003《仮構存在》/令嬢と探偵

 飛鳥田と連れ立って現れたのは、エレガントな雰囲気を漂わせた女性だった。滑らかな白い肌に、ショートカットの黒髪。白のワンピースを着ている。いかにも良家の子女といった出で立ちではある。しかしそれは極めて人工的な優美さである。精密ではあるが、どことなく人間味に乏しい。

 依頼人であろうその女性は飛鳥田に促され、丸テーブルを囲うように並べられた、応接用の椅子の一つに座った。丁度礼門堂探偵とは向かい合う位置である。依頼人はショルダーバッグを膝上に乗せ、礼門堂を見て柔らかな微笑を浮かべた。切れ長の、黒曜石のように光沢をもった瞳に、消え入りそうな程薄い唇。頬から顎にかけてすらりとしたラインを作っており、それが全体として纏まりを持たせている。控えめにいっても美人の類だろう。ただそれは、決して特別なことではない。少なくともここ《仮構都市バーチャル・シティ》では。しかし月並みな美しさとは別に、彼女には特別な何かを持ち合わせている。陶器人形のようだ、と礼門堂探偵は一目見て思った。決して透き通った、ガラス製品ではない。厚く固い表皮に覆われて、心を見通すことを許さない。ただその黒い瞳だけに妖しい光が差している。

「可愛らしい探偵さんですのね」

 艶やかな、落ち着きのある声で依頼人が言った。外見からは判断できなかったが、その声で少なくとも、あどけない少女という訳ではないことが分かった。

「私のせいじゃないさ」

 礼門堂の言葉に、依頼人はまるで反応を示さなかった。「努力はしてみたんだが」と言うべきだったか。しかしどちらでも変わりはなさそうだ、と礼門堂探偵は思い直す。

「フィリパ・C・礼門堂だ。フィルでいい」平静を保って、礼門堂探偵が名前を伝える。

「フィル――“ピッパ”ではないのね?」

「初めて会った人は、時々そう言うよ」

「“ピッパ”の方が、似合ってると思うわ。可愛らしくて素敵よ」

「だからこそ、“フィル”と呼んでほしいね」

 飛鳥田が給湯室へ向かおうとして、しかし引き戸の手前で少し立ち止まって依頼人に声をかけた。

「コーヒーでいいッスか? それとも紅茶?」

「あら……なら、コーヒーを」

「そりゃ良かった。うち、紅茶ないんッスよね」

 そう言って飛鳥田が引き戸の奥へ消えていった。まるで意味のない質問だ。

「悪いね、あれはああいう奴なんだ」弁明にならない擁護を礼門堂探偵が加えた。

「変わった人ね」依頼人が緩やかに微笑んだ。「嫌いじゃないわ」

「そうだといいんだが」礼門堂探偵が呟く。


 飛鳥田は給湯室でまずコーヒーサーバーとドリッパーを準備した。それからポットで湯を沸かし、キッチンの隅に置かれたアクリルスタンドからペーパーフィルターを一つつまみ、ドリッパーの上に広げる。

「社長の分も淹れます?」

「いや、私の分はもういい」

 それを聞いてから、飛鳥田は二杯分のコーヒー粉を正確に計り、フィルターの上に乗せる。粉は深煎りだが中細挽きのもので、礼門堂探偵が使用しているものとは異なる。飛鳥田は礼門堂より苦味とコクが強いものを好んでいた。ハンドドリップの為に別途用意するのは彼も少々面倒だと思っていたが、それは彼なりのこだわりだ。それに、礼門堂探偵の淹れる薄いコーヒーを飲み続けるのはなるべく遠慮したいところだった。

