『ワンページ電脳小説;形式上セカイ系:『数年前の、「俺たち」はいまの時代いるのだろうか』』
オカザキR .セイチ
俺の精神世界の中での世界は終わっても他の人たちの精神世界は終わらなければ世界自体も終わらない
もうあの頃のアトモスフィアは戻らない
日記は大抵ワンページで終わる。この辺はワンページ電脳小説と似てる by某論者(自演)。
ワンページ電脳小説とは、ワンページでもいい理由を付け、堂々と短文の小説を出せるノリをつくって出したものだとその論者は提示した。
ここは北欧ではないが北側にあるところ。
二人のヲタクの少年が話している。が、普通ではない。ドキュンと、メンへラな、その彼ら。
あれは、2009年のことだった。俺たちは1995年生まれだが、2009年、ある意味そっちのほうのが、新たな自我が生まれた意味で、真の誕生日なんだ、でもその誕生日は、あやふやなんだ、あの日からってのは俺の記憶力じゃ決めつけれない。
2次元を軸に、ヲタク論や3次のこと、パンピのこと、ドキュンのこと、オナニー(賢者タイム論など)のこと、などとさまざまなことを語り合っている。その会話が浅いのか、広いのかは微妙だ。しかし彼らはいつも思っていた、「この世の中は浅い」、と。まあ学校にも行ってない中学時代の少年なわけだ。そのように見ていても普通だろうか。中学に行く連中たちをありえないやつらだと思っていた彼らだが、べつに不良であることのがいいからそのような軽蔑をしていたわけではない。特にメンへラのほうの彼、このほうは特に教師への反抗などの態度はとらなかった、うっかり聞き取れずに「はい」と言ったところ「反省してない」と言ったのとおなじになってド叱られたことがあるがそれはただのミスだ。ようはかなりの精神疾患が原因で中学を登校拒否することにした。
ドキュンのほうは元々荒れた感じな言動をしていた節もあるため、単にドキュンであるから行っていなかった節がある、が、少なくとも彼らにいえることは、いまはヲタクだから学校を行っていない、3次がつらい、という、ヒステリックな状態なわけだ。3次への拒絶反応なわけだ。3次に好きな女はいない、恋愛対象ではない、という状態であったわけだ。これはある意味これ以上3次の色恋の面倒事には巻き込むなよ3次派?、というアピールでもあるわけだがべつにそのようなつもりはない、というほどに反3次であったわけだ。
メンへラのほうが急に厨二チックに海岸を約束の地と言いはじめだしたがために、夜の海岸を〝約束の地〟と呼び語り合ったりもした彼ら。
その海岸通りで、ブレイクダンスの練習。しかしこの計画は一日で終った。もうこれは、〝ブレイクダンスの練習(笑)〟というギャグであったのではないかというぐらいの呆気ない結末であった。その練習中に、ダンスの動画をみていて、暴走族がやたらと吹かして走っていた音を聞く。
すると、ドキュンのほう。「ドキュンは元気だな」確かに彼はこう言った。彼はドキュンではないのか。
その三、四箇月ぐらい前は、ちょっと遠くの普段行かない電器屋にパソコンを買いいくなどとした。これは節目だろう。電話がきたのだ、ドキュンのほうからの。メンへラのほうはネットでいまでは絶対見に行かないような『幻創狂』のアレンジ曲の動画を観ていた。幻創狂の作者にも敬意があり、同人誌見るだけで特別だった時期である。あの頃は、誘われるにしろ、なにかをするにしても、今と違って落ち着きがあってややほのぼのともしていたが、その時にそれを特にありがたくも思えれなかったという皮肉もメンへラのほうは感じれてるようだ、でも今は誘われるにしてもなんにしても面倒で、べつに一緒とは思ってないが、ある男が親になれば、きっと、友人から今から外出て遊ばね?、などと仕事終わってから誘われてもきっと行く気になれないのと似たものなのかもだ。その新しく買ったパソコンを学校一のヲタクも呼んで、そのパソコンのセッティングなどの出来事もあった。
