Ⅱ-112 心を映す湯けむりの、酷く歪んだ蜃気楼
「なあ、何があったんだ?」
目が合う前に、焦りの籠った強い口調で尋ねられる。
その気迫に気圧されて、ついたどたどしい口調で返してしまった。
「ちょっと…キタキツネが、ね…」
そう言うだけで、大体を察し神依君は納得した。
「…ああ、それで二人のあの怪我か」
だけど、これは悪い兆候では?
そう思いつつも、キタキツネの印象を良くする方法は思いつかない。
それにバツが悪くて、これ以上彼と向き合えない。
…チラリと横目で様子を見ると、険しい顔をして何かを考え込んでいる。
そして、神依君はこう言った。
「この件で全部解決したんなら、俺から特に言うことは無い。だけど…これで終わりじゃないだろ」
「……」
「何回目だ? 俺が知る限りだと二回目だが、知らない所でもあったはずだ。」
僕は黙っている。
神依君は続ける。
「
何も言わない。
まだ続く。
でも、ちょっと変だな。
「幾ら歪な関係で繋ぎとめたって、必ずその反動が…!」
「分かってるよ」
「分かってるもんか、お前は…こんなので、良い訳ないだろ…?」
やっぱりそうだ。
認識にズレがある。お話の歯車が絶妙に食い違っている。
「…あはは、神依君ったら、勘違いしてない?」
「勘、違い…?」
「結局、これは僕が望んだことなんだ。神依君が気負う必要なんて何処にもない。だって、今幸せだよ?」
まっすぐ、神依君の目を見る。
みるみる、彼の目が驚きに見開かれる。
やがて、弱々しい声が漏れる。
「…そうか」
天を仰ぐように天井を見つめ、振り返って僕に背中を向けた。
指先が震えている。何かを言いたそうに顔の影が数回動いて、それは形を持つことなく飲み込まれてしまった。
床が軋む。
一滴、木目の上に雫を落として、彼は部屋へと戻って行った。
「……お腹空いちゃった」
そういえば、今日の夕ご飯って何だったっけ?
ギンギツネに訊きに彼女の部屋まで行くと、代わりに僕を出迎えたのは博士だった。
「さあ、洗いざらい話すのです!」
「ええと、何を…?」
奥の方から助けを求めるギンギツネの視線。
どうしてか来客用のソファに僕が座らされ、愉快で楽しい推理大会が幕を開けてしまった…
―――――――――
…私、ギンギツネ。
私は今、自分の部屋で捕縛されています。
急に部屋に押し入ってきた博士と助手に自由を奪われ、事件の真相を話すように迫られているのです。
「わ、私は何も知らないわ…!」
「そんな筈は有り得ないのです。今話せばまだ慈悲を与えられるのですよ」
「本当に知らないのよ!」
ああ、なんで私がこんな目に。
と言っても、合理的に考えれば私以外いないのだけどね。
イヅナちゃんは捕まえられない。
キタキツネのせいでついさっき痛い目を見た。
ノリアキさんに手を出せば、二人からの集中攻撃。
まあ、私しかない。
保身に走った合理主義ほど手の付けづらいものはない。
私は今日も、新しいことを学びました。
しかしさてさて、堂々巡り。
お互いに証拠を持たない事件は、水掛け論の一途を辿っています。
せめて体が自由なら、温泉のお湯を力いっぱい引っ掛けてやったのですが。
…でも、神様は私に微笑んでくれました。
どうしようもなくて三人とも途方に暮れていたその時、ノリアキさんが部屋まで来てくれたのです。
運命か偶然か気まぐれでしょうか。
兎に角、私たちにとっては僥倖だったのです。
「…それで、事件解決を手伝ってほしいと」
「その通りなのです。せめて犯人だけは突き止めなければ我々もアイツに説明が付かないのですよ」
「アイツって…『雪山に来たい』って言ってた子?」
彼がそう尋ねると、苦虫を嚙み潰したような顔をしながら博士は頷いた。
「…アイツを止めるにも、理由を説明した方が諦めがつくはずなのです」
「そっか」
俯いて考えに耽るノリアキさん。
心配したけど、この結果を悲しんでいる訳ではなさそうね。
とりあえずは良かった。
来れなくなったその子は残念だろうけど、私は別にそうでもない。
むしろ、大きな事件が起こらないかというのが私の心配だった。
博士と助手は怪我をしたけど、実力のある二人だからこそ、傷もこの程度に抑えられた。
…まあ、不憫な役を押し付けちゃったかしら。
「でもさ、僕は何を説明すればいいの? 『事件』についても、殆ど知らないのに」
「ああ、そうでしたか…助手」
「かしこまりました。では、『博士、酸っぱい紅茶で悶絶事件』の詳細を説明いたします」
「じょ、助手ッ!?」
事件のタイトルから、所々に挟まれるジョークまで。
ノリアキさんは助手の説明を終始苦笑いの様相で聞いていた。
「な、なるほど…」
「推理はあんまり得意じゃないんだけど…」と言いながら彼は物思いに耽っている。
さて、縛られてて暇だし私も何か考えようかしら。
そうね、夕飯の献立なんか良いと思うわ。
客人も来ていることだし、夕飯も旅館らしく和風にしたいわね。
とすると、油揚げ以外を使ったお寿司なんて素敵かもしれない。
もしくは定食?