 飛鳥田がコーヒーを淹れている間に、礼門堂は話を進め始めた。

「名前と、依頼内容を」

公森詢きみもりまことです。人探しの依頼をお願いしに参りましたの」

「公森……」

 礼門堂探偵はその名に聞き覚えがあった。しかしそれに対して今、深く追求はしない。まずは依頼について聞くことにする。

「とりあえず詳しい話を聞きたいね。一体誰を探したい?」

「恋人です」公森詢と名乗る女性ははっきりと答えた。「少し前に連絡がつかなくなって、それっきり」

「なるほど……恋人ね」

 失踪した恋人を捜したいという、極めてシンプルな依頼だ。だが、心の中ではあまり良くない雲行きだと礼門堂探偵は思った。それは単純に、痴情の縺れの結果という場合が多いからだ。居場所を突き止めたとしてその恋人が会うことを望まないこともある。そうした時に依頼人が納得せず、ひたすらアフターフォローに追われるという経験を礼門堂探偵が何度か経験していた。面倒事に巻き込まれることはなるべく避けたいのだが、しかしそうも言ってられないのが実情ではある。離婚問題でないだけずっとマシだ、と礼門堂は考えることにした。


「連絡がつかないと言ったが、その心当たりは?」礼門堂探偵は依頼人の様子を観察しながら尋ねた。

「分かりません。突然でしたの……本当に。理由があるなら、直接教えてほしいものです」依頼人は微笑みを維持したが、表情には悲哀の影が差している。仮面のように維持された彼女の顔が心の機微を表したので、却ってそれが不自然に見えた。

「彼の友人や、知人は? 共通の友人がいるなら、そこから連絡をとることもできるだろう」

「いえ、私と彼の関係は秘匿していましたから。彼の友人を私は知りません」

「彼の家族も?」

「そうね。連絡先も知りませんし……彼も自分の家族について、あまり語りませんでしたから」

「では貴女と、調査対象との関係を他に知る者は」

「いませんわ」

「そうか……なら、警察には」

「いいえ。先程も言いましたように、私と彼の関係は内密なものでしたから。なるべく公に情報を流すのは避けたいの」

「だから、私立探偵に依頼したという訳か」

 彼女が“公森”と名乗る以上、その理由はある程度予想がつく。公森家は、此処仮構都市でも有数の名門一族だ。何を以て“名門”と呼ぶかは定かではないが――巨大な資本を一族で占有している、所謂財閥の体を成しており、また少なからず《仮構都市》を形成する中核へ影響力があるという。行政機構に公森家がどれほど介入しているかなど、私立探偵オプ身分の礼門堂には知る由もなかったが、ただ彼女からしてみれば、警察ですら警戒対象にあたるということなのだろう。個人の密やかな恋愛事情を公的機関に伝えたとして、それが依頼人自身の、或いは公森家という組織自体の不利益になることはそうそうないだろうと礼門堂は思ったが、しかし完全にそうだとはいえない。そもそも住む世界が違うのだから、礼門堂個人の見解など取るに足らないものだと理解していた。

 兎にも角にも、そうした政財界の事情からまずかけ離れているであろう場末の探偵に、このような依頼が舞い込むということも、決して有り得ない話ではない。ただそれは可能性として残されているというだけの話で、実際に起こり得るかといえば、その見込などゼロに等しい。だからこそ礼門堂探偵は、この公森詢と名乗る女の依頼から疑わしさが拭えなかった。彼女が本当に公森家の人間であるか、現時点ではその判断さえつかない。案外資産家の娘と一般庶民との人目を忍ぶ恋に模しただけの、妄執的な女の一方的な恋路であるかもしれない。恋愛関係に基づいた人探しには、しばしばそうしたストーカー被害のリスクが付き纏う。

 しかし流石に行き過ぎた妄想か、と礼門堂探偵は思い直す。それこそ公森の名を騙る必然性に欠ける。また恋人を捜し当てたとして、彼が“公森詢”を認知しそして彼女に会うことを了承しない限りは、対象の情報をむやみに渡さなければいい。それは調査対象者の権利であるし、また探偵としても、成功報酬以外の料金は受け取ることができる。尤もさらにリスクを避けるならば、それ以前に依頼を受け付けなければ済む話ではあるのだが。とはいえ久しぶりの依頼で、礼門堂探偵らしくもなく、すぐに依頼を断ってしまうのは躊躇われた。


