第2話 非日常の数時間

 人を好きになる。恋をする。

 それは決して綺麗な事ばかりじゃない。

 綺麗な言葉が並べられのは、おとぎ話の中だけ。

 現実の恋は春風のように心がそわそわと踊って、そして生々しい感情に悶えるんだ。


 こうして貴女と束の間に会う。

 けれど咎められるような事は一切していない。

 二人の住む街から離れた場所を一緒に歩いて、同じ風景を眺めながら他愛もない話をして、疲れたならば何処かのカフェに入ってコーヒーを飲みながら足を休ませて。まるで中学生のデートのように、戯れに手を繋ぐ程度の関係。


 貴女と初めて言葉を交わしたのは、三月の終わり。ようやく桜の蕾がひとつふたつと開き始めたばかりの頃。

 あれから半年と少し。

 十月の平日の海は人も疎らで、余計な音もしない。けど、それでも僕は満足できない。貴女と二人きりじゃなきゃ、僕は嫌なんだ。見知らぬ他人も、通りすがる車も、皆、皆邪魔だ。

 貴女を誰かから盗んでいられる時間は、限られているから。


 日暮れ前まで。それ以上の時間を、貴女は僕にくれない。それはきっと、僕らが間違いをおかさない為のぎりぎりの時間。

 貴女は僕に罪をおかさせない為に、それ以上の時間を僕に許してはくれない。貴女はそんな事もちろん僕には云わないけれど、それくらいは未成年の僕にも察しはつく。既婚者の貴女と一線を越える事は、罪なのだから。


 貴女は優しくて残酷な人だ。そして、僕は意気地無しだ。

 内側ではこんなに貴女に焦がれて飢えているのに、誰かから貴女を奪う勇気もない。決して届かない月を必死で掴もうとする子供みたいに、貴女を見失なわないように追いかける事しかできない。



 たった数時間だけ。

 けれど、貴女は僕に会ってくれる。会うのはいつも、日常とは離れた場所。

 僕も貴女も、同じ23区内に住んでいる。貴女を知ったのも初めて言葉を交わしたのも、区内の小さな図書館。

 けれど二人きりで会うのは、いつでも鎌倉。都内から電車で一時間もあれば辿り着く古都。日常からほんの少し抜け出した、非日常。

 貴女は、日常の中に僕を踏み込ませてはくれない。非日常の場所で、貴女と僕は交差するように束の間出会う。まるで通過する電車が、急ぎ足ですれ違うように。


 心は通じ合っているのだろうか。僕の一方通行なんじゃないだろうか。

 今だって、たえず不安でいる。

 貴女は僕に、情で会ってくれているだけなんじゃないのか。貴女からすれば僕なんて、酒すら飲めない子供でしかない筈だから。保護者気分で、僕と寄り添ってくれているだけなのかもしれない。


 けれど、貴女は僕を見くびっている。

 僕は男で、貴女は女だ。力ずくで、貴女を奪う事だってできる。

 貴女はきっと、何も判ってないよ。僕を。



「ねえ」


 貴女が急に振り向くから、僕は叱られた子供のように肩を震わす。まるで心を見透かされていたようで、僅かに眼を游がせる。


「また、小町通りに行く?」

 良く通るソプラノの声で、貴女が訊ねる。


「小町通りはもう飽きたよ。別の場所がいい」


 鎌倉で会うようになってから、幾度となく小町通りを歩いた。観光客や修学旅行らしい中学生に交じって豆屋を覗いたり、和小物を眺めたり、いなり寿司を食べながら歩いたりした。小町通りの鶴岡八幡宮側の一番端にある豚まん屋で、肩を並べてふかふかの生地を頬張った事もあった。

 小さな店内は販売のおばさんを除けば二人だけで、邪魔にならない音量でかかるFMヨコハマを僕は聴くともなく右から左の耳に流していた。


「ねえ、一口頂戴」


 王道の豚まんを食べていた貴女は、ピリ辛牛まんというちょっとひねくれたやつを選んだ僕に云う。僕の肩に凭れかかるように、貴女の頭が近づく。甘い香りが鼻先をくすぐった。まるで僕の動揺しきった心をからかうように。

 僕の戸惑いなんてお構いなしに、貴女は僕の手の中のピリ辛牛まんに一口かぶりつく。その軽い手応えに、指先が震えた。まるで中学生みたいに逆上せそうになる気持ちを押さえるように、僕は僅かに息を止める。

 僕の食べかけの上から、貴女の齧りついた小さなあとが残っていた。二人の形跡が、仲良く並んで。体の内側が、くすぐったいような心地になる。


「美味しい。今度これにしよう」


 貴女は何でもないように、僕の隣で笑う。

 いつだって、そうなんだ。ドキドキしているのは、僕の方だけ。

 貴女にとっては取るに足らない些細な事でも、僕は春風に吹かれたように心が浮かれてしまう。

 きっと貴女は、そんな事知らない。それとも全てお見通しで、僕を試しているのだろうか。

 

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