Ⅱ-113 銀のメッキが剥がれた日


 ――夜の雪山は、とても綺麗。


 初めて宿の窓からここを見た時、私はそう思った。

 救いようのないほど陳腐な表現だと自分でも思う。だけど、それが一番簡単で明確だった。


 こんなに美しく降り注いで、銀世界を照らす月光に、そんな辛気臭い顔は不釣り合い。


 …そうでしょ、博士?


『今日は大変だったわね』


 さっきから、言葉をすり替え誤魔化して、私は同じような呼び掛けばかりを続けている。

 でも、応えない方が悪いのよ。


 旅行の終わりの見送りに、他の話など出来はしない。


 仮に”出来る”と宣う輩がいるなら、私はそんな子と仲良くなどできないに違いない。まあ、そもそも仲良くするつもりも…おほん。


 兎にも角にも、そんな理由で私は中身の無い問いを続ける訳だ。


『そうだ、助手はどうだった?』

『…よくもまあ、ネタが尽きませんね』

『あら、とっくの昔に尽きてるわよ? 話題があれば質問なんてしないで自分から話すもの』

『…そうでしょうね』


 そうして、助手は口を噤んだ。

 漸く反応を貰えたと思ったのにね。


 気が変わった。それなら、私にだって考えがある。

 もう幾ら頼んだって旅館に入れてあげるものですか。


 …あらら、



 楽しい時間ほど短く、つまらない時間ほど長くなると誰かが言っていた。


 しかし暇な時間も案外早く過ぎるもので、気が付けばふもとの雪に足跡を付けていた。


『じゃあ、ここでお別れね』


 私は特段何もせず、素っ気ない様子で別れを告げる。


 拍子抜けかしら、カムイさんもそんな顔を見せるのね。

 も、驚けばあんな顔をするのかしら。


『…待つのです』


 私の思惑通り、博士は私を呼び止めた。

 ちょっと引いたらすぐね、分かりやすいのは楽で助かるわ。


『…何かしら』


 顔だけ振り向いて、彼女の目を直に見つめる。

 ふっと動揺が瞳を横切る。

 数秒の間、言葉に迷うように口が空気を噛み締めた。


 博士は睨むように私を見つめている。


『どうして、止めないのですか』

『イヅナちゃん…それともキタキツネを?』

『両方…と、言っておきます。そしてコカムイも…もはやではありません』


 ついつい笑ってしまいそうになった。そして、怒りに指が震えた。

 

 抑えた、我慢した、やり過ごそうとした。

 でも、気付いた。


 もう、胸の内に秘めておくべきことなんて何一つないんだって。

 

『そう…ね』


 こんな言い方、本当に不本意だけど。


…って言ったら、分かりやすいかしら?』


 驚いた三人の顔がまだ忘れられない。

 歪みそうになる口を隠して、顔を逸らして一言だけ。


 博士たちに、最後のお礼を言った。


『今日はありがとう。おかげで…ができそうよ』




―――――――――


―――――――――




 …嫌な沈黙だ。

 空気は淀み、いつか感じた互いを刺すような視線だけが部屋の中を飛び交っている。

 

 ある者は驚愕と不信を噛み締め、またある者は諦観と怒りに目を細める。


 そして彼女は、まるで憑き物が落ちたかのようにニコニコと笑っている。


「やっと…やっと、伝えられたわ」

「…、か」


 つまり、ギンギツネはずっと前から、この気持ちを胸の中にしたためていた。


 僕達の何気ない会話を、他愛のないじゃれ合いを、ある日のまぐわいを、想いを隠したまま、僕らの近くで静かに見続けていたんだ。


 その心中はどうだったのだろう。きっと穏やかではない。

 全て知ってから考えると、あの時のギンギツネの苛立ちようも納得がいくのだ。


『…もういい、私だけで考えるわ』


 あの言葉は、本心を隠したギンギツネが最後に見せた想いの欠片。


 今僕の体には、ギンギツネの恋心がまるごとのしかかっている。


 僕は一体、どうすればいい?



