カリカリカリ

滝川創

カリカリカリ

「ただいまー」


 誰もいない家に帰ってきてそう言うと、なんだか心細い気持ちになる。

 私はすぐにお風呂に入り、晩ご飯の準備を始めた。

 一人暮しを初めて、もう三ヶ月が経った。

 慣れてきてはいるが、やはり親の元を離れると、たまに寂しくなる。

 今日は、金曜日だ。

 そんな寂しさを吹き飛ばすために、美味しいお酒でも飲んで、テレビで録画していた映画を鑑賞しよう。そんなことを考えながら、料理をする。

 この家は元々親戚の家だったのだが、その親戚は引っ越してしまったので借りて住んでいるのだ。なかなか広い一軒家で住み心地は良いのだが、古さが目立った。

 コンロは調子が悪く、うまく火が着かないこともあれば軽くぶつかった衝撃でボッと火が噴き出したこともあった。

 キッチンの上についている棚は外れかけ、今にも落ちてきそうだった。

 私はその棚に置いてあった油をフライパンに入れ、また油の入った容器をそっと棚に戻した。

 このままでは怖いので、業者を呼んだのだが……はて、いつだったっけ?

 私は、壁に掛かったカレンダーを見る。

 明日の日付の所に、「キッチン」と雑な字で書かれている。

 完全に忘れていた。

 私が振り向いたとき、服がカレンダーにひっかり、画鋲が外れ、カレンダーが落ちてしまった。

 画鋲は転がってどこかへ行ってしまったので、あちこちを探したが結局見当たらず、探すのを諦めた。

 画鋲を踏むのが怖いので、スリッパを履き、新しい画鋲を箱から取り出してカレンダーを固定した。




        ***




 料理ができあがり、私はソファに座ってリモコンに手を伸ばした。

 その時だった。かすかに、何かを引っ掻くような音がし始めたのだ。


 カリカリカリ。


 その音は、かすかではあるがはっきりと聞こえていた。何だろうか。

 疲れ切った私にとっては音の正体よりも、映画の方が気になったので、私はテレビの電源ボタンを押した。

 テレビはつかなかった。


「ああー、面倒臭いなあ」


 最近切れかかっていたリモコンの電池が遂にその命を使い果たしてしまったのだ。

 私は、電池を取りに行くため、立ち上がった。

 膝がテーブルにぶつかり、お酒の入ったグラスが倒れる。


「次々と! 神様は私に恨みでもあるの!?」


 自分の失敗を神という存在になすりつけ、目的地を電池からぞうきんに切り替える。

 私は、机の下に広がったお酒を拭き取るために、ソファの前にしゃがんだ。そこで気づいた。

 あの引っ掻くような音はソファの下から鳴っているのだ。

 耳を澄ませる。

 確かに、その音はソファの下に広がる暗闇から聞こえてきた。


「一体何の音?」


 私は、疲れた身体でソファをズリズリとずらした。

 床には小さな穴が空いていた。


 カリカリカリ


 穴が割れるようにして広がって、私は後ろに退いた。

 恐る恐る覗いてみる。

 穴からヌッと顔が覗いた。


「キャー!」


 私は、絶叫して部屋の端まで逃げた。


「頼むから、静かにしてくれ! 危害は加えない。ただ、助けて欲しいんだ」


 穴から声が聞こえた。私は、そろりそろりと穴に近づき、中を覗いた。

 そこにあったのは、顔中傷だらけで、汚れた、男の顔だった。


「驚かしてすまない。私は、あなたの隣人に監禁されている。いま、閉じ込められた地下室から、何とか穴を掘ってここまで来たんだ」


 私は信じられなかった。

 お隣さんは、優しそうなおじさんで、道で会った時も気持ちのよい挨拶をしてくれる爽やかな人だ。

 私が、疑うような顔をしていると、男は言った。


「頼む、警察を呼んでくれ! 今すぐに! もし、君が俺を疑っているんだとしても、警察を呼ぶのは君にとって必要なことじゃないか?」


 確かに。言われてみれば、どっちにしろ通報した方が良いだろう。

 私はポケットから携帯電話を取り出し、一のボタンを二回押した。

 穴から急に男の顔が消え、隣人の顔が覗いた。

 私はびっくりして、携帯を落としてしまった。

