Ⅱ-111 雪に隠れる赤い虹

 ああ、雪山は真昼でも涼しい。

 湯気と炎の熱に溢れたキッチンの恐ろしさを忘れさせてくれる。


 やれやれ、一体何をしたらあんなサウナのような状態に出来るのだろう?


 身が引き締まるような冷たい風を全身で浴びていると、背後から聞き慣れた声がした。


「…ノリアキ、隠れよう!」

「え?」


 突拍子もない言葉に瞬きを忘れていると、キタキツネは頬を膨らませて僕に詰め寄る。


「もう、約束したじゃん。家出して一緒に隠れるって」

「ああ…そうだったね」


 つい顔を逸らして頬を掻く。

 別に家出とは言っていない。そう表現すると…なんか変な感じだ。


 その場しのぎで言ったことではないけど、まさか本当にやるつもりとは。

 

 そこは流石のキタキツネ、一度取った言質は何としても放さない。


 まあ、僕がすべき仕事も一段落ついたから、案外悪くない暇潰しかもしれない。


「…行くよね?」


 彼女はくっつきそうなくらい顔を近づけて肯定を求める。


「勿論だよ、でも…どこに行くの?」

「…あそこ」


 そう言ってキタキツネは向こうの山を指差す。

 確かそこには、温泉の管のバルブがあったと記憶している。


 そこまでなら山道も整備されているはずだし、何度か通った経験もある。

 

 あまり時間を掛けず、手頃にができる目的地と言えるだろう。


 …手頃な家出って、何だろう?


「早く、余計なのに見つからないうちに行かないと」

「あ、そうだね…」


 キタキツネに手を引かれ宿を後にする。


 ふと視線を感じて振り返ると、遠くの窓の隙間からオレンジの瞳が覗いていた。




―――――――――




「い、一体誰の仕業なのですかッ!?」


 目を覚まして正気を取り戻すなり、博士は怒号と共に事件の犯人を捜し始めた。


「博士、まず体を休めてはどうですか?」

「ならぬのです! 犯人を見つけるまでは、一歩たりとも…!」

「ふふ、『ならぬ』なんて一体どこの言葉?」


 まあ、博士については予想通りね。

 とはいえ、簡単に事件は解決しないでしょう。


 博士が寝ている間に助手と私で様々調べても、『誰か』を特定する証拠は見つからなかった訳だし。


「では博士、私が調べた情報をお教えするのです」

「おお…! 流石は私の助手なのです」


 あら、全部助手の功績になりそうだわ。


「まず、あの紅茶の酸っぱさの原因は電気ケトルでした――」


 それからしばらく、とある本で読んだ”捜査会議”のように事件の情報が助手の口から並べ立てられる。


 じゃあ、せっかくだし私の方で整理してみようかしら。


 まず助手の言った通り、原因があったのは電気ケトル。

 原因と言っても大したものじゃないわ。


 単純に、ただのお湯がにすり替えられていただけ。


 まあ、これは文字通り蓋を開けてみれば簡単に分かることね。


 …正直、分かったと言えることは


 残りは役に立つかも分からない状況証拠。

 とある本に倣えば、アリバイと呼べるものかしら。


「とはいえ、それが役に立たないことはここまでの話で分かって頂けると思うのです」

「その通りですね、アリバイは意味を持たないのです」


 考えるまでもなく、犯人がやったのは『お湯をすり替えること』だけで、それは実を言えばいつでも出来る。


 お湯なんてほとんど誰も気に留めないし、言ってしまえばすり替えなくても直接注げばすぐだもの。


「ふむ…中々狡猾な犯人なのです」

「ええ、やったことの割には賢いと言えるでしょう」

「本当にその通りね」


 だけど、博士たちの頭の中では目星が付いているんじゃないの?


 証拠が無いから決めつけるのを恐れてるだけで、剥がしようのないがこびり付いているはず。


 目を見れば分かるわ。

 本当にあの子ったら、すごい事件を起こしちゃったものね。


「…ねぇ、ノリくん知らない?」


 行き詰っているところに、イヅナちゃんがやって来た。


「あら、見つからないの?」

「我々は知らないのですよ、ずっとここにいたので」

「そう…もう、どこに行っちゃったのかな」

「何ならジャパリフォンがあるじゃない、それにキタキツネと一緒にいるかもしれないわよ」

「ああ、ジャパリフォン…!」


 イヅナちゃんは思い出したように服を漁り始める。

 

