Ⅱ-114 キツネ条約、波乱の締結
突然だけど、僕は朝が弱い。眠たいのに無理やり起こされた日には、三時間以上の二度寝も辞さない。眠いものは眠いのだ。
雪山に住むようになってから、輪をかけて寝起きが悪くなってしまった気もする。きっと、赤ボス以外のみんなが甘やかしてくれたおかげかな。
別段恨み言を言うつもりもない、寝たいときに寝られる生活は至福以外の何物でもないから。
だから、今日も僕はもっと寝る。
「ノリア……いが…」
キタキツネが優しく体を揺さぶるけど、揺りかごみたいでもっと眠くなる。なんて言ってたんだろう、寝惚けて聞こえなかった。
僕は深い眠りに落ちて、そして再び目が覚めると――
「それって、キタちゃんにばっかり有利じゃんっ!」
「イヅナちゃんの意見も自分勝手だよ…」
「堂々巡りね…あら」
――三人が、布団を囲んで何かを話し合っていた。
―――――――――
「ルール…?」
「そう、何か決めた方がいいって…ノリくん前に言ってたよね」
確かにそう言った記憶がある。朝ご飯を食べながら、ゆっくり頭を目覚めさせていく。
僕が起きたことによって話し合いは一時中断し、代わりに経緯の説明が始まった。
「ごめんね、寝ちゃってて…」
「いいよ、無理に起こしても悪いから」
イヅナはニッコリと微笑む。
やっぱり、甘々だ。
「それで、もう何か決まった?」
僕が尋ねると、三人とも各々の調子で首を横に振る。まだ朝も早いし、話は始まったばかりなのかもしれない。
だけど起きた時の様子を思い出せば、対立が激しかったような気もする。多分、誰も譲らないだろうからなぁ…
「…何かしら、意見は出たんだよね?」
「出たには…出たよ」
歯切れの悪い返答。碌でもないアイデアのデパートに違いない。
イヅナと目を合わせると、彼女の視線が虚空へと泳いでいった。
「どうするのがいいかなぁ…」
公平にしたいなら、僕が考えるのが恐らく最善だ。何も案が思いつかないことを除けば、最も良い方法に違いない。
…何も思いつかないことを度外視すれば。
「試しに一回、ノリアキさんに聞いてもらったら?」
「このままじゃ進まないもんね」
「む、むぐぐ…」
イヅナは何か不都合でもあるのかな。文句の一つでも言いたげな顔だったけど何も言わず、結局はキタキツネからアイデアを発表しあうことになった。
…そしてそれは案の定、大波乱の起爆剤となる。
―――――――――
「……え?」
キタキツネの考えを聞いて、最初に出たのは困惑の声だった。
詳細を省いてざっくり説明すると、”イヅナとギンギツネは理由なく僕に近づくな”という内容だ。
そりゃまあ、「キタキツネにばかり有利」という意見も納得である。
「ほらね、キタちゃんひどいでしょ!」
「えー…?」
キタキツネ、「何言ってるのこの子」って感じの目でイヅナを見るのは止めてあげて。
立場が逆ならキタキツネも同じことを言ってる…はずだから。
「もう、あんまりケンカしちゃダメよ」
「…ギンちゃん、どうしてノリくんの手を握ってるの?」
「いけなかったかしら…?」
惚けるように微笑むギンギツネだったけど、イヅナの瞳がどんより暗くなったのを見て、渋々ながら手を引っ込めた。
今まで本心を隠してきた反動か、最近はギンギツネのアプローチが三人の中でも一番激しい。
僕は料理に何かおかしなものを入れられるんじゃないかと心配したけど、特に味に変わりはなかった。ギンギツネも普段と同じように作った…と言っている。
「じゃあ、今度は私の番だね」
ギンギツネが握った僕の右手に湿っぽい感覚。スッと冷える感じがしたから、多分消毒用のアルコールが塗られたんだと思う。
「ちゃんと綺麗にしないとね…ふふふ」
時折ギンギツネの方をチラリと見ながら、イヅナは手から腕まで頬を擦りつける。
ギンギツネは自分の髪の毛弄りに夢中でこちらを見ていない。イヅナは少し不満そうだった。
「ノリアキぃ…! ふへへ…あむ…」
左手に…生温い水気を感じる。
この暖かさに混じる硬い感覚、指が噛まれている。
「キタキツネって噛むの好きだよね」
「だってノリアキ…じゅる、おいしいもん…!」
「あはは、そっか」
きっとそれだけじゃなくて、二人への対抗意識もあると思う。
彼女たちが競って何かをするとき、最後は必ずと言って良いほど過激なことが始まる。真上に昇る太陽を忘れたことなんて数え切れない。
