18 会いたかった

 ババアの店には、さやか一人だけだった。

 さやかはこれからどうすべきか、考える。自分がなぜここにいるのか、わからなかった。いつのまにかバスに乗っていた。そして、田島前、とアナウンスがあったとき、衝動的に降りてしまった。まだ自分はここにいる。しかし、どうすることもできない。自分でわかっていた。わたしはもう……。そのとき、店のドアが開いた。

「あれ」

 幸一郎だった。さやかは驚いてしまい、あ、としかいえなかった。

「ババアはいますか?」

 幸一郎がいった。

「出かけていきました」

「咲ちゃんは」

「……も出かけました」

 なんとか答えられた。

「きみ、初めて見るけど」

「さやかっていいます」

「そう……じゃ」

 幸一郎が店を出ようとする。

「幸一郎さん!」

 さやかは叫んだ。幸一郎は驚き、立ち止まる。

「なんで知ってるの、俺の名前」

 さやかはそう問われ、少ししてから、有名人だから、といった。幸一郎は頭を掻いた。

「殿様とかいわれてんのかな。もしくは能無しとでも」

「なにか、飲みませんか」

 さやかがいった。できるだけ、幸一郎と一緒にいたい。

「勝手なことするとあとでババアがうるさいよ……」

「わたし、明日の朝一番で帰るんで、わたしがしたってことにしていいですから」

「ひどいな」

 幸一郎は困った顔をしていた。でも、笑っている。

「だめですか」

「じゃあ、なんでもいいよ。俺が頼んだってババアにはいうから」

 さやかはカウンターの後ろにある適当な酒瓶をとった。水割りを作ったことがなくて、どのくらい薄めればいいのかわからなかった。

「ずいぶんサービスしてくれたねえ」

 幸一郎はいった。

 さやかは下を向いてしまった。いつまでも見ていたいのに、なんだか、うまく目を合わせられない。

「ラジオつけて」

 幸一郎がいった。ああ、うしろ、そこ、と幸一郎に指さされたほうにあったコンポの電源をつける。

『……なんとそれはツチノコでなくコブラだったんです! ……ってあのー、ペンネーム鉄拳兄貴さん、毎回ありがとうございます。なんですけど、ちょっと笑いどころがわかんないんですよねえ、これ。では次のお手紙です。ペンネーム、だんご長男さん。前田さんこんにちは。今日は僕の悩みを聞いてください。僕は好きな人がいます。たくさんいます。好きな女の子や家族、そして友達がいます。この街が大好きです。でも僕は、昔からなにをしたらいいのかわかりませんでした。家業を継ぐことが生まれたときから決まっていて、それに反抗するほどにやりたいこともなかったのです。みんな夢があってうらやましいです。兄弟の一人は東京で働きたい、やりたいことをしたいといって出て行きました。もう一人は、家のことをするのが好きだからといって、細々としたことをなんでもやってくれます。少し引っ込み事案ですが、頑張り屋です。僕だけがつまらないことで悩んでいます。自分が生きている意味が感じられないのです。好きな人がたくさんいるというのに、自分はなんてわがままなやつなんだろうって思います。そして、家業を継いだというのに、つとめを果たすことができないことが悲しくて悲しくてたまりません。勇気を……』

 さやかは聞いているうちに、なぜか苦しくなった。ラジオを消した。

「なんで消したの?」

「なんか悩み相談聞いてたら辛くなってきちゃって……」

「つけて」

「……聞きたいんですか?」

「この手紙、俺が書いたやつだから」

 さやかはラジオをつけず、テーブルに置かれている幸一郎の手を掴んだ。暖かかった。それは、さやかの人生のなかで、一番熱い手だった。

「なに?」

 幸一郎はいった。この人、お酒弱いんだな、と思った。顔が真っ赤だ。

「上、いきませんか?」

 さやかは手をより強く摩る。

 それが、禁忌であってもかまわなかった。なぜならわたしは……。母の顔がよぎった。これは、この人を汚すことになるのだろうか。親子そろって、この人を、徹底的に傷つけることになるんだろうか。

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