いいえ、ここは豪華にお寿司で行くべきね。
幸いお魚はいくつか雪山の寒さで冷凍してあるし、材料もバッチリ。
「……ネ」
ああ、腕が鳴るわ。
「…ツネ」
不肖ギンギツネ。
数か月間掛けて身に着けた料理の腕で、みんなを唸らせるお寿司を――
「ギンギツネッ!」
「はっ!?」
「ギンギツネ、どうするのですか?」
「え? …ああ、お夕飯はお寿司にする予定よ」
「…は?」
あれ、博士が困り顔。
もしかして、食べずに帰っちゃう予定だったのかしら?
「大丈夫よ、博士たちの分も作るから」
「いや、要らないのです」
「あら、そう…」
なら、作る量は少なめになるわね。
手間が減ったと思えばそれでいいかしら。
「というかそうではなくて! お前も知恵を絞るのですよ」
「まあ、まだ何も分かってないの?」
「…思い直せば、この件で我々は一日中悩んでいました。ほんの数分で分かる道理はなかったのです」
うんうんと頷き合いながら勝手に納得する梟二人。そこに、ノリアキさんが爆弾を投げつけた。
「そもそもの話だけどさ…解決する必要あるの?」
「な、何を言い出すかと思えばコカムイ、それでは我々の威厳がですね――」
旅館のため、この島のためと、様々な理由を付けて博士は事件解決の必要性を力説している。
だけど妙ね、心なしか頑なな気がするわ。
『威厳』…ね。そういうこと。
せっかくだしここは一度、私が流れを変えてあげようかしらね。
息を吸って、わざとらしく大きな声で私は言った。
「もしかして、恥ずかしいの? キタキツネにやられたことが」
「なっ…!?」
あらあら、大層驚いたような顔をしちゃって。
いくら黙っててもそんな表情じゃ、『図星ですよ』と言って回るのと同じじゃない。
さぁて、もう一押し必要かしら?
でもそれは必要なかった。
心の声が滲み出ていたのか、私を見ると震え上がって敗北宣言。
「こ、降参なのです…アイツには、そっちを話しておきますよ」
「その方が良いわ、紅茶なんかよりよっぽど危機感を煽ってくれるもの」
あっけない幕切れだけどこれにて一件落着。
私もようやく安心して、お寿司作りができるわね。
―――――――――
「…では、もう失礼させていただくのです」
博士も助手もやつれ顔。
それも当然か、のんびり寛ぐには起きた事件が多すぎる。
一刻も早く出ていきたいという想いが先走る足から面白いほど読み取れる。
ま…まだ笑っちゃダメよ。
これからカムイさんを含めた三人を見送る大仕事が残っているんだもの。
「…あれ?」
エスケープ寸前に差し掛かって、二人は不運とエンカウント。
平たく言えば、『しかしまわりこまれてしまった!』
「き、キタキツネ…!」
死を目前にしたかのように怯える姿は、見ていて少し可哀想になってくる。
あの子ったらまた、とんでもないことしでかしちゃったのね。
「ギンギツネ、お腹空いた」
でもキタキツネは二人に全く興味がない。
この感覚はそう…皮肉。
やられる側が思うほどに、やる側は気にしてなんていない。
「ええ、だけど、博士たちをお見送りしてからね」
「…はーい。ノリアキ、あそぼ」
「うん、そうしよっか」
「…怯えているのは、我々だけということですか」
消え入りそうな呟きは、私以外には拾われた?
