第3話 海沿い

 貴女は僕に、恋をしてくれていますか?

 僕は貴女に、本気の恋をしているんです。

 貴女に帰る家がある事も、そこで待っている僕の知らない誰かが居る事も知っている。その誰かの為に毎日きちんとご飯を作って、毎朝仕事に送り出している事も知っている。穏やかでいられないくらい、全部知っている。


 貴女は保護者気分で僕に付き合ってくれているだけなのかもしれない。僕だけが一人、いつも身を焦がしているだけかもしれない。時々、そんな疑心暗鬼になる。

 貴女の事が好きだから。苦しいくらい、好きだから。

 今は手を伸ばせば届く距離に居ても、決して触れる事のできない存在だと知っているから。

 貴女の肌に指を滑らすのは、僕じゃない。

 僕じゃない……。


 ふとした瞬間に、僕は貴女の肌を想う。きっとなめらかで柔らかな肌を。

 大学のつまらない講義を聞き流しながら、貴女の全てを想い、思考を彷徨さまよわせる。僕の知らない貴女を、必死に手繰り寄せて僕の中に棲まわせる。何処にも帰ってしまわない、僕の中だけの貴女を。何時間だって、僕の傍に居てくれる。

 現実の貴女は、僕を日常の中にすら置いてくれない。



 小町通りには行かず、僕たちは海沿いの道を歩いていた。空は薄い雲がかかり、そこから注ぐ陽射しは淡く白く貴女の形を照らす。貴女の姿が、純白のベールを纏ったように僕の瞳の中にふわり映り込む。

 そのまま蜃気楼のように溶けてしまいそうな錯覚。陽射しを映す粒子にさらわれる白昼夢。そうしたら僕は、貴女という夢から覚めるのだろうか。

 まだ貴女という水の中で溺れていたい。できる事なら、貴女という水の底に僕をずっと沈めていて下さい。

 僕は貴女に、正気を失いかけている。



 由比ヶ浜海岸の通りを、材木座の方向へ二人で歩いた。二人の横を行き過ぎる車が、排気ガス交じりのぬるい風を散らす。

 何処までも続く広い空に抱かれ、貴女と僕は非日常の道を歩く。何処まで進んだって、先のない道を。

 これ以上行ったって、きっとしょうがないのに。


「そろそろ休もうか」

 僕が云う。


「けど何もないよ、この辺り」

「何もなくたっていいよ」


 そう、何もなくたっていいんだ。

 貴女さえ居てくれたら、それが僕の全てだから。



 道路沿いで見つけた自販機でコーヒーを買い、二人で海岸に降りた。僅かに湿った潮の匂いを鼻先に感じながら、大きめな丸い石の転がる不安定な道を下る。

 先に降りた僕は、心許なく足を進める貴女に手を差し伸べた。僕の手に応じた貴女の手が重なる。しっとりとした細い指。

 僕は無意識のうちに、指輪の有無を確かめていた。貴女の綺麗な指の上には、余計なものは存在していなかった。

 僕は束の間に安堵する。

 例え今貴女が指輪をしていなくても、誰かのものである事には変わりないのに。なのに僕は、貴女を物理的に束縛するそんな小さなものにすら怯えていた。


 浜辺に反り出した小さな岩。こびりついた砂を手のひらではらう。ひやりと湿った感触。貴女のスカートが汚れてしまわないように、僕は羽織っていた上着を脱いでそこに敷いた。


「気にしないで」

「ダメだ。ここに来たのは、僕のわがままだから」


 貴女は頬を弛めて笑った。

 それに冷たい岩の上に直に座れば、体が冷えてしまう。女の人の体は繊細だから、きっと冷やすのは良くない。


「じゃあ、遠慮なく」


 貴女がスカートの裾が砂につかないように気をつけながら、僕の上着が敷かれた上に座った。僕も貴女に並んで腰を下ろす。

 ふわり、貴女の香りがした。

 僕と貴女は並んで座り、黙ったまま海を眺めていた。浜に人の姿はない。時折走り去る車の音と、とんびの鳴き声。他に音はない。

 黙っているのは何となく落ち着かず、僕は話すべき会話を探していた。けど、ふさわしいものが見つからない。そうやって迷っているうちに、貴女との共通の話題なんてほとんどない事にあらためて気づいた。歳の差と、男女の違い。それが、小さな隔たりを生む。

 困ると、いつも本の話題に逃げた。唯一、二人の共通の事。出会いのきっかけ。太宰、三島、漱石の話は二人の定番。現代作家ならば村上春樹や東野圭吾、市川拓司、有川浩。決して尽きる事はない。

 けど今日は、いつもの逃げ道に迷い込みたくなかった。

 きちんと貴女と話がしてみたかった。

 貴女はそんな僕の心に気づいているのか、黙ったまま僕が話出すのを待っていた。


「何で、いつも鎌倉なの?」


 結局気のきいた会話を見つけられず、僕は差し障りのない事を訊ねる。


「好きだから。それだけ」

 貴女が短く、そう答える。


「今度、違う処も行ってみようよ」

「例えば何処?」

 

 貴女はまるで少女のように無邪気に訊ねる。


「川越とか」

「いいかも」


 貴女が微笑む。


「倉造りの街並みとか古風だし、さつまいもが名物なんだよね」

「知っている知っている、さつまいも練り込んだうどんだっけ?」


 貴女が嬉しそうに相づちを打つ。


「前に行った時、ご飯屋でデザートにさつまいもの甘露煮が出たよ」

「面白いね。確かさつまいも使った銘菓もあったよね」


「あ~、なんかあったような」


 確か、店先でもくもく湯気を出してふかしていた。


「これ」


 貴女がGoogle検索した銘菓の画像を僕に見せる。


「いも恋だって。可愛い名前」


 貴女がふふっと笑いながら、お取り寄せもできるみたいだね、と付け加える。


「けどやっぱりこういう銘菓は、街で食べ歩きが一番美味しいよね」

「今度行った時、二人でふかしたてを歩きながら食べよう」


 そんな他愛もない約束が、貴女と僕を結ぶ唯一の細い糸なんだ。

 いつ消えてしまうかも判らない、曖昧で不確かな繋がりだから。


 どうして貴女の住む街や僕の住む街では会ってくれないの?

 貴女の答えは判っているから、決して訊いたりしないよ。

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