そして、キタキツネの『僕を噛む』という行為は僕の中で一つのボーダーラインとしての役割を持っている。
これを越えると、彼女たちの行動が凡そ描写するには恥ずかしいレベルまで達する。
ルール決めに支障が出ても悪いから、ここは無理にでも話し合いを推し進めたい。
「ねぇ、そろそろ本題に戻らない?」
「…別にいい」
「私も、もっとノリくんが欲しい」
「えぇ…?」
そう言われてしまったら、成す術が無いようにも思える。
あまりにも早い壁への直面に打ちのめされる中、泥舟という名の助け舟が出された。
「…話し合いをしましょ、ルールは大切よ」
「ギンギツネ…!」
ギンギツネは後ろから僕の体を引っ張り、二人を腕から引き離す。
彼女の柔らかなもふもふは、尚も僕を堕とそうと企んでいた。
―――――――――
「でも振り出しだよ、どうするのギンギツネ?」
「そうねぇ…あ、いい案が思いついたわ」
「じゃあ、早く言って?」
心底つまらなそうにイヅナが急かす。
ギンギツネが取り合わずに進めると、イヅナは拗ねてしまった。
「別にルールは一つじゃなくてもいいのよ。まずは幾つか決めて、食い違うところを上手く削っていくのはどうかしら」
「…まぁ、いいんじゃない?」
確かに、まず大体の形を決めて、残りを足し引きで調整してあげれば、まっさらな状態から決めるよりもずっとやりやすいに違いない。
流石ギンギツネ、論理的な策に関しては彼女が抜きんでているように思える。
「私だって、やればできるもん…」
…僕の表情を見たのか、イヅナは更に拗ねてしまう。
彼女が提出するルールについては、一層注意して見る必要がありそうだ。
まあ、とんでもない抜け道があったって二人に抑えられて終わりな気もするけども。
「じゃあ、みんなお昼までに最低一つは考えてきましょう」
そんな風にギンギツネが締めて、朝の話し合いは幕を閉じる。
僕は、お昼の話し合いは落ち着いてできるかなと思っていた。
うん…思っていた。
よく考えれば有り得ないのは当然で、深くまで踏み込むほど言い争いは激しくなる。
でも多分、これは直接見た方が早いかもしれない。
―――――――――
「ノリアキさん、そろそろお昼よ」
「あれ…もうそんな時間…?」
朝の出来事から早数刻。
今日の僕に空いている時間は無かった。
いったん解散した後、キタキツネが僕に甘えてきたからだ。
何でも『ノリアキの香りが無いと何も思いつかない』らしく、先程自分がとんでもないルールを提案したことは頭からすっぽりと抜け落ちているみたいだった。
どうしようかなとも思ったけど、キタキツネはただ抱きしめて欲しいだけみたいだったからまあいいかと納得した。
なにより、僕自身がモッフモフの尻尾の誘惑に負けてしまって、最後にはキタキツネを受け入れた。
だけど一度言い分が通ってしまうと、望みは段々とエスカレートしてくる。
例によって例の如く詳細は恥ずかしいから省くけどこっちもすごい。どんどんと連鎖していく。
某”同じ色のぷにぷにしたものを四つくらい繋げて消していくようなパズルゲーム”もびっくりの連鎖なのである。
…まあそれはさておき、午前いっぱいキタキツネの相手をしていた僕はもうヘトヘト。
日によっては二人を相手取ることもあったから、それよりは元気が残っているかもしれないけど。
うぅ、いつの日か愛情の過剰摂取で死んでしまいそう。
悪い死に方じゃないけど、この二…じゃなくて三人を残したらとんでもないことになりそうだ。
よし…やっぱり死ねないな。
「でも、一日一人が精一杯だよね…」
「じゃあ、そういうルールを作ってみたら?」
「あぁ…それも良いかもね」
一週間は七日ある。
2掛ける3足す1。
上手く言いくるめてプライベートの時間を貰おう。
でも、そういう日って何をすればいいのかな。一人になったことが殆ど無くて分からない。
「それは…実現してから考えよっか」
風の吹き方によっては”三人一緒に相手をする日”に変貌する可能性も秘めているこの一日。
無くなって困るものでもないけど、頑張っていい形で手に入れてみよう。
「それなら、何か食べながらお話しましょ」
口に食べ物があると喋りづらい。
ギンギツネはしっかりと反論しにくい状況を作ろうとしてるなぁ。
彼女の静かな布石の打ち方に感心しながら、僕はお昼ご飯の待つ部屋へ匂いを辿って歩いて行った。
―――――――――
「イヅナちゃん、しっかり考えてきた?」