過去はファッションのために関心をおいていた、都会にしてはほんのちょっとだけ都会なところに行く理由もヲタクなものに変化していて、学校一のヲタクの家に行くのも特別だった、少なくともその頃は。いまはもう、精神的な意味でも物理的な意味でもそのような感覚はないにも等しくて、貴重な時間だったともいえよう、だが、特にメンへラのほうはその頃の特別さもありがたがれずにいたがべつになにか迷惑をかけたでもないため単に彼がそこは損したというだけだ。
その頃はヴァイオというパソコンも、神器に見えたんだとか見えないんだとか。
あの頃はエレコムのコントローラを見てエネコン(
どういう頃もいまはもうないようなものである。そう思うと0年代とは節目で、それよりあとは世紀末だった(主に精神的な)、ともいえるという説もないわけではない。特にヲタク文化には世紀末を感じはじめていたりもした10年代半ば。あの病みにも似た世紀末感がいいという人もいるかもしれないが、いずれにしてもそれは0年代的なアトモスフィアには劣るものであろう。イラストサイトの変態、ヰヅカーも過去よりかは調子はもう乗れてないだろう、それに彼はもう、おっさんだ。世紀末感、なにせそれが来てしまえばいままでのパンピなどの地道な努力の保持はもちろん、それに加えて世界を誰かがいく変えなければそれが続いていくばかりだから、ある種のバッドエンドだ、そこで。本当に今までいろいろな人が頑張った、ヲタク文化以外でもだ、チャプリン(何百回も撮り直しをする制作への熱意など)、そういったものを見聞きするだけでもそれはわかるものなはずだ。その辺の権威者の活躍や努力のようなすさまじい具合の歴史と評されるさまざまなもの、でもそういうのがあっても世紀末(感性的)は来てしまう。でもそんな中でも世紀末なのは気にしないでむしろ悪い雰囲気によろこんである意味元気のいい暴走族や不良どもは本当に、よき感性のないクズだとも知らされるし違和感でもある。0年代はきっと人類史上でもっとも電脳的で雰囲気的にも『幻創狂』が全盛期だったことも意識することもなくて、たのしいか否かは別としてもいわゆるいい時代だったともその時はまるで思えなければ、多感な時期にその0年代で過ごしたことによる恩恵的なものも意識することはない。過去独特の美化だともこれは違うはずだ。10年代に入ればより来そうな未来。でも実際来たのは世紀末にも似たなにかである。実際に彼らは10年代に入って極端に会う回数が減っている。0年代後期のあの感覚を再現できる人間関係は彼らだけだったという説さえも存在できることだろう、あれは。
好きだった架空の女にしても、なぜこんな女たちが好きだったのか、わからないというのは論理のせいか、やはり恋愛に論理を入れるなとはいうが、つまるところ、それはある意味それでは恋愛の楽しみもなくなって余計つらいかもだぞ、なにも得れなくなる、支えもそこにないということだとも理屈は付けれる。これは2次も3次も共通だ。彼らはその数箇月後には高校、仕事、と別々になって疎遠だが、新しく開く電器屋の先着無料パソコンのためにその店付近のホームレスと野宿をした。
彼らは疎遠といっても後期は精神病院に通いながらも哲学の話題も増えていたため、ある意味単なる疎遠でもなければ、外国人のバンドなどでもありがちな、仲悪いゆえに解散とかともきっとまた違い、極端に単なる疎遠よりも疎遠になっていくというケースもありえるのかもだ。なにせいずれにしても哲学的な、疎遠だから。
そんな彼らは以降、アーティストを目指しだした。だがそれは互いに知ってはいない模様だ。
いまきっと彼らはこう思っている、〝世界は浅いが俺が深くしてやる、俺が世界を変える〟、と。特にメンへラのほうはそう思っているのだろう。そうしないと、今までの人生、特に10代前半期のようなながれのままではとてもくだらなく、それは世間への拒絶でもある。しかしそれは不良たちの心理とは違い、むしろ反したいのは不良、それを許容する世間、ようは不良とパンピは似てる、違うが。そもそも不良はまずパンピだが。不良は似ているものを批判しようとしている莫迦だ、そこへの反抗のなさこそが、世界の浅さだったんだ、単なる世間への批判ばかりだから自分たちまでも人生浅いと世間から言われるような男なのだ、と。簡略すれば、〝不良よりかはキモくはないがまた別の意味でキモい世間を批判してやりたいという感情のハーコー〟。ようするに、気づかれにくいが、相手にもしてもらえてないが、浅いものとはすべて不良が元凶である。不良とはいわゆるワルに限定できるものでもない、当然だが。