「やれやれ、存在を忘れられているのでは、どんなに便利でも役に立ちませんね」


 博士が呆れているうちに白い携帯が姿を見せ、静かな部屋にコール音が響き渡った。


『……』


 だけど、いつまで経ってもノリアキさんが電話に出る気配はない。

 イヅナちゃんは次第に苛立ち始めた。


「もう、なんで…!?」


 イヅナちゃんはジャパリフォンを投げ捨てる。

 それを博士がナイスキャッチ。


「おっと、物は大事に…」

「うるさいよ、博士」



 ふわっと、サンドスターの輝きが白狐を覆う。


 説明しましょう、イヅナちゃんは野生開放をすることでノリアキさんのいる方向をその繋がりで感じ取ることが出来るの。


 普段も遠近くらいなら感じられるようだけど、何分この旅館は彼の気配が色濃く残っていて逆に探しにくくなるみたいね。


「いた……あれ、少し高い?」


 高いというと、恐らく標高のことでしょう。

 つまり、山の高いところまで行っちゃったのかしら。


 私の見立てによると温泉の源付近ね。


 イヅナちゃんの体の方向と最後に彼を見た時間から考えれば、それくらいが妥当なはず。


「あぁ、やっぱりキタちゃんもいる…!」


 落胆するような声が聞こえる。

 そして、訝しむ声も聞こえる。


「博士、やはりキタキツネの仕業では…?」

「そして恐れて逃げ出した…と、考えられなくはないのです」


 私は事情を知っているから違うと断言できる。

 だけど、まあ放っておいていいでしょう。


 私の言葉を信じてくれるとも限らないしそれに、私が何かしなくても事態は動きそうだし。


「ノリくんを連れ戻しに行かなきゃ…!」

「キタキツネをとっ捕まえるのですよ助手」

「分かりました、博士」


 一人と二人はそれぞれの目的を胸に同じ場所へ向けて飛んで行く。


 私も準備を始めようかしら。

 今から準備すれば、余裕を持って晩御飯が出せそうね。


 …ふふ、きっとみんなお腹を空かせて戻って来るはずだわ。




―――――――――




「よいしょ…っと。…ノリアキ」


 キタキツネはコンクリートの上に腰掛けて、隣を手でポンポンと叩く。


 ”そこに座って”ということだろう。

 促された通りにすると、ニッコリ顔で腕を絡ませてきた。


「えへへ、二人っきりだね」

「ふふ、そうだね」


 パタパタ足を揺らして喜びをアピールしてくる。


 わざわざ足で示さなくても、尻尾がこれ以上ないほど表しているというのに。


 だけどキタキツネにとっては、表現してしすぎるなんてことは無いのだろう。



「…綺麗な景色だね」


 下を見れば一面の銀世界。

 宿から見たのとは違う雄大な景色。


 でも、キタキツネの返答は雪のように淡白で冷たかった。


「そうなの? ボク分かんない」

「分かんないって、なん――」


 横を向いたら、キタキツネと目が合った。

 僕の目をずっと凝視している。つまり、それって…


「だって、ノリアキしか見えないんだもん」



―――――――――



 しばらくの間、僕とキタキツネはただ座って辺りを眺めていた。


 …いや、まあ、少し語弊があるけど。

 

 正確に言えば辺りを眺めていたのは僕だし、キタキツネはずっと熱い視線を惜しむことなくこちらに浴びせていた。

 

 しかし、飽きないものなんだね。


 そんなことを考えつつ早数十分。

 ふとした瞬間に、僕らを取り巻く状況は一変する。


 サク、サク。

 

 雪を踏みしめる音と共に、イヅナはやって来た。


 …怒っている、訳ではなさそう。それよりむしろ、悲しそう。


 イヅナも誘えばよかったかな? …なんて、キタキツネの前では口が裂けても言えやしない。 


「ノリくん、なんで私を置いていったの…?」

「あぁ…ごめん」


 だから僕には謝るしかない。

 他には何も言えない、弁明する手は落とされてるから。


「えへへ、羨ましいの?」

「…分かってる癖に」


 すんでのところで挑発を受け流す。

 僕はイヅナの次の行動に意識を傾注する。



 そうしてキタキツネから意識が離れたその直後、彼女は僕の隣から姿を消した。



「え、キタキツ――」

「私を見てよノリくん、ほらっ!」


 視界が真っ白に染まる。

 手の届く世界が、イヅナの胸の中に閉じ込められる。


 世界はあまりにも急に暖かくなって。


 眠気に襲われた僕は、そのまま――




―――――――――




「さて、早いうちに白状した方がいいのですよ、キタキツネ」

「何のこと? ボク、何も分かんないんだけど」


 やたらと高圧的な態度で博士が詰め寄ってくる。


 助手も一緒になって『謝れ』とか『証拠は挙がってる』とか喚いてるけど、ボクは本当に何も知らない。

 またご自慢のに足を掬われただけなんじゃないかな。

 


 というか、そんなことはどうでもいい。

 

 ノリアキは…ああ、イヅナちゃんに眠らされてる。

 イヅナちゃんも容赦しないよね、折角二人きりになれたのに。


 まあ、立場が逆だったらおんなじことしてたけど。


 でも嫌だ。

 だって、今はそのなんかじゃないんだもん。


「待つのです、どこへ行くのですか?」


 もう、本当に邪魔ッ!

