。
「分かった。じゃあ…早めに行こっか」
「…っ! うふふ、そうね…!」
音を立てないように、そっと支度を調える。
顔を見せたばかりのお日様に照らされ、僕達はふもとの森を目指して宿を発った。
「…この辺り?」
しばらく歩いていると、ギンギツネが森に差し掛かった所で足を止めた。
「あー…もう少し奥かしら…」
ギンギツネはキョロキョロと見回し、今度は僕の手を引いて歩き出した。
確かに、この辺の地面に見えるのは枯れ葉が殆ど。
見上げてみても、それらしい実が生っている木は見当たらない。
「ところでなんだけどさ、今日取りに来たのって、何の木の実?」
「…木の実は、木の実よ」
「そ、そうなの…?」
妙なところで力押しなギンギツネ。
戸惑っていると、手の平に硬い感触がした。
「…ほら、これが木の実よ」
ふと手渡された木の実。
その形を確かめて、思わず呟きが漏れる。
「あぁ、木の実、だね」
「ふふ、でしょ?」
ギンギツネから渡されたそれは、『木の実』としか形容できない不思議な形をしていた。
見たことも無い、本にも載っていない。
彼女の言った通り、「木の実は木の実」だった。
「さあ、程々に拾いましょうか」
「…うん」
一つ一つ、小さな籠へと入れていく。
籠が半分ほど埋まったら木の実拾いを切り上げて、ギンギツネは森のさらに奥へと僕を連れて行く。
…なんとなく、ギンギツネの目的はこれだけじゃないと感じていた。
この先には、何があるのかな?
やがて、木々の隙間から差し込む光が強くなる。目を細めてしまうほどの白光の後、開けた原っぱが僕達を迎えてくれた。
―――――――――
「どう、初めて見るでしょ」
そこは小さな緑の世界、豊かな命が生い茂っている。
後ろの森が放つ閑散とした雰囲気をものともしない、しかし周りから取り残されたかのような楽園。
「…いい所だね」
柔らかい草を撫でて、そっと腰を下ろした。
ギンギツネは背中を合わせて座った。
「嬉しい、あなたと二人きりでこんな素敵な場所に来れるなんて」
そう語りかけられるけど、僕は言葉を返せない。
…頭の中にチラつく存在が口を噤ませる。
「ねぇ、ノリアキさん」
「何…かな?」
「お願い、今は私だけを考えて。ここには私とノリアキさんしかいないんだもの」
「ギンギツネ…だけ」
でも、僕の頭はあの二人を忘れてくれない。
思えばいつだってそうだった。僕は、誰か一人を想うことが叶わなかった。
気づいた時には、そんな状況に追い込まれていた。
尚も踏み切れぬ決意に、ギンギツネは火を灯す。
「ねぇ…何が邪魔なの?」
「じゃ、邪魔じゃないよ! ただ…あっ、ええと…」
たった一言に平静を失った。
手を振りほどいて、力任せに叫んだ。そして気が付いて、続く言葉を失った。
ただ、『誰がいなくなること』だけを恐れている自分の姿を、ギンギツネの瞳越しに見てしまって。
「……ノリアキさん、あなたは何も気負う必要はないの」
指先が優しく僕の頬をなぞっていく。
そのくすぐったさは、まるで涙のようだった。流せない雫を、彼女が代わりに流してくれているようにも感じた。
「全部、私がやってることだもの」
とても甘くて、全て任せて縋りたくなる。
「本当に…そうなの…?」
「そうよ。でも、まだ不安かしら?」
「…うん」
まだ心に引っ掛かりが残っている。
それはずっと前、やはりギンギツネが本当の気持ちを明かす前から生まれていたしこりだ。
僕は、やっぱり――
「”不埒者だ”って、そう…感じてるの?」
「きっと…ううん、その通り…だね」
「だからそれはノリアキさんのせいじゃないし、私はそれでも良いと思ってる」
今までも、そんな風に扱われてきた。
イヅナもキタキツネも言葉には出さなかったけど、あの提案を受け入れた時点でそう言っているのと同然だった。
「忘れないで。あなたが誰か一人に本気になる時はそれは――」
「誰かが死ぬ時。…そうだよね?」
ギンギツネは黙って、ただ、僕の手を握った。
それでも、この心に巣食う躊躇いは完全には消えてくれない。なんて優柔不断で、情けなくて、恐ろしい。
だけど心なしか、楽になれたとは思う。
「ありがとう、ギンギツネ」