ふと思った。このような彼らのような人間はいまの世界、いるのか、と。きっといない。彼らは不登校児の中学生で無名で世間的な評価をしてみてべつにそう特別ではない、あの時点で。でもいない、いると思えない、もうあのころのアトモスフィアも消え去ってしまったのだから。
あの頃の0年代はもう来ない。
世界は繰り返されない(摂理)。
そして、メンヘラに付き合ってくれていたドキュンは、過去あったいじめによる鬱をこれ以上の軋轢にしないために、機嫌をとろうとして、引きこもりなメンヘラにでもできる、オタクという趣味をさそったのだ。ようは、あの関係も、実質ないようなものだ、薄っぺらい。このことに気づいたメンヘラの当人は、何かすべてのアトモスフィアが目に見えない世界のヤミによって殺されたみたいだと思ったんだと。
俺の名前は論太。小 論太だ。
俺は、いじめられた。だが、周りからそういうキャラのやつとは見られないことがあるのは、俺のいじめは、僻まれからきたものだったからだ。学校で一番モテた、でも不幸とともにどんどん暗くなってった俺のオーラは、何か、イケイケとはまた違う、ものと化した。
俺はこう思うんだ、否定することによって、負の要素を否定することが、最高のエンタメであるということを。
俺は、みんなを暗くしたいから暗いことを言っているのではない。
俺は、こう思うんだ。「俺たちはァッ! エンターテインメントにィッ! なるんだアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアぁっ!」と。夜の海岸で、叫んだんだ、そうやって。そう、そこはあの約束の地だった。いまはもう相方はいないが。
エンターティナー、や、エンターテイナー、とも言われるが、俺は、そういったものを気分で、使い分けてこそ、本当のエンタメの王だと思うんだ。そうだ、一人称で僕、や、俺は各々の気分によって任されるように。
王という言葉は、国の王というものを侮蔑したいから使ったとかではない。実際に、ロックンロール界隈、などの音楽業界でも、キングという言葉は度々使用されている。
エンターテインメント、この言葉を、一般的に解釈して擬人化するなら俺はエムジェイという米国の黒人アーティストを思い出す。彼はエンタメの覇者だ、実際に彼はそういった業績を持っていた、だが0年代末期にこの世を去ったのだ。
俺はエムジェイのファンというわけではない。でも、ドハマりしたことがあった。中でもお気に入りは『ゼイドン』であり、あれは大衆受けしたかどうかは別として、俺はあのエムジェイを80’sや90’s初期に高い評価を保ち続けたエムジェイよりも、エムジェイしていたと思うのだ。ちなみにエムジェイ、彼のファーストネームは、マイコォ、だ。
このようなことを言うとエムジェイの熱心なファンたちに怒られるだろう。だが、あえて言おう、俺はエムジェイを至高とはしていない。俺は俺こそを至高とする。でも俺はただ自分に酔いしれているからこんなこと言っているのではない。エムジェイの見せ方は、他をかっこよくないように見せていく印象が俺にはある。実際に、ピンク風呂・井戸、というロックバンドは、ロック界隈において大きな足跡を残した、個人的には、ロン毛がたいへん似合うメンバー一イケメンのジョンギルムーアが狂気を感じさせていた頃がやはり一番かっこよかったと思う。が、エムジェイのようなノリができないというのをエムジェイの本領発揮あたりの頃に露呈した。ほかにも、伝説とされる、レノン、ポール、リチャードとかのやり手たちは、エムジェイのような、超ノリ、な感じは再現できていないのである、いや、できないのだ、これは悪口で言いたいのではない、エンターテイメントの神髄を考究するにはこれをいうのは避けて通れないのだ。