17−2 さよなら②
「そんなことないよ。わたし、ありがたかったよ。正直かなりヘヴィな状態だったし。幸一郎くん……、あなたが居場所をくれたこと、感謝しているよ」
そうだった。あの頃、よく人が死んだ。志村の祖母、幸三の母、白州、そして早紀の両親。死は突然にやってきては、生きてるものを翻弄した。
「ほんとに?」
この人の、「ほんとに?」はとてもかわいい。早紀は思う。結婚しないかといわれたとき、返事をすると、同じような顔して、同じように、いった。
当時、両親を失った早紀は、親戚の家に身を寄せた。田島からはずいぶん離れた場所だった。高校は中退してしまい、工場で働きながら、高卒の資格をとろうとしていた。たびたび、幸一郎は早紀のもとへやってきた。幸一郎は田島で起こったことを話した。それを早紀は頷きながら、聞いていた。もう戻るつもりのない場所の話は、少し厳しく、まるでミントキャンディのようだった。しかし、幸一郎だけが、早紀の存在を求めてくれた。それが生きるよすがでもあった。二十歳になったとき、幸一郎は結婚したい、といった。幸一郎はまだ大学生だった。うちにくればいい、といった。早紀は、田島の家に嫁入りすることによって起こるであろう苦しみを思い、ぞっとした。しかし、幸一郎のくそ真面目な顔に、委ねることにした。
「本当よ。むしろわたしこそ、北川景子とかでなくてごめん」
「なんで北川景子がでてくるんだよ」
幸一郎は首をかしげた。
「なんとなく。わたしは北川景子じゃないし、あなたは……ダイゴとかでもないし」
「ダイゴ好きだったっけ?」
「違うけど。トーキョーに住んでいないし、田舎のくせに、……田舎だから? ごちゃごちゃしてるし、そんなんだから、ドラマとか、華やかなふうにはいかないけどね。でもね、いいじゃない、それで」
そう、いいのだ。わたしたちは、お互いを求めた。結局、結実はしなかったけれど。
「なに自分勝手に納得してんだよ」
幸一郎は笑う。そう、この人の笑うとできる目尻のシワも好きだ。わたしは、幸一郎を愛している。初めてだった。早紀が、幸一郎への想いをきちんと言語化したのは。口にはださなかったけれど。田島の若様、同級生、幸次の親友であり兄弟、夫、そして幸三の兄弟、そして、田島の当主。幸一郎はどんどん立場を変えていった。早紀は、もうついていけない……こんなにも遠い人を、愛するなんて。
「なあ、カラオケしようか」
幸一郎がいった。
「なにいきなり」
「なんか、高校のとき、みんなでババアの店でさ、なあ、行こうか」
「わたしたちが陽気にカラオケしてたら、なにいわれるかわかんないよ」
「陰気な歌を歌えばいいじゃん」
「そういうんじゃないでしょ」
早紀はこんな、夫ののどかなところがとても好きだった。ああ、最後にわかってよかった。理解できてよかった。幸一郎、あなたのことを。
幸一郎が立ち上がった。
「ちょっとでてくる」
「うん」
早紀は幸一郎を見送り、
「さよなら」
といった。
ババアは草原にいた。強烈だった西日は追いやられ、夜があたりを満たし始めた。おかえりだ。ババアは空を見上げながら思った。風もない、無音のなか、ババアの脳髄の奥の奥で、声が聞こえてくる。失意、苦しみ、そして怒りに満ちた、犬の唸り声が、した。
そうかいそうかい、会えたんだねえ。でも、なにもできなかった。あんたが年をとったぶん、あの女だって、浅ましく生き延び衰えていった。頭のなかに、狭い木造アパートの一室が出現した。年をとった化粧の濃い女が窓枠に座り、タバコをふかしている。灰を外に落としている。ゴミ溜めみたいな部屋。万年床でいびきをかいているブリーフ一枚しか身につけていない男。ハエがあたりを飛んでいる。なにか腐っているんだろう。
それが現実だよ。あの女が求めていたものさ。そして、あんたは結局負けたんだ。わかっているだろう? わかりたくない? 『桜姫東文章』みたいにみじめだったんだねえ。昔の人間はいまと違って真実を抉るねえ。ふふ、とババアは笑った。鳴き声が次第に大きくなり、ババアの身体中を満たす。いいかい、いくら吠えたって、この声はわたしにしか聴くことができない。わたしが拒絶したら、もう誰にも届かない。あんたはわかっているはずだ。あんたがここの主人になったとき、きちんといったはずだ。あんたたちは神様のかわりなんだ。生きているあいだ、あんたはきちんとおつとめを果たした。先祖が契約したとおりにね。もう息子にあんたの力を譲らなくてはならない。犬の王さま。
大人しくなった。声は止んだ。そうだ、もう未練なんて捨てちまいな。このまま極楽に……。そのときだった。ババアは内側から冷気が染み出してくるのを感じた。
「わたしに刃向かうつもりかい」
夜の色に紛れて、黒いなにかが現れた。それは、形容できない禍々しさと邪悪な気配を纏っていた。それは黒い煙。まるで捏ねられているかのような動きを見せた。そして次第に犬の形をしだした。
「あんたは朝までの命だ。もう諦めな」
そうだ。「犬」でいる時間は短い。朝には溶けてしまう。ババアはその黒いものにいった。言葉が通じているのかいないのか、その黒は、次第に膨らみ、色が透けていく。
「その怒りを捨てな」
最後の力を振り絞り、思いを遂げようとしている!?
「秋幸さんっ!」
もう、黒いものは見えない。この田島の「おいしい空気」と同化した。そして、あたりから本物の犬たちの鳴き声が聞こえ出す。そんなにこの集落にいたのかと、不思議に思うほどだ。気配も感じる。田島の外からも、この空気に誘われ、えげつないものどもが近づいてくる。
ババアはため息をつく。もう、ここはおしまいか。
「いろんなもんが集まってきやがる……。ねえ、秋幸さん。もうここは終わりにしよう。役目はきっちり果たしたんだ。後悔なんて無駄だよ。あんたが欲しかったものは、もう手に入らない。その怒りを鎮めることができないほどに、あんたは未練たらたらなのか。無意味だよ。生きてるやつは生きてるだけで精一杯なんだよ。あの子たちをおかしくさせるなんて、親のすることじゃないよ。本当の親がすることじゃない」
誰にも言葉は伝わらない。別に構わなかった。そもそも、もう秋幸は存在しない。ただ、秋幸の情念だけがある。そしてそれは、確実に村の連中を狂わす。誰もが正気を失い、そして、理性が本能に負け出し始める。
ババアは項垂れる。誰も知らぬ間に、「世代交代」を行うつもりだったが、もう無理だ。力を封じる必要がある。つまり、この土地はもう聖地ではないっていうことだ。無念だった。かつて自身が愛した場所を、自ら滅ぼすことになるとは! 朝がきたら、もうなにもかもが終わっているだろう。だが、すべての者に朝なんて、ほんとうにきてくれるのだろうか?
王の息子を探さなくてはならない。秋幸に取り込まれる前に!
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