 隣人は穴から手を伸ばし、携帯を穴の中へ引きずり込んだ。

 穴から見える隣人はいつも外で見る隣人とはまるきり様子が違った。髪は乱れ、目は真っ赤。顔は爽やかどころかおぞましく、いやらしい顔をしていた。


「お前にも知られてしまったか。見られてしまったらしょうがない」


 そう言って、隣人の顔は穴から消えた。

 私は少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていたが、すぐに震える足を引きずって家中のドアや窓の鍵を閉めた。

 次に、固定電話の前へ行き、一一〇番を押した。


 しまった。二階の鍵を閉め忘れた。


 私は、受話器を放り投げ、鍵を閉めようと二階へ上がった。だが、遅かった。


 窓を見ると、丁度隣人がよじ登ってきているところだった。

 私は一目散に一階へ逃げた。


 どこに隠れよう。


 階段から降りてくる足音が聞こえる。


 やばい!


 私はお風呂場に逃げ込み、ドアを閉めた。それから体をかがめ、息を殺した。


「おーい、どこだー。出てきなさい」


 近くから、声が聞こえる。人影が風呂の磨りガラスのドアの前で止まる。私は震えが止まらなくなっていた。


「そこか」


 ドアが開いて、ニヤけた隣人の顔が現れた。

 私は、近くにあったスポンジやらたわしやらを投げつけた。


「無駄な事はしないで、おじさんの家に来なさい」


 私は洗剤のボトルを掴み、隣人の目をめがけて発射した。


「ぐわあっ!」


 隣人は目を押さえ苦しみの声を上げた。私はその隙に、脇を通り抜けた。


「待て!」


 目を押さえながら、隣人は追いかけてくる。

 私はキッチンに逃げ込んだ。履いていたスリッパが脱げる。

 キッチンからリビングに抜けようとした時、私は足をひねって倒れてしまった。

 後ろから、隣人が走り込んできた。


「捕まえたぞ!」


 次の瞬間、隣人は落ちていたスリッパでつまずいた。バランスを崩した隣人は棚をつかむ。

 棚がバキッと音を立てて崩れ落ちた。

 棚に載っていた油の入った容器の蓋が開き、隣人に油の雨が降りかかる。


「痛っ!」


 そう言って飛び上がった隣人の足の裏には、さっき見つからなかった画鋲が刺さっていた。そんなところに落ちていたのか。

 隣人はよろめいてコンロにぶつかる。コンロがボッと火を吹いた。

 火はみるみるうちに隣人に燃え移り、橙色の炎が隣人を包んだ。目の前で、隣人は火と格闘してもがいている。

 私は、痛めた足を引きずって家から逃げた。




        ***




 私が住んでいるあの家は今、キッチンにリフォームが入り、見違えるように綺麗になっていた。

 私は満足してソファに座る。

 隣人はあの後、大やけど状態で捕まった。

 監禁されていた男は無事救出され、私は命の恩人として多大な感謝をされた。男と隣人は面識のない全くの他人だったそうだ。

 隣人は知らない人を地下室に連れ込み、怖がらせるのを趣味とした、精神に異常を持った人間だったようだ。

 地下室からは、今までに行方不明になっていた複数人の写真と、恐怖について書かれた、研究レポートのようなものが出てきた。

 近い所にも恐ろしいものは潜んでいるのだなと改めて思わされる事件だった。


 私はグラスを持ち上げてお酒を喉に流し込んだ。

 美味しい。

 さて、やっとあの映画が見られる。あの事件のせいで、録画してあった映画を見るのがだいぶ延期されてしまっていた。

 私は、リモコンに手を伸ばす。そこで、一回手を止めて耳を澄ませる。

 部屋は静まり返り、何かを引っ掻くような音はしない。

 私は安心して、リモコンをテレビに向け、電源ボタンを押した。


 つかない。


 電池を取り替えるのを忘れていたのだ。

 私は文句を言いながら立ち上がった。

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カリカリカリ 滝川創 @rooman

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