柔らかい風が、尻尾を波立たせた。
―――――――――
『本気』にならなくてもいい、一人に入れ込めば誰かが死んでしまうから。
究極の意味では誰か一人だけのものにはならず、宙ぶらりんのままでいるのが一番。
…そうなのかな。
「さっきはああ言ったけど、本気になっても悪くないんじゃないかしら」
もし、それが可能ならば。
「三人とも本気でしてくれるなら、不平等じゃないでしょう?」
「そんなこと、出来るのかな?」
「私は、やってほしいわ…!」
「…そっか」
真っ直ぐ、逸らさずに僕を見つけるギンギツネの目には、今日一番の迫力があった。…まだ早朝なのはさておいて。
彼女は、100%自分のための感情を剥き出しにして僕の前に立っている。
「だからほら、私を見てっ!」
原っぱの真ん中まで走って、ギンギツネは大きく手を振った。
「こっちにおいで」と言うように、両腕をバッと広げた。
僕は…一思いに、その腕の中へと飛び込んだ。
「ふふ、ノリアキさん!」
「ギンギツネ…これで、良いんだよね?」
「今この瞬間は…ね」
寂しそうな笑みを浮かべて強く抱き締めるギンギツネ。
やがて足がもつれ、僕達は緑の中に倒れ込んだ。
未だ灰色を残す空模様と、彼女の鮮やかな毛並みの色が混ざり合って、真っ暗な視界に全て委ねた。
意識が呑まれる間際、恍惚に悶える喜びの声が僕の耳を一口に包み込んだ。
「うふふふふ…! ようやく、私は手に入れたのね…!」
―――――――――
―――――――――
『ギンギツネ、ご飯は…?』
『待ってて、もうすぐ出来るから』
『…うん』
私にそれだけを尋ねて、キタキツネは行ってしまう。
行先は知っている、ノリアキさんのところだ。
私は行けない。近づいてはいけない。
キタキツネともイヅナちゃんとも違う、蚊帳の外にいるのだから。
『…はぁ』
想像しなくとも憂鬱な気分になる。
キタキツネはきっと、ゲームでもしてノリアキさんと楽しむのだろう。
或いは彼に甘えて、時をも憚らずにまぐわうのであろう。
私は、触れることすら叶わない。
『でも何時か、必ず…だからその時のために、今は耐えるのよ、ギンギツネ…!』
大丈夫。まだこの想いは誰にもバレていない。
それなら宿にも居られる。ノリアキさんを遠くから見ていられる。
元々住んでいた私を追い出すのも道理に合わないし、私は彼女たちにとって無害な方だと思われているから。
…キタキツネを心配する振りを続けている限り、私は排除されないだろうと踏んでいる。
『必要なのはチャンス…一気に状況を変えるための、切っ掛け』
なるべくなら派手でキャッチーな事件が良い。
巧妙に私の思惑を紛れ込ませて、気付かれたタイミングで全てを暴露する。
なら、事態を複雑にするのは避けるべきね。
用意した『謎』の先にいるのが私一人なら、より気づいて貰いやすいはずだもの。
『今回のセルリアンの騒ぎはまあ…僥倖だったかしら』
彼に、一時だけでも近づけた。
バレる危険もあったけど、気付かれなかったから結果オーライ。
それに『壊れた宿』は、事件を引き起こすための布石に出来るに違いない。
既に私から一度アクションを起こした。何かの拍子で知られる危険は前と比べて高くなっている。
焦らず、しかし早急に事態を動かしたい。
『そういえば、博士が……そうね、そうしましょう!』
上手く使ってやろうじゃない、賢い賢い博士たちを。
もう、起こす事件の”切っ掛け”も決めた。
そうよ、私は必ず――
―――――――――
―――――――――
「…ん、寝ちゃってた?」
「おはようノリアキさん、グッスリ眠ってたわね。やっぱり、早く起こしすぎたかしら?」
「ううん、ギンギツネの抱き心地があまりにも良かったから…」
「まあ、抱き心地だなんて…!」
「あはは…ぎゅっとする方だよ?」
僕らは冗談を言い合って、ケラケラと笑いあった。
努めて今までよりも気軽に、まるで恋人のように。
少なくとも今は、それができるから。
「私も夢を見てたわ、ノリアキさんがモフモフすぎたせいで」
「そうなんだ…ごめんね?」
「もう、どうして謝るの?」
ギンギツネの指が髪の毛を梳いていく。
