Ⅱ-115 リアルファイトもげぇむだよ

 シュッ、シュッ…


 まっすぐに腕が伸びて、握り拳が空気を貫く。静寂が支配する空間に、厳かな振動が響き渡る。

 

 その真剣な瞳から繰り出される攻撃を、簡単な表現に詰め込んでしまうのは忍びない。


 だけど、敢えて簡潔に今の状況を言うのならば。

 

 …キタキツネが、シャドーボクシングをしていた。


「もう、負けない…」


 少年漫画さながらのセリフと共に拳を突き出す彼女は、やはりあの日のことをまだ気にしているのだろうか。


 ギンギツネにいとも容易く取り押さえられた、あの夜のことを。


『格闘ゲームが好きなのに弱いなんて』


 ギンギツネが言った、特に深い意味もないであろう皮肉。


 それもキタキツネにとっては深刻な一言だったのであろう。

 そうでなければ、彼女の行動に説明が付けられない。


 まあ…件の出来事に関しては、ギンギツネが強すぎたような気もするけど。


「頑張ってるね、キタキツネ」

「だって、ギンギツネに勝たなきゃだもん…!」


 ゲームは時にその枠を超えてリアルファイトに発展する。


 …圧倒的にゲームの技術で勝っている方が仕掛けるリアルファイトも珍しいものだけど。



「やだなぁ、キタちゃんが暴れるたびにノリくんが怪我するんだもん」


 通りすがりに聞こえた言葉も、キタキツネの耳には届いていない。


 汗だくになりながらも拳を振るい続ける姿を見かねて、僕はキタキツネに声を掛けた。


「…そうだ、飲み物でも持って来よっか?」

「え? あ…ありがと…えへへ」


 拳の軌道が大きく揺れる。


 踏み込んだ足も覚束ない様子になって、表情は戦いを見据えるそれではない。


「あはは、ちょっと待っててね」


 もし本番が訪れたなら、途中で彼女に話しかけることだけは絶対にやめよう。

 そう、僕は強く心に決めた。


  

―――――――――



 キッチンまでやってきた僕は、文字通りの冷蔵に置いてあるスポーツドリンクを探した。


 ドリンクは、いつの間にやら赤ボスが運び入れていた。

 多分、建物を改修した辺りのことだろう。


「あれ…どこに置いてあったっけ…」

「探し物はコレかしら?」

「あ…ギンギツネ」

「…うふふ」


 ギンギツネは中の液体を揺らしながら妖しく微笑む。

 

 今の僕には少し話しづらい相手だ。

 主に、キタキツネとの関わりで。


「気張らなくてもいいわよ、キタキツネのことでしょ」

「あぁ…まあ、そうだね」

「私は別に、あの子の気が済むまでやらせてあげればいいと思うわ」

「…そっか」


 ギンギツネはその振る舞いに余裕があるように見える。


 或いは見せかけかもしれないけど、それでも感じさせられる安心感があった。


「はい、変なものは入れてないわよ」

「……うん」

「あ、信じてないでしょ。もう、キタキツネに何か盛ったりなんてしないわよ」

「…あはは、信じるよ」


 そう、キタキツネ盛らない。

 薬を飲まされるのは専ら僕の役目だ。


 キタキツネもそうだし、彼女たちが薬に向ける信頼の正体は果たして何なのだろう。


 僕はし、昼にも

 その内耐性がついて効かなくなりそうだ。


 まあ、それは一度置いておこう。

 

「ええと、ありがとね」

「ええ、キタキツネにもよろしく」


 はて、何を”よろしく”すればいいんだろう。

 困り果てた僕は揺れるドリンクの水面をじっと眺める。


 …このまま思考に沈んでも、きっとずっと答えは出ない。


 僕は考えることを諦めて、キタキツネのいる部屋まで行くことにした。




―――――――――




「…相手が欲しい」


 キタキツネがそう言い出したのは、特訓を始めてから数日が経った頃のことだった。

 

「相手かぁ、務まるなら僕でもやるけど…」

「ノリアキはダメ!」


 絶対に認めないと首を強く横に振る。

 

「そ、そう…」


 そうは言っても、僕以外に相手が出来るのかな。


 セルリアンを相手取れば言わずもがなで実戦だし、イヅナやギンギツネを相手にしても色々悶着がありそうだ。


 他の子たちは…様々な意味で巻き込むわけにはいかない。


「ねぇ、やっぱり…僕が相手するのが一番じゃないかな」


 もう一度彼女に問いかける。


「…ノリアキって、そういう趣味?」

「…えっ?」


 予想外の質問が飛んできた。

 