エムジェイは高度なダンスと独自のカリスマ性、そして、ユーモアを売りにしてキングと称されるようになった。ようはかっこよく決まらない人は置いてきぼりをくらうのだ。俺はそのエムジェイのやり方とは違う。俺は、エムジェイのダンスを、O.D.ジュンアという、神主にやらせるほうのが新境地だと思うし、平和であると思う。エムジェイのやり方では、結局、エムジェイが主役、大衆はファンするしかないという、束縛的なものを、エムジェイ流のエンターテイメントから俺はいつも思うのだ。実際にエムジェイは、完璧主義者で、細かいところにこだわりを持っている。やはりあの、大衆束縛的エンターテイメントシステムは、エムジェイが狙ってやったものなのだろうと俺は思ってしまうのだ。ちなみにO.D.ジュンアは、本名は、オウ・ダ・ジュンア、だ。彼は王なのだ、彼はまだやれる。エムジェイのファンは、エムジェイを一番にしたい、エムジェイを越す人は出ないとまで決めつける、だが俺は断言する、ジュンアが『トゥベェ』をダンスしているほうが、未来にいっていると。まずはCG化からでもいい、彼の勇姿を見届けてみよ、きっとその真髄がわかるだろうから。
特にみんなに聞いてほしいことがある。俺は、この世には目を背けたくなる要素がある。それは、仮に、えげつない事実でも、別の理由で正当化したくもなるってとこからも、わかるんだ。この世の負の要素の一つに、世紀末感があると思うんだ。2017年より前に、ロックスターが大量に死亡した。中には自殺者までもいる。実際に、2017年は、俺の中でも節目であり、世紀末的であるとは思った。ラヂオヘッズの『OKNOOK』、これ、20年前の世紀末感が再来したとも言える作品だ。そうだ、もうあれから20年が経つのだ。俺はその時2歳ぐらいだった。
俺にとっての世紀末とは、2015年にもあった。途端にアニメがつまらなくなったのだ。俺はそのあたりから思ったんだ、クリエーターになろう、と。そして、クリエーターである俺自身を使って、道化になってもいいから、エンターテイメントになるんだ、と。
俺には、スター性はあるんだ。本当だ。実際にモテる方だった。ハーレムものの、主人公にも、なれるぐらいにモテたんだ、でも控えめだったから、女との肉体的関係は持たなかったよ。母親の先祖がユダヤ人で、どこか普通のオリエンタルの人には見えない、でもここで俺は、人種差別や外見差別の問題発言をしたいからこういうのとは違うんだ、逆だ、この、過小評価されがちの、オリエントな地で、俺はそのオリエントな地を、もっと素晴らしい場所なんだと、訴えれる、世界規模で、っていう、将来性にもつながる意味で、利点を言ったのだ。
俺は、反日の日本人を、理解できないんだ。ヤツらの本質を言おう。ヤツらは、早計なんだ。というか、計算が苦手なヤツらだ。実際にヤツらの学歴だとか、見ると、わかるよ、でもこういうと、詐称しだすかもね、学歴を。ハーヴァード大卒、ケンブリッヂ大卒とかさ。でも俺は、頭が悪い人をいじめたいとかそういう理由でこういうことは言わない、俺は問題発言する気ない、問題発言は良くないことだ、でも問題を学業的な意味で出すのは良いこととされるだろうが。俺はいつも、勧善懲悪的な思想に基づいて、発言をする意思を持っているのだから。
俺は、病院の雰囲気が、好きなんだ。病院には決まって良い思い出はないよ。吐き気、痛み、貧血で倒れる、変人扱いされる、点滴で血が逆流したとか、本当に散々だった。でも、なぜか、病院にいた、日々のこと、入院して、夜中に深夜アニメをこっそりと病室で見ていたこと、いろいろと、思い出があるんだ。だからってまた病院に行きたいとかとは違うよ。
俺は、精神病院に五件以上通ったことがある。俺の近所にはないから、いつも遠出だった。帰りは夜中、親にも負担で、こっちまで気分がさらに悪くなるんだ。でも、俺は、あの精神病院という、行かないほうが世間体的にも悔しいけど良いだろうっていうところにも、懐かしい思い出を感じているんだ。