 

 嫌な話だけど、『斬り捨てて焼き鳥にする』って言ってたイヅナちゃんの気持ちが分かったよ。

 

「……!」


 足を止めて、そっと、野生の心を呼び覚ます。

 力がみなぎってきて、自然と視線も鋭くなった気がする。


「くっ…我々はそんな脅しには怯まないのです」

「その通り、我々はこの島の長なのですよ」


 その言葉通り、博士たちは一歩も退く事無く毅然とボクの方を向く。


 でも残念。


 …



「あっ……博士ッ!?」

「な、にを…」


 4本、七色の虹が弧を描く。

 そして、真っ赤な虹が雪を染めた。


「邪魔しないで、博士」


 もそうだった。

 なんで博士はいつもいつもボクの障害になるの?


 …消さなきゃ。いつか、致命的な邪魔を入れられる前に。

 

「はぁ…っ!」


 より一層力を込めて爪を振るう。


「させないのですッ!」


 野性を解き放った助手が道を阻んだ。


 丁度いいや、まとめてやっちゃえ。どうせ助手もボクの邪魔になるんだ。


 爪をそのまま振り下ろすと、助手の振り上げた斬撃とせめぎ合う。


「く…うっ!?」

「どいてよ…今すぐ!」


 ボクの手は全てを突き抜けて助手を吹き飛ばす。

 ほっぺたに返り血が付いて、汚いそれはすぐに拭った。


「キタキツネ…正気に、戻るのです…! こんなこと、許されると…くっ」


 耳を貸しちゃダメ、絆されちゃダメ、躊躇っちゃダメ、殺さなきゃダメ。


 憎たらしい、反吐が出る、虫唾が走る。

 我が物顔で宿を歩き回って、ノリアキとボクの家に悍ましい匂いを持ち込んで。


 …こんなの、ボクたちの世界には必要ないよ。



「…えっ?」


 イヅナちゃんの、素っ頓狂な声。


「やめて、キタキツネッ!」


 そして―――




―――――――――




 二本の弧を描いて鮮血が舞う。


 片方は僕の腕から。

 そして、自身の爪を止めようとしたキタキツネの腕から。


「あっ…!?」


 キタキツネの表情が歪む。きっと、僕の顔も痛みに歪んでいる。


 それでも僕は、キタキツネを安心させてあげないと。


「あ、はは……大丈夫?」

「はぁ…? 何を言っているのですかコカムイ、どう見ても…っ」


 博士を手で制し、なるべく穏やかにキタキツネへ話しかける。


「キタキツネ…安心して、僕は大丈夫だから」

「でも、でも…ボクはまた…」

「気にしないでいいよ。ほら、今度はこの傷だってお揃いみたいでしょ?」

「……うん」


 涙ながらも、キタキツネに笑顔が戻ってきた。

 後は時間さえ経てば、普段通りの様子に戻れることだろう。


「でも…なんで? イヅナちゃんに眠らされてたはずなのに」

「あはは、なんでかな? …きっと、”止めなきゃ”って思ったんだ。眠りながらでもね」

「そっか…えへへ、ありがと」


 手を伸ばしてキタキツネの頭を撫でるとペロリ、舌を伸ばして血を舐め取られた。


 キタキツネったら、こういう所はちゃっかりしてるんだから。


「ノリくん、私も私もっ!」

「えー? …もう、仕方ないなぁ」

「じゅるり…美味しいぃ…!」


 それから雪が降り始める時まで、僕たちはいつものように盛り上がっていた。


 わずかな痕を残して傷は塞がり、消えるときを想うと名残惜しくて。


 博士たち二人は複雑な表情。傷があらかた塞がったら、そそくさとこの場を後にしてしまう。



「キタキツネ、次からはこんなことしちゃダメだよ?」

「ごめんなさい…」


 念のために釘を刺しておく。

 キタキツネも本気で反省しているし、何も無いはずだ。


 でもいつか、今日の出来事も忘れてしまう。


 そうなればまた、彼女の爪は誰かに向けて突き立てられるだろう。


 どうすれば、今日みたいな事件を防げるのかな?


 …一つだけ、今すぐに実行できるとても簡単な方法がある。


 一緒に閉じ籠って他には誰も寄せ付けなければ、その爪を向ける相手はいない。



 …でも、叶わないや。



 イヅナがいるから、イヅナを見捨てられないから。


 この世界にたった3人だけだったなら、僕たちの世界は平和になるのかな…?

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