34 存在の耐えられないウザさ
二人はババアの店に入った。もちろん幸次はいない。前田の家にいき、そしてどこにいってしまったのか。皆に幸次が起こした殺人はばれてしまった。探さなくては。
店の奥から、唸り声が聞こえてきた。
「なんだ?」
幸一郎はそういいながらも、一歩、退いた。ババアは声のほうを見たまま、微動だにしない。
「まさか……」
「ババア?」
「幸一郎さん、店から出な」
とババアが幸一郎の前に腕を出したときだった。
べと、
べと、
べと、
と、なにかが這ってきた。
ババアは舌打ちした。まさか、こんなことに……。自分がいれば必要ない、と店に札を貼っていなかったのが悪かった。這い出てきたのは、アロハシャツを着ている、身体中血だらけの、巨大な犬だった。いや、犬ではない。これは人間なのか? 全身が毛で覆われている。まるで絵本や古いホラー映画に出てくる狼男ではないか。
こんなもの、初めて見た。幸一郎はおぞましさの前に、目を閉じることができない。あまりにも恐ろしすぎて、見ずにはいられない。
「おセえヨ……」
その奇妙な者は顔をあげた。顔中が毛に覆われていた。目には恨みと怒りがあった。そして舌を出しながら、喘ぎ続けている。声に覚えがある。
「まさか」
幸一郎はその名を告げるべきか迷った。
「ああ、そうだよ。夏秋だよ」
ババアはいった。
夏秋? なぜこんな姿になっているんだ。葬式のときは、いつもと変わらなかった。この、頭から血を滴らせている化け物が……。
「こうジのヤろう、ユるサねエ……。オれがシぬわケネえダろうガ。ふフふ……ハはハ……。かネをテにイれルまでハぜっテえシなねエ……ざケんじャねエよ……シんデたマるか……」
幸一郎たちのほうまで獣の臭いが立ち上ってくる。ぐるる……と唸り声をあげている夏秋を、二人は見ていることしかできなかった。
「たいしたもんだねえ」
ババアはいった。
「いまここに漂っている秋幸さんの気にあたって、獣になってまで生きようとしている。いや、金への執着心がそうさせたってことかい」
「ほんとうに、夏秋さんなのか?」
幸一郎の問いに、ババアは頷く。
「ああ。田島の血がそうさせている。こいつ、遠縁でさほど濃くもないっていうのに。見直した。笑っちまうよ」
ババアは笑わなかった。人間とのあいのこなんて、たいして力もない。たかをくくっていた。血のかけらがわずかにでも残っている者は、この田島の空気にあたって、こんな風になってしまうのか。
「たいしたもんだねえ、その根性」
ババアは変わり果てた夏秋に近づいていった。
「ぜンいンぶッコろシてヤる……。こうジも、オまエも、オまエらぜンいン、ぶッコろシてヤる……」
夏秋の片目が、どろりと溢れた。こいつは放っておいてもかまわないだろう。もう肉体を維持できないらしい。急速に腐り出し、骨しか残らないだろう。
「あんたが一番、田島一家の血を濃くひいているのかもしれないねえ」
ババアはいった。これまで、こんなことにはならなかった。そして、いままで一度も自分はしなかったことを、ババアはしようとしていた。
ババアは夏秋を思い切り蹴りつけた。夏秋は叫び、口から気味の悪い汁を垂らす。
「わたしはね、あんたみたいなやつ、嫌いじゃないよ。でもね、そばで騒がられると、ウゼえ」
喉のあたりをババアは踏み潰した。
「ババア……なにが起きてんだよ、いったいなにが」
「だからいったろう? 秋幸さんの情念が、このあたりをおかしくさせてるんだ」
足元にはまだ夏秋の心臓が脈打っている。まったく、どうかしてる。こうならないように、見守ってきたっていうのに!
こめかみに、つん、と刺す痛みがあった。侵入者がいる。ここの者ではない。滝に、そいつは入り込もうとしている。なんだってこんなときに。奥歯が割れんばかりにババアは噛み締めた。
「幸一郎さん、あんたはいま、誰を守りたい? なにをしたい? 夏秋はゴミみたいな人間だが、一貫している。金が欲しいってね。その執着心は褒めてやってもいい。さあ、あんたはなにを守りたい?」
「俺は……」
こういちろうさん。
声がした。
こういちろうさん。こういちろうさん。こういちろうさん。こういちろうさん。
「なんだ……」
「もう一人、自分がなにをしたいのか、はっきりしているやつがいるみたいだね……」
ババアがため息をつく。
おにいちゃんを、たすけてください。
おねえさんを、たすけてあげてください。
たじまのむすこが、しにかけています。
幸一郎の頭の奥に声は語りかけてくる。
「なんだよこれ……」
「そりゃ、あんたの娘だろう」
ババアはいった。
「この声も、まもなく消える。いいかい、あんたの娘の頼みを聞いてやんな。秋幸さんは、最後、あんなになっちまったけど、正真正銘、あんたの親父だ。男の背中を見てきたろう。あんたも、自分の娘の願いを、叶えてやんな。その願いは、あんたの願いと同じだろ。声を頼りに、行きな!」
幸一郎は、あたりを見回す。しかし声の主はいない。自分の娘……。あの少女が、俺の娘……。
「田島の親分になっての、初仕事だ、行け」
ババアの言葉を最後まで聞かず、幸一郎は店を飛び出していった。
幸一郎を見送り、ババアは目を閉じた。未来が見えていた。ババアは、自分ができることを、するしかない、と思った。まずは、侵入者を消去しなくてはならない。
店には、夏秋しかいなかった。そして、バケモノの命の火は、まもなく燃え尽きた。
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