「恋人の名前と、特徴は? もし写真があるなら、それに越したことはない」

 礼門堂探偵がそういうと、依頼人はバッグから一枚の白い封筒を取り出す。

「こちらにあります」

 礼門堂探偵は立ち上がって封筒を受け取った。中身は、一枚の写真だ。病的なまでに白く明るい部屋の中で、一人の男が正面を向いて写っている。黒い髪に、黒い瞳。漆黒という程でもなく、どちらも少しブラウンがかかっているだろうか。年若く、顔立ちは決して悪くないものの、正直どこにでもいそうな男だ。証明写真のように上辺の微笑みを作っている。それと差別化できるとしたら、アスペクト比と画角の違いくらいだろう。

「これがその、恋人?」礼門堂が尋ねた。

「ええ。名前は……“ナイト・クローラー”」

「“ナイト・クローラー”……」礼門堂は何気なく復唱する。

「変わった名前でしょう?」鈴を鳴らすような声で依頼人がくすくすと笑った。

「……風変わりな名前は、けして珍しくはないからね」礼門堂探偵は改めて写真の男を注視した。印象論だが、およそ“ナイト・クローラー”という名前と結びつかない、地味な風体だった。

「いつ頃の写真かな」礼門堂探偵が再び尋ねる。

「ごく最近かと」

「貴女が撮ったもので?」

「いいえ」依頼人が首を振った。「けれど、一番顔貌が分かり易いでしょうし」

 確かにその通りだ。明瞭な部屋に、真正面から顔を写すそれは人探しには丁度いい。ただ、だからこそ礼門堂探偵は違和感を覚えた。この写真は一体、何の為に撮られたのだろう? 証明写真のようではあるが、白い部屋の中で彼は椅子に座り、机に向き合っている。画角は彼単体ではなく、その部屋も含めて写しているように見える。また、これが、依頼人が撮影したものではないとしたら、彼女はどこから写真を手に入れたのか。そして、この男は——

「昨日突然、送られてきたのです」礼門堂の脳裏に浮かぶ疑問を見透かしたように依頼人が言った。

「突然?」礼門堂探偵が聞き返す。

「ええ。彼のメールアドレスから、この写真だけが添付されていました」

「本人で間違いないのか」

「勿論」

「返信は?」

「しました。けれどやはり……返事は、ありませんわ」

「……何の為に」

「それは、分かりません」依頼人が首を振る。「けれど、少なくとも彼は生きていますし、きっと私に連絡をとろうとしていると思うのです。たとえ今、それが難しい状況に陥っているとしても……正直な話、彼が私の元を離れたがっていたのではないかと思って諦めかけていたのですけど、この写真が届いたので、もう一度彼を探してみようとこちらへ参りましたの」

 依頼人はその恋人が、何らかの事件に巻き込まれていると考えているようである。その真偽について判断する術はない。しかし彼女の表層の内側にある、強い熱意を礼門堂探偵は垣間見た。それすらも偽装であるとしたら、余程の演者であるという他ないだろう。

「お願いします、“フィル”――引き受けて頂けるでしょう?」

 その声に反応して、写真から目を離す。依頼人の視線が礼門堂の青い眼を捉えた。“公森詢”の、黒曜石のような瞳。それは即ち、より純粋な黒を示す。混ざり気のない、あらゆる色彩を引き摺り込むような黒。吸い込まれそうな、なんて生易しいものではない。かつて人間が宝石に見出したように、瞳の深層には美しい魔力がある。それはきっと、一杯のコーヒーよりも黒く、苦いような。礼門堂探偵は思わず唾を飲んだ。何者をも魅了するというのはつまり、こういうことを言うのだろう。そこに性差は介入しない。説得力の問題だからだ。


「いやいや、どうもお待たせしましたー」

 唐突に、飛鳥田が両手にコーヒーを持って給湯室から現れた。いつも通り無遠慮な調子だったが、却ってそれに救われたと礼門堂探偵は思う。飛鳥田は丸テーブルにコーヒーカップを一つ置き、もう片方を自分のものとして、少し離れた壁にもたれかかって飲み始めた。依頼人は礼門堂から目を離して、飛鳥田の様子を観察した。相も変わらずマスクを付けたまま黒い液体を喉に流しこんでいる。役目は終わったと言わんばかりだ。