ふうっと吐息が間を掠めて、緑の風が耳を揺らした。
すると、ギンギツネが徐に僕の左手を持ち上げた。
「ノリアキさん…これを」
「これって…クローバー?」
根元からポッキリと折られた茎を丸めて、左の薬指に巻き付ける。そしてその先を結びつけると、綺麗な白い花を付けた指輪が出来上がった。
「…前に本で読んだの。このお花には、『約束』って言葉が付けられてるって」
さながらこれは、約束の指輪。
―――――――――
「ねぇ、私と約束して」
病める時も、健やかなる時も。
喜びの時も、悲しみの時も。
富める時も、貧しい時も。
どんな時でも、私だけを見て、そして愛してほしい。
だけどそれは…もう、無理だから。
「私を、見捨てないで」
「……っ」
お願い、そんな辛い顔をしないで。私が…私に手に入れられる最高の形が、これしか残されていなかっただけだから。
だから、せめてこれだけは…
「…約束。破ったら、許さないわよ?」
「…うん」
―――――――――
「…さて、そろそろ帰らないとあの子たちが起きちゃうわね」
雲の隙間から差し込んだ光に目を細めて、ギンギツネはそう言った。
手で顔を覆って彼女は歩き出す。その表情も、手で覆い隠すようにして。
「…こっちの手、いい?」
「あっ…」
彼女の片手が提げている籠を、僕の片手も持っていく。
手と手を重なるように、取っ手を優しく握りしめた。
「あったかい…」
どうしてだろう。言いたいことが沢山あったはずなのに、手を握ったら口が動かなくなった。
なんとなしに彼女を見ると目が合って、互いに面食らって目を逸らした。
そのまま僕たちは、来た道を戻って宿へと帰る。
でも、全然大丈夫。
きっと、雪山の寒さの中で生きるためには、この手の熱だけで満足だから。
…ふと、気になって左手を眺めてみた。
彼女に着けてもらった指輪は、まだ綺麗に残っている。
この花の美しさも、いつまで続くのかな?
考える僕の頭に、ふわりと何かが舞い降りた。
「…?」
無造作に手に取ってみると、それは脆くも崩れて消えた。
茶色の破片が散るのを見て、ようやく”それ”が枯れ葉であることに気づいた。
見上げれば、今にも取れて落ちそうな葉っぱが沢山ある。
ああ、なんと儚いのだろう。
視線を左手に戻す。
きっとこの白い花も、今日の陽が沈むころには色褪せて輝きを失ってしまうのだ。
だからその前に…消えないように守らないと。
「ノリアキさん…!?」
そう思ったら、体は勝手に動いた。
無意識のうちに、僕の左の薬指は口の中へと差し込まれる。
「ん…れろ…」
舌で指輪を捉え、壊してしまわぬよう丁寧に指から外す。
そして、一思いに飲み込んだ。
「あ…!」
きっと、ギンギツネは喉の動きを見て察してくれた。
「大丈夫、壊れてないよ」
噛まず、潰さず、解かせず。細心の注意を払って、僕は胃袋へ指輪を下ろした。
でもまだ、ギンギツネは不安な表情をしている。
突然だから驚いちゃったのかな、ちゃんと説明してあげないと。
「…こうすれば、『約束』がずっと解けずに済むかなって……そう、思ったんだ」
しっかり言おうと思っていたのに、僕の口ぶりは段々とたどたどしく変わっていく。
きっと、拒まれることが、怖い。
手を強く握って、抑えられないのはそのせいなんだ。
視線が、ギンギツネに釘付けになる。
なんて、言われるのかな。
固まった僕の目を見て……ギンギツネは一言。
「…嬉しいわ!」
――サクッ。
軽く踏み締めたその音は、崩れる葉っぱか雪の結晶か。
ともあれ今この瞬間、『約束』は永遠のものになった。
復讐は終わらず、また始まりも訪れない。
三つ葉がそこに有るのなら、裂いて四つ葉にしてしまおう。
作り物だって…ううん、作り物だからこそ信じられる。
約束も、幸運も、その先にある幸せも。
――今になって思い出した、シロツメクサの花言葉。
『私を想って』
『私のものになって』
確かに色々あるけれど、あの指輪はどれだったかな?
…全部?
それもいい、そんな欲張りも素敵だと思う。欲しいなら、あげるつもりだから。
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