 といえばつまり、痛めつけられて嬉しいのかどうかということだと思う。


 どうだろう、自分ではよく分からない。


「もしかしたら、そうかもね」

「そうなんだ…」


 僕の返答を受けてキタキツネは物思いに耽る。

 うん、おかしな返答をしてしまった。


 キタキツネを見る限り、嫌そうな様子ではないのが救いだ。


「手、こうして」


 そう言ってキタキツネは、パーの形をした手を観音様のように胸の前に立てる。


「…こうかな」


 鏡合わせのように僕が同じポーズを取ると、刹那の間に鋭い衝撃が僕の手を襲った。


「ていっ!」

「わっ!?」


 繰り出された拳は本気で、無防備な手の平は威力をそのままに貰って後ろへ飛んでいく。


 確かに痛い。でも不思議だ。


 受けた痛みよりもずっと大きい高揚感が、僕の頭の中を埋め尽くしている。

 

「キタキツネ、今のもう一回やって!」

「え? わ…わかった」


 その後も、幾度となく彼女の拳が僕の手を痛めつける。

 

 それが嬉しくて、楽しくて、悦ばしくて。


 収まることのない幸福感は言語中枢を麻痺させて、もう消えたはずのあの日の傷跡を疼かせる。


 キタキツネの爪が掻き切った僕の手首。

 思い出す度意識が飛びそうになってしまう。

 

 あの傷はまだ浅かった。

 もっと深く抉ったら、どうなってしまうのだろう?


「…ノリアキ?」

「…あぁ、何でもないよ」


 もしも彼女の拳を、掌以外で受けたとしたら?

 

 …考えに考えた末、僕は一度この衝動を心の奥底に仕舞っておくことにした。


 三人とも、僕の体に傷がつくことを良しとしないに違いない。

 でも、例えばこれが許されるのなら…ううん、やめよう。



 さて、僕の話は一旦お終い。

 ここからはキタキツネの話をしよう。


 ギンギツネへの対抗心を燃やし、現実での格闘を鍛えた彼女の武勇伝の顛末を。




―――――――――




「決闘だよ、ギンギツネ」

「あら、もう特訓は終わっちゃったの?」


 食って掛かってきたキタキツネに、ギンギツネはさらりと皮肉を返す。


「もう勝てるようになったもん…!」

「楽しみね、何のゲームかしら」

「ゲームじゃなくて…現実だよ」


 見せつけるようにファイティングポーズを取るキタキツネ。

 

 それを見たギンギツネは肩を竦めて、ニコニコと不敵な笑みを浮かべる。


「さあ、掛かっていらっしゃい?」


 開戦の時は想像よりも早く、キタキツネはギンギツネに飛び掛かっていってそして――



「うえーん、ノリアキ―!」



――負けた。



「よしよし、頑張ったね」


 二人の戦いは、傍から見ていても圧倒的な力の差を感じる一戦だった。


 まず、体の鍛え方が違う。

 と言っても、大きく違うのは単に掛けた時間だと思う。


 キタキツネはずっと前からダラダラするのが大好きだから。


 しかし差はそれだけかと問われればそうではなく、身のこなしという点でもやはり練度の差が垣間見えた。


「なんであんなに動きが速いの…?」

「あはは、本当にいつの間に鍛えてたんだろうね」

「今度は絶対に勝つもん…!」



 キタキツネの目が燃えている。

 きっと、ギンギツネの最後の言葉がまだ頭の中に響いているのだろう。


『大丈夫よキタキツネ、まだ伸びしろは沢山あるんだから♪』


 完膚なきまでに叩きのめした後の一言。

 

 悪びれもなくそんな言葉を吐く彼女が、その瞬間は都人のように見えた。


『ノリアキさんも、キタキツネを気に掛けてくれて嬉しいわ』


 そう言う彼女の瞳が曇っていたのは、最近キタキツネに構いすぎているからかな。


 ちゃんと彼女の日には相手をしてるんだけど、やっぱり気になるものだよね。



「そろそろ、この特訓自体も考え時かなぁ…」


 しかしキタキツネの心情もある。

 特訓を止めるにしてもそれなりの『結果』が必要だ。


 …八百長をしてみる?


 …勘が鋭いし気づかれてしまいそう。

 


 ああ、打つ手が思いつかない。

 これならいっそ、”ルール”で一切争えないようにしてしまいたい。


 争いを止めるルールそのものはある。


 だけどそれは『二人きりの時間を邪魔してはいけない』という限定的な制約だった。

 だからあの二人のは止められない。


「それでも全部禁止したら、ストレスも溜まっちゃうよね…」


 このルールも悩んだ末の妥協案だったのだろう。

 眠っていたから真実は分からないけど。


「あーあ…」


 カレンダーを見ると、今日はイヅナの日だ。

 さて、もうこのことについて考えるのは止めにしよう。


 時間が解決するといえば語弊があるけど、時間で悪化するようにも思えないから。


 『経過観察』って言ったら、聞こえは良いのかな。




―――――――――




 それからも、キタキツネは『打倒ギンギツネ』の目標を諦める様子はなかった。


 数週間が経った頃にはイヅナもキタキツネの思惑を把握して、度々ちょっかいを掛けてくるようにもなった。


「違うよキタちゃん、ここはこう!」

「こ…こう?」

「もう少し右、刺し違えてでも倒す気概で!」


 あれかな、キタキツネを鉄砲玉にする気なのかな。

 