「……本当に変わった人ね」流石に呆れた様子で依頼人が呟いた。礼門堂も、否定する気は微塵もなかった。

「話を戻そうか」礼門堂探偵は黒革の椅子に深く座り、天井を見上げた。ともかく依頼の受諾については、感化されず冷静に考えなければならない。「……正直な話、あまり気は進まないね。話の内容を信じたとして、しかしそれはやはり私のような探偵に頼むようなものではないだろう。貴女が本当に“公森”であるなら、尚更だ」

「……もしかして、疑っていらっしゃるの?」依頼人が礼門堂探偵を睨みつける。先程とは違って、そこに瞳の魔力は感じない。

「そうかもしれない。例えば貴女が“公森”を騙る、厄介なストーカーである可能性だってある訳だろう?」既にその妄想に近い予測に執着はなかったが、礼門堂はわざとそれを提示した。

「ひどいことをおっしゃるのね」依頼人が棘のある口調で言った。「いいでしょう。調べていただいても構いませんわ……私が“公森”の人間であるかどうかなど、調べていただければすぐに分かることです」

「生憎、依頼人を調査する権限を私立探偵は付与されていないのでね」

「私が許可します。その方法を持ち合わせていないという訳では、ないでしょう?」

 依頼人が自信たっぷりに言い放つ。彼女の許しがあれば、探偵業法における違反など、考える必要などないのかもしれない。

「ふうん……」礼門堂探偵は深く息を吐く。依頼人が確かに“公森詢”という、公森家に通じる女であることは、その自信に満ちた様子で理解した。というより、理解しなければならなかった。故に今、礼門堂に残る依頼人への疑問は“何故この礼門堂探偵社に依頼をしたのか”ということになる。それは卑屈な考えだったが、しかし事実として礼門堂の営む探偵事務所は決して著名なものではない。それがむしろ公森詢にとって好都合だったとしても、少し考えれば実績に乏しい私立探偵に秘密の捜査を依頼するリスクだって分かるはずだ。彼女は決して愚かではない。それは礼門堂探偵も話していてよく分かっていた。だからこそこの疑問はどうしても捨てることができないでいた。

「まだ何かあるのかしら?」公森詢は問い詰めるように語りかけた。「依頼内容に対しても疑いがあるとしたら、それは穿ち過ぎという他ないでしょう。そんなことをしていたら、受けられる依頼なんてなくなってしまうもの」

「いや……」礼門堂はここで、先程の疑問をぶつけることを躊躇った。それもまた、余計な勘ぐりに違いないからだ。とはいえやはり、依頼を受けるには相応の確証が欲しかった。

 暫くの間、依頼人と礼門堂探偵は黙っていた。礼門堂が返事すべき状況だったが、しかしどちらの回答もすることができず、逡巡する他なかった。いっそ公森がこのまま依頼を引き下げてくれても構わないとも思った。


 重たい空気が漂うこの状況を打ち破ったのは、今まで口出しをしなかった飛鳥田だった。

「……ちなみに、いくらくらいでお考えッスか?」

 つまり、調査料の話だった。公森は静かに壁際の飛鳥田の方を向いた。

「……相場は、おいくらくらいかしら?」

「うーん、人探しなら概ね三十万くらいッスかね。調査日数や経費、難易度にもよりますけど。今回はちょいと難しそうな依頼なんでもうちょい積み上げて貰えると嬉しいッスけどねえ……」飛鳥田は顎を指で擦りながら、邪な希望を仄めかして公森に伝えた。

「おい、勝手に……」礼門堂が制止しようとしたが、既に彼女は会話の蚊帳の外にあった。公森はそれを無視して、不敵に笑みを浮かべ、言った。

「そうね、なら……五百万でどうでしょう」

「は?」飛鳥田が気の抜けた声で聞き返す。礼門堂も思わず押し黙る。

「ですから、五百万。勿論これは前金として。もし捜し当てて頂けたら、成功報酬としてさらに倍は払っても構わないわ」公森が落ち着いた、しかしはっきりとした声で伝えた。「いかがでしょう?」

 飛鳥田は言葉に詰まって、手持ちのカップの中身を見た。そこに溜まっていたコーヒーは既に飛鳥田の胃の中だ。吹き出す為の分は残しておくべきだったと馬鹿馬鹿しいことを少し考えたが、間もなく公森詢の言葉を理解する。