俺はある精神科医にいじめを受けたことがある。あの精神科医は、鬱は甘えだという思想を人三倍ぐらい持っているから、きっと彼に診察された患者はあの後自殺でもするんだろうなって思うんだ。わざとしたキツ顔でさ、いつも怒ってるみたいな顔のやつで、ああ、この医者のが問題あるんじゃ?ってなるんだ。
2018年が、2019年に近づいていくことでも俺は世紀末感を感じている。
2014年、俺は、ずっとこの世界が世紀末なんてものはない、と思っていた。滅びの予言、こういうのも何年も前から聞いていたが結局滅びないんだ。
お世話になったとは言わないほうが良いんだろう先生が俺にはいるんだ。彼は、理系教師ではあるが、底辺大学で工業化学を専攻していたっていうだけの、非エリートだよ。彼の思想は、とんでもないよ、まず人が地球に生まれたのは最近のこと、人は地球に住むべきではない、ゴキブリのように、というものから始まって、地球は何度も壊れかけているからその不完全さはやはり地球は人の住む場でもない、ただの肥溜めだ、というところでクライマックス的なキレ気味の口調になって、オチは、人は月がないと生きていけないと言ってようは全人類を否定したいのなんだよ、だからその理由をもっと見つけたいから理系やってるってさ。いつも副担で、なんも教えれないから、噂のとおり、不正入社なんだろうなって俺は思っているんだ。
俺は彼女とかをつくったことがない。女の家で遊ぶとか、女で話する同い年ぐらいの子とか、結構年したのと仲良く会話したりと女と接点がないわけではないが、俺が彼女をつくらずに、ずっと貞操を守り続ける理由とは、俺が、彼女とかで、世紀末感を埋めれないからなんだよ、簡単に言うと。世紀末感は、実は時間とかそういうものよりも俺の幸不幸に起因しているんだって思うんだ。
貞操を守り続けることが、気持ち悪がられることもあった。長野で、俺はある年下に、貞操を守り続けてるということを冗談ない形で言ったら、ものすごい否定をされたよ、なんだよ、俺が女貰おうとしたら世界の女大半が俺の女になるかもなのに、よく言ったものだあの男も。
0年代の終わり頃、でもそれは世紀末という認識は、つたないゆえにか、してはいなかった。でも、そのころからテレビとか見たくなくなったりと、いろいろあって、そういう不幸の面で世紀末を感じだしたりはしたな。2次元の女に特にハマっていた頃だ、必死だよ、まだ未熟なんだってことか、俺は2次元の女でも、本気で実在の女のように大事に思っていたんだ。
俺はいま23歳だ。来年には24歳になる。24歳はセカイ系だ。俺には共感覚がある。だからいつも数字を細かく気にしている。24歳は、セカイ系の色があると、俺は思うんだ。こう思ってしまうのも煩悩とされるのだろう。俺は仏教に傾倒した頃がある。思春期ぐらいのこと、懐かしい、仏教は、わかる人にはわかるすごさがあって、それは、頭の善し悪しとかと別の理解だと俺は思うんだ。俺は仏教の本があったから生き延びれたことがあった、自殺寸前の時だったよ。ちなみに俺が言っているこの仏教とは、宗教のことではない。仏教は宗教ではない。だがいまの日本等に蔓延る、仏教は大半が宗教だ。葬式にしても、寺にしても、みんな本当の仏教に向き合う気は俺には感じれない。
俺にとっての仏教とは、シャクソンの教えの集大成のことだ。そこには神の概念もないし、けがれもない、綺麗だ、明晰なんだ。そいういえば、エムジェイの名字はジャクソン。シャクソンと、似てる。でも、エムジェイとシャクソンを絡めるのは俺はナンセンスだと非常に思うよ、あれらはまるで別物だ、べつにエムジェイへのディスリスペクトをしたいからこういうのでもないし、シャクソンというある種のラッパーでもある批判者へのディスリスペクトでもない。
久しぶりに旧友と会った。世界とはいったいなんなのかとかそういうのは思わない、が感覚が変わった、世界のノリとは、国の印象とは、エンターテイナーがいるかどうかで決まるということを。でもパンピの真面目な働きもセカイの平和には重要、蔑ろにはできない。