「ギンちゃん、早くノリくんから離れて」

「あら、折角こんなに近づけたのに、風情が無いのね」

「…いいから早く」


 キタキツネもギンギツネを睨みつける。

 右手の爪が、静かに臨戦態勢を取っていた。


「…もう、仕方ないんだから」


 「せめて最後に」と、ギンギツネはほっぺたに口づけをして僕の体を放した。ゆっくり僕から距離を取ると、二人の視線も離れず動く。

 

「うふふ、まさかこんなに熱い視線を向けられるなんて、夢にも思ってなかったわ」

「ノリくんも…同じ気持ちだっただろうね」


 更に空気が張り詰める。一触即発、むしろ放置していても起爆しそうな危なげな雰囲気の中で、まだギンギツネは笑顔を浮かべる。

 

 すると彼女はおもむろに、無防備な姿を曝しながら歩き始めた。

 フラフラとあてもなく、まるで気まぐれな風に煽られた葉っぱのように。


「ぎ、ギンギツネ…?」

「緊張しても良いことないわ、リラックスしてお話しましょ?」

「誰のせいだと思って…!」

「何が不満なの、キタキツネ?」


 突如グイっと顔を突き出し、目がぶつかりそうな距離で問いかける。

 

「ノリアキに抱き付いて、キスまでして…」

「それくらい、あなただって散々してきたでしょ? それに、もしたでしょ…?」

「っ!」


 キタキツネが目を見開き、ギンギツネに掴みかかる。


「あらあら、どうしたの? 随分ノロマな動きじゃない」


 しかしギンギツネはそれよりも遥かに素早く動き、流水のような体捌きでキタキツネを抑えてしまう。


 この動きは前に見たことがある。確か二人がお酒に酔っ払った次の日のことだったはず、その時もギンギツネは強かった。


「ゲームばっかりしてるあなたが、私に敵うと思ったの?」

「う、うるさい…!」

「あらあら、格闘ゲームが好きなのに、現実だとこんな感じなのね」


 キタキツネもバタバタと抵抗するけど、拘束が解かれる様子はない。


 僕らが唖然と見ていると、更に驚くべきことが起きた。


「ひっ…!」

「うふふ…もしかして、怖い?」


 ――ギンギツネが、キタキツネの首筋にナイフを這わせたのだ。


「キタキツネッ!?」

「勢いに任せて動いちゃダメよ? 人生何が起こるか分からないもの~」


 そうは言っても、この状況でギンギツネがことなんて限られている。


 でも、どうしてキタキツネを?


 何のために、脅しを?


 ほとんど分かってる、他の可能性なんて考えようがない。


 だけど、それを確かなものにするべく、逸る自分を抑えて彼女に尋ねた。


「簡単よ、私もに入れて欲しいの。一人だけ仲間外れなんて寂しいでしょう?」

「仲間…? 刃物を向けておいてよくそんなことが言えるね?」


 不満そうにイヅナが言う。ギンギツネは気にも留めない。


「決めるのはノリアキさんよ。誰も傷つけたくないなら…ね?」

「…違うよ」

「…ノリアキ?」


 『傷つけたくないなら』…なんて条件、有って無いようなものだ。ギンギツネもよく分かってる、だからそう言ってくる。


「誰も傷つけたくない…、僕はこうするって決めたんだ」


 もしくは決めさせられたのか。

 今となってはどちらでもいい、それで幸せを手に入れたから。だからこそ、失いたくない。


 最初の形を、こんな風に曲げてでも。


「イヅナ、ごめんね」

「はぁ…いいけど、今回限りだよ。今度こそ、もう誰も近づけさせないから」

「…うん、分かってる」


 ギンギツネは腕の力を解いた。

 キタキツネがトボトボ歩き出し、僕に縋りつく。


「ノリアキ…」


 潤む瞳からこぼれた雫を拭って、優しく頭を撫でる。そして、そっと体から引き離した。

 キタキツネも、諦めたようで何も言わなかった。


「嬉しいわ、ノリアキさん」

「改めて、よろしくね…ギンギツネ」


 また、彼女の腕が僕を捕まえる。暖かい。柔らかい。でも、何かが冷たい。


 この空気のせいだ。

 心の底から喜べているのはギンギツネだけ。イヅナもキタキツネも、こんな状況を好ましく思えるはずがない。


 僕には、この縺れた糸をこのままにしておくことは出来ない。いつか必ず、引っ掛かった糸が千切れてしまうから。



「ルールを…決めなきゃね」

「ルール?」


「うん…今までは曖昧だったけど、この先…この状態を放っておいたら絶対に争いになる。だから、決まりを作らなきゃ」

「それもそうね。だけど、今夜は私が貰っていいでしょ?」

「…好きにすれば?」


 キタキツネの方を見る。彼女も、言うことがない様子で目を逸らした。

 ギンギツネは嬉しそうに微笑んで、僕を彼女の寝室へと連れ去ってしまう。


 その前に、一つ残ったお寿司を口に放り込む。おいしかった。


 

