剣士「僕は……あいつにだけは、泣いてほしく、ないんだ」
聖女の顔が今にも泣きそうにくしゃりと歪んだ瞬間、足が地面に縫い付けられてしまったように動けなくなってしまった。
「ルド……?」
すっかり固まってしまった僕を不審に思ったらしいユキナが、不思議そうにゆっくりと振り返る。生気のない顔で僕たちを見つめているあの女の姿を認めた瞬間、ユキナはひゅっと息を呑んだ。
彼女の視線が、僕たちの繋がれた手に固定されていることに気づいた時には、もう遅かった。
「っっ。………嘘だったらって願っていた私が、馬鹿でしたのね」
言葉の内容は、よく、聞き取れなかったけれど。
その大きな瞳から大粒の涙がはらりと零れおちた瞬間、頭が灼けるように熱くなって、心臓が素手で直接握りつぶされたように痛んだ。
「…………信じて今日を楽しみにしていただなんて、ほんとに、バカみたい」
聖女が、僕らに背を向ける。
「マノンっ!!」
名前を呼ぶことを躊躇う余裕もないぐらいに、憔悴しきっていた。
僕の叫び声で、怯えたように彼女の細い肩が跳ね上がり、周囲の人々が何事かとどよめいたのも束の間。
聖女は、僕らのいる所からできるだけ遠くに離れようとするように、余計に歩調を速めた。人混みの中に、淡い水色のワンピースを身に着けた華奢な後ろ姿が、消えていく。
クソ。
あいつ、絶対、誤解してるだろ……!!
駆け出して追いかけようとしたその瞬間、僕の手を掴んでいる小さな手にぎゅっと力がこもった。
「ごめんっ。ユキナ、手を離して」
「…………」
「あいつのところに、行かなくちゃ」
僕を見上げるユキナの瞳が、弱ったように揺れる。
「あいつは、僕のパーティメンバーなんだ。多分、僕たちのことを誤解してる」
「…………ルドは、あの人に、誤解してほしくないんだね」
「……うん」
まだ、胸が嫌に激しく高鳴っている。彼女の流した涙が脳裏にこびりついていて、どうやっても離れてくれない。あの女にあんな顔をさせてしまったのは自分なのだと思うと胸が潰れたようになって、呼吸すら苦しい。
「彼女は、多分……今日、みんなで遊べることをすごく楽しみにしていたから、集合時間より一時間も早く着いてしまったんだと思う」
僕も、たとえユキナとの約束がなかったとしても、一時間ぐらい前にはここに着いていただろうからそう思う。
あの女の考えそうなことなんて、少し考えれば、簡単に予測がついたのに。あまり深く考えず、移動の手間を惜しんでここをユキナとの待ち合わせ場所にしてしまったのは、完全に僕の不手際だった。ユキナとの間になにかやましいことがあったわけではないけれど、彼女にはそう見えておかしくない状況だったかもしれない。
過程はどうであれ、結果的に彼女の心を脅かしてしまった。
「僕は……あいつにだけは、泣いてほしく、ないんだ」
「っっ」
「あいつが泣いてると……どうして良いか、分からなくなる。情けないぐらい」
ユキナは唇をぎゅっと噛んで辛そうに瞳を伏せた後、熱い吐息を吐き出しながら、震える声で言った。
「……ル、ド。ごめんね」
「ううん。ユキナの、謝ることじゃない」
「ちが、うの。……私ね、あの人に、嘘を吐いちゃったの」
ユキナが、あいつに嘘を吐いた?
予想もしていなかった言葉に困惑して口ごもってしまったら、ユキナは、しょんぼりと眉尻を下げながら続けた。
「……
「えっ……!?」
「私がたまたま噴水広場を通りかかった時、ルドは、あの女の人にもたれかかって寝てた。その時に、あの人とお話したの」
え……?
じゃあ、あの女がやたらと素直に僕に甘えてきたことも、現実だったのか!?