「うふふ、キタちゃんこそ…午前中ずっとノリくんに迷惑掛けてたよね」
「迷惑なんかじゃないもん」
「そう…ふふ」
穏やかな口調ながらも、腹の内に秘める想いはどうだろうか。
少し部屋が寒い気がするのは、窓が開いているせいではないのだろう。
「ノリくん、迷惑じゃなかったの?」
「あはは…そんな訳ないよ」
ゆっくりと腰を下ろして、そして脚を伸ばした。
こういう質問はイヅナからもキタキツネからもよくされる。
そんな時、僕は決まってその問いを否定することにしているのだ。
「むぅ…ノリくんは優しいもんね…」
「イヅナにだって、欲しいならあげるよ?」
「…わかってるよ」
これは、何も選べない僕のささやかな抵抗かな。
せめての思いで、何も捨てたくはないのかな。
まあ、どうでもいいや。小難しいことを考えるのは好きじゃない。
知った不幸より知らない幸せ。
そんな風に生きていたい。
―――――――――
「お待たせ、お昼ご飯よ♪」
それから程なくして、ギンギツネが昼食を持って来てくれた。
コトン、コトンと小気味良い音を立ててお皿が並べられていく。
一通り配り終えると、ギンギツネはすぐ隣に座った。
「ふふ、どうかしら?」
「…あの、僕のだけ何か多いんだけど」
綺麗な色をしたデザートが僕の分だけ用意されている。
「当然でしょ? ノリアキさんの為だけに用意したのよ」
ここまで堂々としていると寧ろ清々しい。
ギンギツネに言ってもどの道二人の分は出てこないだろうし、諦めて食べることにした。
まず他のを全部食べてしまって、最後はデザートに手を付ける。
ゼリーのような食感と程よい甘さ。そして――
「あ、あれ…」
カラン。
落としたスプーンが何かに当たって乾いた音を鳴らす。
「…おやすみなさい、とっても眠いでしょう?」
「ん…ぅ…」
倒れ込んだ体をギンギツネが受け止める。
柔らかい毛皮の温もりが、深い深い眠りへと僕を誘う。
でも多分、こうなったのは…
「ぁ…」
尻尾に視界が塞がれる。
いよいよもう、限界だった。
―――――――――
「…あっ!」
勢いよく体を起こす。
我ながら凄い勢いだった、近く誰もいなくてよかった。
バタバタと髪を揺らすと、同じくらいの勢いで記憶が戻って来る。
「そうだ、デザートを食べて…」
慌てて布団を飛び出そうとした僕は、そこで妙な感触に気づいた。
…布団の中に、もう一人いる?
「ん…あら、起きたの?」
「ギンギツネ…!」
モゾモゾと這い出してきた彼女はねっとりとした体の動きで絡みついてくる。
窓から外を見ると、もう暗くなり始めていた。
「薬を入れてたの?」
「そうね…お昼の話し合いが、ノリアキさんにとって刺激的になりそうな予感だったから」
そう言いながら、彼女は僕の目を両手で塞ぐ。
「だから、僕を守ろうと…?」
「そう、無事に話し合いも終わって、ルールも全部決まったわ」
何処からか紐で束ねられた紙を出して、パラパラと目の前でめくる。
すると、手書きの整った文字で書かれた過激な文章の数々が視界に飛び込んできた。
「…あぁ、まぁ、刺激的だね」
確かに彼女の言う通り、書かれているルールだけでも十分に刺激が強い。
そこまで子供なつもりはないけど、その場に居合わせていたら耳を塞ぎたくなったに違いない。
「でも、デザートに盛るなんて」
「そうでもしないと飲んでくれないじゃない」
「まあ…そうだけど」
この先も間々あることだろうし、一々目くじらは立てていられない。
それよりもっと気になることがあった。
さっきチラッと、書かれていたこと。
「ギンギツネ、ちょっと貸して」
彼女曰く”ルールブック”を借りる。
真っ先に開いたページ、三人のローテーション。
「…ない」
休みが無い、プライベートが無い。
別に良いけど、上手いこと潰されている。
…まさかギンギツネ、コレが目的で?
そして見つけたもう一つ。”見つけた”というほど大層でもないこと。
「あれ、もしかして?」
「そう、今日は私の日よ♪」
ギンギツネに組み伏せられる。
成程、だからキタキツネもイヅナもいなかったんだ。
「今朝はキタキツネに取られた分、しっかり貰わなくちゃね…うふふ!」
「あのさ…晩御飯は…?」
「…私を食べて?」
…いただきました。
ごちそうさまでした。
もう眠いです、おやすみなさい。
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