 共通の相手がいるからか、二人の関係は良くなっているように見える。


 矛先を向けられたギンギツネのことが心配になるのだけれど…


「あらあら、あんなに仲良くなっちゃって」


 …まあ、気に病んでいる風には見えない。


 

「キタちゃんに足りないのは思い切りだよ、いざという時は手段を選んでなんてられないの」

「思い切り…」

「そう、後のことなんて考えなくていいの」


 それより気掛かりなのはイヅナの指導法だ。


 キタキツネも本気で受け止めてはいないと思うけど、何かの間違いでその通りに戦われたら大変なことになりそう。


 それになんて、かつて自分を生き埋めにした人物に向かって放つ言葉なのだろうか。


「一回くらいは強く言うべきなのかな…?」


 本当に『思い切り』というものが必要なのは、もしかすると僕なのかもしれない。



「私は、ノリアキさんはそのままで良いと思う」


 いつからそこにいたのか、ギンギツネの腕が後ろからぎゅっと僕を包む。

 

 洗い物の後なのかな、頬を触る彼女の手は少しだけひんやりとしていて気持ちよかった。


「でも僕はそんな、ちゃんとするべき時に厳しく接することもできないし…」

「そんなノリアキさんだから、こんなに良い毎日が送れてる。そうでしょ?」

「…そう、なのかな」

「そうよ、厳しくするのが良いこととは限らないもの」


 ギンギツネの抱擁は優しくて、そして強い。

 柔らかく、僕を逃がさないようにきつく彼女に縛り付ける。

 

…動かないで」

 

 ぴと…唇が首筋に触れた。

 

 牙が血管の上を滑るようにくすぐって、立てなくなった僕は彼女に掛かり切りになる。

 

「うふふ、大好きよ、ノリアキさ――」

「ギンギツネ、ノリアキから離れてっ!」

「…うん?」


 大声に手放しかけていた意識を呼び戻されると、キタキツネが腰に手を当てて仁王立ちしていた。


 僕の腕を取ると、強い力で引っ張られる。


「もう、折角のお楽しみだったのに…」

「今日こそ決着を付けるよ、ギンギツネ」

「うふふ…随分と良い思い切りね?」


 二人は、バチバチと視線で火花を散らしながら広い部屋決戦の地へと歩みを進める。

 

 

 僕が呆然とその後姿を眺めていると、この時を待ってましたとばかりにイヅナが駆け寄ってきた。

 

「ノリくん、腕は痛くない?」

「…あぁ、大丈夫だよ」


 二人の戦いの行方はどうなるのか。


 不安で仕方ない僕とは裏腹に、イヅナは笑顔を隠しきれていなかった。

 

「あーあ、上手いこと共倒れにならないかなぁ…?」

「やめてよ、縁起でもない…」

「冗談だよ、私たちも見に行こっか」




―――――――――




 広間に並び立つゲーム機。

 その奥の空間で、かつても決闘が繰り広げられた。


 だけど今回の戦いは、更に僕達を強く驚かせる。


「う、嘘でしょ…?」


 それは凄惨な景色が広がっていたからか、違う。


「まさか、こんな…」


 目にも留まらぬ攻防が繰り広げられていたのか、それも違う。


「はぁ…はぁ…」

「…ええと、何て言えばいいのかしら?」



 ――キタキツネがもう負けていたからだ。



「そんな、特訓の成果はどうなっちゃったの!?」


 イヅナが驚きのあまり叫ぶ。

 僕も予想外だった。ギンギツネがこんなに強いなんて。


「うぅ…」

「だ、大丈夫…?」


 キタキツネを倒したはずのギンギツネさえ心配になるやられ様。

 

 ギンギツネは少し屈んでキタキツネへと手を伸ばした。

 その瞳に曇りなき憐憫をしたためて。

 

「……?」


 ――その動きがピタリと止まったと思うと、やがてギンギツネは力なく倒れ込む。


「ふふ、ふふふ…!」


 ギンギツネのお腹には、キタキツネの拳が深々とめり込んでいた。

 

「えぇ…!?」

「…よ、容赦ない」


 イヅナでさえ身構えたほどのどんでん返し。


 ギンギツネの温情を熱い拳で返したキタキツネは、ニコニコと笑って僕に話しかける。


「ねぇノリアキ。やっぱりボク、だまし討ちの方がやりやすいや」

 

 そんなことを言うキタキツネに、僕が返せる言葉もなくて。

 

「もう、ギンちゃんは気にしてたのに…」

「ギンギツネが悪いんだよ、ちょっぴりボクより強いからってさ」


 キタキツネはちゃぶ台の上のみかんを食べ始め、イヅナは倒れたギンギツネを座布団を枕にして寝かせた。


 平和の皮を被った混沌の中で、僕はただギンギツネの手をそっと握るだけ。


 でも、こんなひと時さえも『楽しい』と思ってしまうのは…僕の心が腐ってしまったせいなのだろうか。


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