33−2 父と暮らせば、そして母のこと②
幸一郎とババアは夜道を歩いていた。足取りが心許なかった。
「幸一郎さん。今回のことが落ち着いたら、この集落すべて売っぱらっちまいな」
ババアがいった。この若造が、耐えきることができるだろうか。ババアは賭けた。
「ここはもう終わりだ。朝がきたらもう全部終わる。秋幸さんもいなくなる」
「なにいってんだよ、親父はもう……」
「いるよ、まだ」
奇妙なことばかりだ。死んだ父親が、まだ、いる?
「かといって、もう秋幸さんは秋幸さんじゃないけどね。ただの思念だよ。あの人のやり遂げたいことが剥き出しになっている、ただの欲望。朝になれば消えちまうだろうけどね。あんたの親父さん、相当なもんだね。やり残したことに対する執念が半端ない。これからいうことは冗談だと思ってくれてもいい。あんたに任せる。あんたは跡取りなんだからね。あんたの母さんがこの村に流れ着いたとき、すでにあんたはお腹のなかに、いた」
ババアは幸一郎を見据えた。この若者が、乗り越えられるのか。わからなかった。どちらにしても、これからの存在理由を、自身で見つけなくてはならなくなるだろう。
「あの女……、いやあんたの母さんに対しての秋幸さんの執念はすさまじかったね。ただし妊婦だったんだ。狂い咲きが始まった。でもね、手をつけたのは女中だった川村さんだけだよ」
そう、あのときの秋幸は凄まじかった。年甲斐もなく、女を求めた。
ババアはあのときのことをよく覚えている。女がふらりと田島にやってきたときのことだ。着ていたトレンチコートは泥だらけだった。顔や髪を整える気力もなかったのだろう。汚れていた。なにより、裸足だった。女がババアに滝の場所を訊ねた。ババアは教えてやった。自ら死を選ぶことを、止める気はなかった。なぜここにくるに至ったのかを訊ねなかった。道は千差万別であっても、出口をここに求めるのならば、訊いてもムダだ。女は白州に保護され、しばらく田島で暮らした。そして秋幸が、見染めた。秋幸は女を屋敷に迎え入れた。これまで女を愛することを知らなかった還暦を迎えようとしていた男に生まれた初めての情欲を止めることなどできる者がいるだろうか?
「うん……」
混乱を収めようと、幸一郎は返事をする。しかし、ババアは幸一郎をもっと混乱の渦の奥底へ追い詰める。
「幸次の母親がなにをとち狂ったのか自分も手をつけられたといっていたけどね、わたしは信じなかった。まったく接点がないからね。田島を憎んでいるやつらが面白がっただけだ。おかげで幸次が歪んだ。とにかく、あんたが生まれた。そしてそのままあんたの母さんは死んだ、ということになっているけど、生きている」
自分の母親が、生きている?
幸一郎は、母の顔を見たことがない。物心をついたときには母はすでにいなかった。皆が、死んだ、といっていた。時折幸一郎は母のことを考えた。自分を産んだ女とはどんな人だったのだろうか。自分をこの世に存在させてくれた人。父とはまた別の、とても具体的な、そして絶対の存在。
女が去っていくときも、ババアは見ていた。止めなかった。女にとって田島は通過点でしかなかったし、これから先の人生の厄介となる幸一郎を棄てる場所、でしかなかったのだろう。
秋幸は取り乱し、半狂乱となった。しかし幸一郎を離そうとしなかった。乳を求め、糞を漏らし不愉快を訴え泣く幸一郎を、離さなかった。
「わたしにはわかる。トーキョーにいる。しっかりしてよ、幸一郎さん。あんたはもう大人だ。のみこめるはずだ」
ババアの言葉に息を呑む。自分はもう、大人だった。だが、いまもまだ母がトーキョーで生きていると思うと、なにかが込み上げてくる。自分の幼さとかつて感じていた、母を求める気持ちの混在したなにか。
「はい」
しかし、いま目の前で起こっていることを解決することのほうが、先だった。そうか。大人っていうのは、こういうことなのか。父を失ったとき以上に、幸一郎にのしかかるもの。それを、受け入れること。
「まわりはどうこういってたけどさ、あの人は立派だった。ここを守ろうとした。あんたのことだって秋幸さんは大事に育てたじゃないか。それはわかってるね?」
「はい」
わかっている。よくわかっている。人々は秋幸を畏れていた。しかし、幸一郎は傍で、父を見てきた。
秋幸は、いつだって言葉は少なかった。仏頂面だった。あの人と血が繋がっていないとしても、秋幸に対しての感情は、いまもなお、「父」だった。
「幸三を実の子と認めなかったのは、美和さん……幸三の母親が拒んだんだからだよ」
「……はい」
返事を、せめてしなくては。だが、口からでた言葉に、納得はなかった。
「秋幸さんの本当の子供は、……幸三くんだよ。あんたたちには二つの道がある。二人で手を合わせてこの場所を守っていくか、あるいはすべてを終わりにするか。わたしはね、申し訳ないけど、終わらせるのを推奨するね」
幸一郎は、答えることができなかった。
「あんたらに任せる。わたしは田島の家に従う」
ババアはいった。幸一郎は、理解しようと努め、そして納得しようと試み、木偶の坊のように突っ立ってしまっていた。
「あんたは跡取りなんだ。しゃんとしな」
ババアは幸一郎の腰を叩く。
もしこれが物語ならば、なんとできそこないの貴種流離譚であろうか。だが、どれだけ歪であろうと、わたしたちは突き進むしかない。死者は無念のまま消失していく。生者はただ翻弄され続ける。人生とは。ババアは永遠に生き続けてきた自分を思う。そう、彼らは「死ぬ」ことができる。しかし自分は、「見続ける」ことしか、もうできそうもない。
まもなく、ババアの店にたどり着く。幸次はもういない。
救急車のサイレンの音が遠くで聞こえた気がした。
「なんだ?」
幸一郎がいった。
「さあね」
ババアの耳の奥でけたたまい犬の声が聞こえ続けている。
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