「了解ッス、引き受けましょう」

「おい」

 礼門堂が口を挟んだが、しかし飛鳥田は舞い上がった様子で、聞く耳を持たない。

「じゃあ契約書と説明書、後は調査への確認同意書を……」

 飛鳥田はデスク上のレターケースから何枚かの書類を取り出そうと手を伸ばしたが、その腕を礼門堂探偵が掴んだ。

「待て飛鳥田。私はまだ了承した訳じゃない」礼門堂が小声で、しかし語気を強めて飛鳥田を制止しようとする。

「それまた何で」飛鳥田が礼門堂の方へ顔を向けた。

「何でも何も……権限は私にある。お前が勝手に決めるな」

「いいじゃないッスか。久しぶりの依頼ッスよ……しかもこんなおいしい話、二度とないかも知れませんし」

「だからだよ……こんな話が場末の探偵ごときに舞い込む訳がないだろう」

「卑屈ッスねえ」飛鳥田がへらへらと笑う。「いいッスか、この際何で公森の御令嬢がうちへ来たのかとか、そもそもこの探偵社をどこから知ったのかとか、そういうことは一切忘れましょう……それこそまさにおいしい話ッスからね。余計な勘ぐりはしない方が吉ッス」

「それで余計な問題に巻き込まれることは御免なんだ。疑って損はない」

「損がないのはさっさと依頼を引き受けることでしょう。どの道前金は貰える訳ッスからね……厄介事に巻き込まれそうなら、さっさと捜索を打ち切っちゃえばいいんじゃないッスか」

「それはきちんとして頂きたいけれど」唐突に公森が後ろから釘を差すように言った。

「……聞こえてました?」おそるおそる飛鳥田が振り返る。

「ええ、とても良く。……構いませんよ、ご納得頂けるまで説明しても。私は貴女に引き受けて頂きたいのですから」

 公森詢が礼門堂を見て、不敵に微笑む。それはあらゆる手段を講じて依頼を受諾させようとする意思を示していた。何故彼女がこの探偵社に執着するのか、分からない。そしてその解答をも公森詢も準備しているのだろう、と礼門堂は察知した。それから、果たしてその真偽を見破る力はあるのか、と自身に問いかける。

「……依頼人の前で話すことではなかったね」礼門堂探偵は溜息を吐く。根負けというよりは、彼女の中で一つ見切りをつけたような短い溜息だった。そしてようやく、飛鳥田の腕から手を離した。

「……分かったよ。依頼は引き受けよう」


「あら」公森が意外そうな声を上げた。「以外と早く折れましたのね」

「私だって何が何でも断りたい訳じゃないんだ。猜疑心が強いことは認めるが」

「では、信用して頂けたとみてよろしいかしら?」

「どうかな」礼門堂探偵はレターケースを開けていくつか書類を取り出し、それを公森に渡す。「もう少し確証が欲しいところだが。余計な詮索は、本当は趣味じゃないんだ」

「良い心がけね」公森がその紙束を受け取る。「強い警戒心をみせることは、機会を失うことにも繋がりますから」

「ものにもよるさ。時にその警戒心が功を奏することもある」礼門堂が冷やかに笑った。「貴女がその類でないことを祈るよ……依頼はきちんとこなす。ただその恋人が、貴女に会うことができないと判断した場合、私たちは強要することができないし、居場所を伝えることもできない。それは承知してもらいたい」

「構いません。けれどその場合、成功報酬は諦めてもらうしかないわ。私の願いは彼と再び会って、話をすることですもの……よろしいかしら?」

 人差し指の側面を当てて、礼門堂は少し考える仕草をする。そして静かに、話し始めた。

「その事なんだが……」



「結局依頼料は普段通りッスか、勿体無い」 飛鳥田は大袈裟に肩を竦めてみせた。

「相応の金額は入るさ、それで充分だろう」契約書類を手にとって、礼門堂探偵は内容を確認している。

 公森詢は既に探偵社を後にしていた。南側の窓に、薄雲から抜け出した陽光が差し、フローリングの微かな陽だまりを作っている。丸テーブルの上にはコーヒーカップが二つ。一つは空っぽで、もう一方は手の付けられてないままである。飛鳥田が椅子にどっかりと座ると、ぬるくなったコーヒーの湖面が振動で僅かに揺れた。