一体、どういうことだ? 夢だって言われた方が遥かに納得できる超常現象だったから、てっきり夢だと信じ込んでいたぞ……!
ユキナは、いけないことをしたことが親にバレて、叱られるのを恐れている子供のように弱々しい目で、僕を見ている。でも、僕としては嘘云々を咎めるどころでなはなく、戸惑いの方がずっとずっと大きい。
「で、も……それにしては、あの女の様子が明らかにおかしかったんだが」
「あの人、魔法の薬を飲んだって、言ってたよ」
「は?」
「ルドと結ばれるための魔法の薬だって。詳しくは、よくわかんないけど」
文字通り、目が点になりかけた。
「…………ははっ。なにそれ」
自然と、渇いた笑いがこみあげてきた。
なんだよ、その至極怪しげな薬は。そもそも、よく飲む気になったな。
ユキナはむうと頬を膨らませながら、拗ねたように言う。
「それを聞いて、ずるい、って思ったの。それでカッとなって、今日はルドとデートする予定だからって、嘘を吐いちゃった」
「そっか」
「ごめんなさい……。ルド、怒ってる?」
「いや。ユキナからしたら、そう思っても仕方ないかって思うし」
「…………」
「君は、どんな事情があるにせよ、魔法の薬なんかに頼るなんてどうかしてるって思ったんだろ?」
ユキナみたいに自分の気持ちを素直に言葉にできる子には、あの女の気持ちは、相当理解しがたかっただろうな。さぞかし不可解で奇妙に映ったことだろう。
常識的に考えるならば、彼女の行動はあまり褒められたものではない。
でも。
彼女という人間をよく知りすぎてしまった僕には、どんな思いで彼女がそれを口にしたのか、想像がついてしまった。
「ユキナは、信じられないって思うかもしれないけどさ……。そんなんでも、多分、あいつなりには、すごく頑張ってくれたんだと思う」
「…………」
一向に僕への気持ちを認めたがらない彼女からしたら、その薬を飲むということ自体が、心理的にとても高いハードルだったに違いない。不器用なあいつなりに、僕との距離を縮めようとして一生懸命だったのだろう。
普通だったら呆れてしまうような話なのに。それを聞いて、頬が火照りそうになるほどバカみたいに嬉しくなっている僕も大概だ。あいつのことを馬鹿になんて、到底、できそうにない。
口を閉ざしたら、それまでずっと黙りこくっていたユキナが一歩踏み出して、僕をじっと覗き込んできた。
吹いてきた風が、彼女の銀の髪をさらさらと流していく。
薄紫色のパーカーがひらひらと揺れている。
しばし無言のまま見つめあった後、ユキナの形の良い唇が、覚悟を決めたように開かれた。
「ルド」
「ん?」
「私も、ルドのこと本気だよ」
緋色の瞳に映りこんだ僕の顔に、迷いは浮かんでいない。
「…………うん、そっか。ごめんな、僕は――」
「大丈夫。分かってるよ」
ユキナの口元に、淡い笑みが浮かぶ。
思いがけないその神秘的な表情に、胸が少しだけ高鳴った。
「私、五年後には、あの人に負けないぐらいの美人さんになるよ?」
「うん。まぁ、そうだろうな」
「すっごく良い女になって、絶対絶対、ルドのこと後悔させる」
「うん。もしかしたら、死ぬほど後悔するかも」
「ふふふ。ざまーみろだ」
つないでいた手をぱっと外して、ユキナは、僕から距離を取った。
「私を振るなんて、ルドってほんとに馬鹿! ルドなんて、今すぐどっか行っちゃえばいいよ! 早くあの人を追いかけないと、見失っちゃうよ!」
穏やかな日差しの下で、今にも泣きそうになっているのを堪えながら必死で笑おうとしているユキナは、今まで見た彼女の中で一番綺麗だった。
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