 

―――――――――




「ノリアキさん、ノリアキさん、ノリアキさん……!」


 綺麗に敷いた布団の上に僕を転がして、ギンギツネはその上から掛布団ごと覆いかぶさる。

 小さな暗闇の中に閉じこもって、僕の匂いを嗅ぎ続けている。


 途中、何度か話しかけようかとも思ったけど、彼女の楽しみを邪魔するのも悪いと思ってされるがままになっていた。

 案外、こういう扱いが僕の性に合っているのかもしれない。


「ノリアキさん…私、ずっとあなたとこうしたかった」


 耳たぶをパクリ、くすぐったい。

 頭の奥を撫でるような声で、一方的に睦言は紡がれる。


「最初はね、同情とか哀れみとか、そんな感情と勘違いしてたの」


 僕があの二人に振り回されているのを見る度、ギンギツネは複雑な思いをしていたらしい。

 何故があんな目に遭わなければならないのか、普通には暮らせないのかと思った…と。


「でも違った、本当は真逆だった」


 真逆ということはつまり、”僕”じゃなくて”ギンギツネ”が主語になる。


「なんで私は、あんな風にノリアキさんと仲良くできないのかなって…本当はそう思ってたの」


 哀れみという偽りの姿に隠れた感情の本当の姿を、ギンギツネは心の中で暴きだした。


 そして再び覆い隠した。

 全ては今日、確実にこの関係を築き上げるために。


「気づいた時、目に見えるもの全てが変わった気がしたわ。あなた以外の全てが色褪せて見えるようになったの」

「…全部?」

「そう、ノリアキさん以外の全てが」


 暗くてよく見えないけど、きっとギンギツネは恍惚としている。生暖かい吐息が鼻をくすぐって、頭がくらくらする。



 けどもっと、訊くべきことが残っている。


「ギンギツネ、ケトルに細工をしたのって…本当?」


「その通りよ、何か起これば良いなと思ったんだけど…ふふ、予想以上のことが起きてくれたわ」


 概ね、イヅナの指摘したとおりらしい。


 酸っぱい紅茶なら博士の疑念は否が応でもキタキツネに向く。

 無実の罪を着せられたキタキツネが何かやらかせば…という目論見で、知っての通り成功に終わった。


 『他のフレンズを宿に寄せ付けない』、そして『僕に想いを伝えるきっかけを作る』…そのために、博士たちは利用されたのだ。


 本当に、ギンギツネは策士だな。


「でも、もういいじゃない。こんな馬鹿みたいなこと、気にしなくても良くなったんだから」

「あはは、そう…かもね」


 博士たちは賢い。

 当分の間は、フレンズたちをここに近づけさせはしないだろう。


 そしてそんな状態が長く続けば、自らここへ立ち寄ろうとするフレンズもいなくなるだろう。

 現に、最近ここへ来なくなったフレンズがいる。彼女がこの宿の現状を誰かに話せば更に状況は加速する。


「もう…邪魔はいない?」

「強いて言うなら…ね」

「ダメだよ、気持ちは…知ってるけど」

「勿論、これはそのためのだもの」


 瞬間、ギンギツネの手によって掛布団が剥がされる。

 その手は服の中に滑り込み、みるみるうちに服がはだける。


「ギンギツネ…」

「いいでしょ? 今夜は、私だけのノリアキさん」


 そっと抱き寄せ、受け入れる。

 月明かりが、隙間からギンギツネの目を照らし出した。


「ずっと…ずっと一緒よ…?」


 ギンギツネが爪を立てる、皮膚が静かに悲鳴を上げる。


 永遠を求める彼女の愛が、水銀のように心を蝕む。

 だけど、それも素敵なことだと僕は思う。全てを手にした皇帝だって、かつて望んだことなのだから。



 ――銀のメッキを剥がしたら、もっと美しい銀色があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る