―――――――――
「…それで、博士たちは帰ったんだ」
「今ギンギツネが見送りに行ってるとこ…あ、まずい…!」
「えへへ、貰ったよ」
…三度目のゲームセット。
ゲーム機の電源を落としたら、入れ替わるようにお腹の音が鳴った。
「ねぇ、ギンちゃんなんて待たないで作っちゃおうよ」
「うん…もうお腹ペコペコ…」
ぐてっと転んだキタキツネ。こうして見ると動物みたい。
いやまあ、元々は動物なんだけど、改めてそうなんだなって思った。
尻尾をフリフリ、上目遣い。
空腹の時でも彼女はあざといアピールを欠かさない。
せめて、こういう時くらいは忘れて欲しいんだけどな。
「ノリアキが撫でてくれたら、空腹も忘れられる」
脚にまで擦り寄られたら仕方ない。僕の手はまるで重力の向きが変わったかのようにキタキツネの頭に吸い寄せられた。
ふわふわもふもふ。
手を捕らえた後はしがみ付いてしっかり拘束。
「ノリアキぃ…えへへぇ…」
キタキツネの顔が赤い。とても赤い。
もしかして、空腹を引き金に別の欲求まで叩き起こされたのかな?
斯くいう僕もお腹が空いて疲れている。
このまま流れで襲われてはかなわない。
僕の目は自然と、奥にいる真っ白で美しいお狐様に向けられる。
助けてイヅナ。もうなんでもいいから。
イヅナは微笑んだ。僕の願いが通じた。
「もう、ノリくんったら仕方ないんだから」
…かくして、僕の両手がもふもふの餌食になりました。
―――――――――
「ただいま…ってあら、楽しそうな状況ね」
「…あはは」
「みんなお腹空いたでしょ、今日は魚を沢山使ってお寿司にするから待っててね」
二人の毛皮は暖かい。
暖かいが故に、長く毛の海に浸かっていれば当然の如く暑くなる。
ついに汗が滲んできた。
そろそろ一度リフレッシュしないと…
「あぁ、ノリくんの汗ぇ…!」
「…ぺろり」
…いけないと思っていた僕の思考が蒙昧だった。二人ともイケる口です。
―――――――――
「…あら、まだ続けてるの?」
「どうにも飽きないみたいでね…」
食べにくいのは勿論のこと、食べさせてもらうのも至難の業だ。
もしギンギツネに食べさせてもらったら、雪山が大噴火を起こすことになるだろう。
…それって、特段珍しくもないのかな?
まあいいや。今夜はお寿司だし、出来るなら自分の手で食べたい。
「時間が掛かるし、握りながら食べましょう」
「それだと、ギンギツネが食べられないんじゃ…?」
「そんなの気にしないで」
疾風のごとき手捌きで吹き流される僕の言葉。
「でも……うぅ」
準備が済んでしまえばもう口を挟むこともできなくて。
季節外れの風鈴の音と、混沌の中で暖簾は揺れた。
―――――――――
しばらくして幾つかお寿司が出来上がり、お皿に丁寧に乗せられて目の前にやって来る。
「さあ、召し上がれ」
初めて食べる魚のお寿司。
醤油を付けて恐る恐る口に運んだ。
「す、すごくおいしい…!?」
待った時間は結構あるから、『すぐおいしい』とは言いにくい。
…って、大事なのはそれじゃない。
このお寿司が舌が可笑しくなる程美味しいこと。それだけが今は問題だ。
「うふふ、ちゃんと味わって食べなきゃダメよ?」
「ギンちゃ…んぐ、変なの入れてるんじゃないの? もぐ…信じられない…!」
「…説得力ないね」
ふふっと笑ったキタキツネは、既に五皿も頂いている。
そっと、口元のご飯粒を取ってあげた。
「あ…えへへ」
「んぐ、私もっ!」
キタキツネへの対抗心で二つも付けたイヅナ。
手を伸ばしたら止められて、あろうことか舐めるように要求された。
「ほ…ほら」
「わ、分かったよ…」
まずは右側、優しく舐め取る。
そして左側、やっぱり恥ずかしい。
「ふぅ……ん?」
イヅナから漂う甘い香りに耐えかねて顔を引く。
すると、右側にまだご飯粒が付いたままだ。
「あ、あれ…?」
「……!」