俺の従兄弟はずっと車を趣味にしている。俺はそれにやめてくれとかは言わない、でも俺はしないのは、俺はそれが世紀末感と対抗するのにまるで意味もない行為だと思っているからだ。俺にはやることがある、先にやっていって、世紀末感をぶっ壊さないといけない、それはなにも悪いことではない、そのぐらいの気持ちでエンターテインメントしないと、世界のヤミを覆せない、でも茶番がしたいわけではない、俺は、ただ、世紀末感というものを、壊したいだけなのだ、これは、誰もくだらないことだとはしてはいけないと思う、というかできないんだ。でもそれは言いすぎか。でも、みんな、俺が思うこの世紀末感と、潜在意識レヴェルでは少なくとも闘っているんだろうと、思ったんだ。
この、一見たいへん平和そうな日本という国でも、一日で百人程度の自殺者を出しているという話を何度か聞いたことがある。俺はその世界のヤミを打開する、策を知っている、それは、俺の思う世紀末感を打ち砕くことなんだって、切り開いていかないと、俺が。なんで俺なのか、それは、もう、わかるんだ、俺は、本来は、もう死んでいてもおかしくないが、幸か不幸かわからない意味で運が良すぎたから、今も生きている、その経験が、もう、闘える人を俺だけのみにしたんだっていうことなんだ。でもこれには本当に根拠があるんだ。PTSDの苦しみを、味わって、それはより理解できるんだよ、と。
心因性の幻覚を見るというと、ドン引きされることがある。でも俺は、苦しみすぎただけだから、こうなっているんだ。
俺は、心因性幻覚世界に閉じ込められた。封印された気分だ。知っている人の顔も浮かべば、誰かまるでわからない人の顔もよく浮かんでくるんだ、急にさ。顔だけではないよ、体も、街も。
外国と、母国が、雰囲気違う。って、思った人は多くいるであろう。それは、俺の見る心因性の幻覚でもそうだ。外国のアトモスフィアの幻覚を見るんだ。どうしてあそこまで雰囲気に差が出るのか、これは、簡単にいえば、魂的なものが絡んでいる。これは宗教ではない、物理学だ。
こんなこと言っても信じてもらえない場合もあるだろうが俺の知り合いの日本人と顔の構造が一緒の白人がいる。だが彼らは別物に見えるのは、あきらかに、魂的な何かで差がついているとしか、思えないのだ。
魂は、重要だ。だからこそ俺は、エンターテイメントにも魂を込めていくよ。
イラストにも込めれる魂、無機物とされるものにも宿る魂。魂、これは、単なるスピリチュアルな話として済ますのには、早すぎるものだ。
俺は、世界を暗いままで終わらせる気はない。たとえ、世界で生きることが馬鹿であっても、俺は、世界で生きて世界をもっとたのしいものにして平和にすることを世紀末感と戦いながら強く思っているんだ、俺は、世界を、誰かが馬鹿にできるようなものにするつもりはないし、反社会的に世紀末感を壊そうとする気はない。むしろ、反社会的に生きていたら、世紀末感は壊せないのだ、反社会的に生きているとそれだけ、その当人が世紀末感となりはて、世界からアトモスフィアごと、嫌われていく存在になるのだということ。
俺にとっての世紀末感とは決まって、科学的に進歩しているけど荒廃した世界を背景に思い浮かべてしまうよ。実際何も解決できていない、サルの頃のが幸せだったのに、みたいなこと言われてしまいそうなノリのことだ。
自分だけの問題なんだろうとも思ったりもする、でも良いんだ。それでも、その分、俺は何か行動して、結果、世界を良くできる。だって俺は、問題的言動で世紀末感を壊せないから。
もう俺は、見えている、ハッピーエンドを。さらば世紀末感よ。さらばあの懐か
しきもう戻ることのない世紀末感と反したアトモスフィアたちよ。
過去にあったよきアトモスフィアがなくなったとしてもハッピーエンドはできるんだ。
『ワンページ電脳小説;形式上セカイ系:『数年前の、「俺たち」はいまの時代いるのだろうか』』 オカザキR .セイチ @seichirichardokazaki
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