「まあ、それでも結構な額ッスからねえ……現状の我々にはありがたいッスけど。けれど、実際どう思います?」

「何が」

「依頼内容ッスよ。失踪した秘密の恋人に、突然送られてきた謎の写真。事件の匂いがしないこともないッスけど……ねえ?」

「何だよ」

「このくらい公森のお嬢様なら自力でなんとかしそうなもんだと、ちょっと思っただけッス。警察に言わずともこんな街外れの探偵に頼むような選択肢はそうそう選ばないでしょう」

 礼門堂は書類をまとめ、その紙束で礼門堂の頭を叩いた。座っていれば、身長差のある飛鳥田の頭にも手が届く。

「お前がそれを言うか? 勝手に依頼を受けようとしたのはお前だぞ?」礼門堂が珍しく声を荒げた。

「いやいや、確かにそうッスけど。まああの時は、多少の怪しさよりも金を優先しての判断というか」飛鳥田が取り繕うように説明する。

「その考えは後々命取りになるからな……警告しておくよ」

 叩いた書類に歪みがないことを確認して、礼門堂は東側の壁にある、アール・デコ調の大きな収納まで移動する。そして観音開きの扉を一つずつ外側へ引っ張り、開け放した。

「俺が言うのも何ッスけど、じゃあ何で今回は依頼を引き受けたんです? 命取りになることもあるんでしょ?」飛鳥田が背もたれに腕をかけて、礼門堂に問いかける。

「……相手がそうそう折れそうになかったこともある。理由は分からないが、是が非でも我々に依頼を受けて貰いたい、そんな意思を感じた。それならば、万が一にも使い捨ての駒のような役割になることもないだろう。私が余程依頼人に恨まれていなければの話だけど」礼門堂が飛鳥田の方へ振り返る。「それに、今回はそれほど危険な目に会うことはないと思うよ……これは、勘だけどね。ただ、非常に厄介な依頼である可能性は充分にある」

「……何かもう、分かってるんッスか」飛鳥田が神妙な声で聞いた。

「まだ可能性でしかないさ……ともかく、調査を始めることにしよう。出掛ける準備をしていてくれ」


 礼門堂探偵は収納の中へと入っていった。視線の先は暗く、何も見えない。しかし収納の外見よりも奥へ深く続いていることが分かる。彼女はいつものように突き当たりまで進んだ。それからゆっくりと左に身体を向け、左手の指で壁をなぞってスイッチを探す。凹凸のある壁紙からプラスチックの冷たい感触へと変わるのを指先で感じると、その中央にある斜めに突き出たそれを押し込んだ。蛍光灯が何度か点滅したが、やがて青白い光が安定して辺りを照らした。

 収納の奥にある空間は、資料庫になっていた。入口の扉から見て左手に広がっていて、両側の壁には巨大な本棚が奥まで連なっている。そこには礼門堂探偵社がこれまで扱ってきた依頼を整理したファイルや、仕事に用いた資料、それから収集した探偵小説などが所狭しと並べられている。そして一番奥には、大型のディスプレイに繋がれたデスクトップパソコンが鎮座していた。室内は一年を通してひんやりとした空気が流れており、紙やインクの匂いがそこに充満していた。

 礼門堂はファイルの並べられた本棚の前へ向かう。先程の契約書類を最新のファイルにしまう為だ。しかしそれは比較的上の棚に並べられていたので、礼門堂の背丈では届かない。仕方なく彼女は近くにあったステップ台を移動させ、それに乗って最近の年月が記入されたファイルを取る。ファイルに書類をしまったら、すぐにそれを元の場所へ戻した。そして台から降りようとしたが、少し考えて、先程のものとは異なる、過去のファイルの一つを手にとった。それは彼女が飛鳥田と知り合う以前のものである。中のページをいくつかめくり、そしてある調査報告書が現れたところで手をとめた。

「“現実”に取り憑かれてなければいいんだが」礼門堂探偵は小さく、呟いた。

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《仮構探偵》―The Operative in the Virtual City― 《仮構探偵》礼門堂探偵社 @operativeraymondo

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