無言でイヅナは訴えかける。『ほら、早く舐めてよ』と。
僕はその通りにしながら、イヅナの手首を捕まえた。
「…あ」
「分かるよ、こっそり付け直しても」
僕はしっかり取ったんだから、付けていなければ道理に合わない。
「もう、欲張りなんだから」
「そうかなぁ? …私はギンちゃんの方が欲張りだと思うけど」
「……?」
文字にしてみれば、昨日聞いたような良くある小言。
だけど音として聞くと、氷柱のように胸に冷たく刺さる。
冗談ではない、核心を突いた指摘。”決して逃がさない”という意思が指先まで僕を硬直させる。
おかげで、彼女の名前を呼ぶことすらままならなかった。
「あらら、何が欲張りなのかしら…?」
「しらばっくれるのね、分不相応にノリくんを求めるのが欲張りって言ってるんだよ?」
「私が、ノリアキさんを…?」
ギンギツネは呆れた様子でクスクスと笑う。普段ならその通りだろうと僕も笑い飛ばせた。
今日は違う、掴み所のない違和感が口を重く閉ざした。
そしてその違和感を、イヅナは事も無げに突き崩す。
「それだよギンちゃん。ノリくんのこと、そんな風に呼んでなかった筈だよ」
「あら、ダメなら戻すけど」
「他にもある。少し前の夜中にこっそり二人で今日の準備をしてたよね」
「あなた達に頼んでも手伝ってくれなかったでしょ?」
イヅナの指摘をギンギツネはのらりくらりと受け流す。
けど、イヅナは動じない。
僕は悟った。イヅナは持っている、ギンギツネが躱すことの出来ない決定的な事実を。
「じゃあ、アレはどうして?」
「…アレって?」
――”笑い”とは元来威嚇の意味を持つのだと、とある本で読んだことがある。自らの敵になり得る者への、最大限の警告だと。
…白狐は笑った。
獲物に牙を掛ける直前のように、真っ白な八重歯を光の下に晒して。
そして、少しずつ刺し込んでいく。
「お湯の中にお酢を入れたの、ギンちゃんでしょ?」
「まあ、一体何を根拠に…」
「私見たよ、ギンちゃんがお酢の大きな瓶をこっそりキッチンから持ち出すところ。わざわざキタちゃんに疑いを向けて、何がしたかったのかな?」
「…キタキツネに?」
「それ以外ないでしょ? イメージってやつがあるんだから」
思えばその通りだ。
『事件そのもの』が目的でない限り、こんな事件を起こすメリットなんて無い。
そして事件が起きれば、キタキツネが真っ先に疑いの目を向けられる。
でも、そこまでする目的なんて…
「教えてギンちゃん…見送りの時、博士たちに何て言ったのかな?」
「……」
そっとイヅナが目配せをする。
ここから先は、僕が聴くべきということだろうか。
イヅナは…何かを察している様子だ。
とにかく僕は、ギンギツネ本人に真意を確かめるしかない。
「ギンギツネ、本当にキミがやったの? もしそうなら、せめて…」
「…いいわ、理由だけでも教えてあげる」
ギンギツネは俯いていた顔を上げた。
観念したのか、その表情は妙に晴れやかで、真っ直ぐに僕を見つめる瞳には不思議なデジャヴを感じた。
――全ては一瞬だった。
僕が彼女の目の美しさに囚われた瞬間の出来事。
「くっ…!」
「ぎ、ギンギツネ!?」
イヅナとキタキツネの声が聞こえる。
「あ…」
成す術もなく僕の視界は裏返った。
暖かな風が耳を撫でる。
全身を熱が覆う。
ギンギツネが僕を抱き締めた。
「ぜぇんぶ、あなたの為にしたことなのよ、ノリアキさん」
耳を塞ぎたかった、目を逸らしたかった。
瞼を閉じて再び開くと、逃れようのない現実が眼前に迫ってきていた。
凡そ彼女には似つかわしくない、幼い子供のような笑顔を浮かべ、掛け替えの利かないただ一つの欲望を口にする。
「…だから、褒めて?」
「あっ――!」
――ギンギツネとした初めての口づけは、ほんのり酸っぱい味だった。
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