17−1 さよなら①
『……にしてもそんなエピソードがあったんですねえ』
『そうなの。ていうかこれはリスナーのみなさん、絶対いわないでね』
『ですよ〜、お口チャックで!』
『ところでなにかお水ありませんか? それになんか臭いっていうか……換気しません?』
『あれあれあれあれ〜、失礼いたしました。では千絵さんに飲み物をお出しするあいだに、一曲いれましょう。千絵さんのお気に入り、ケツメイシで……』
『そうそう、ケツメイシさんっていったらね……』
田島家の居間で、幸一郎は座布団を折り枕にして横になっていた。目を瞑りながら前田のラジオを聴いていた。ケツメイシが流れだした。なにか飲み物を持ってこようと起き上がった。いつのまにか卓袱台の向こうに早紀がいた。幸一郎はラジオを消した。
「いいの?」
早紀がいった。
「うん」
「あの人、なんで前田くんのラジオに出てんの」
「芸能活動の一環なんじゃないの」
今日の前田はいつも以上にハイテンションだった。十年以上続けている番組の、初のゲストに昂ぶっている。
「あの人が家出したとき、写真が出回ったじゃない」
千絵のことをいっている、と少ししてから気づいた。
「そうだっけ」
幸一郎は事件の概要を覚えていない。あれは幸一郎が高校一年の頃で、千絵は三年だった。村の者が噂をしていた。千絵が何者かに暴行を受けた。そして最中を写真に撮られたという。しかし幸一郎は写真を見たことがなかった。通夜の夜、志村が仄めかしていたもの。しばらくしてから千絵は家出をした。
幸一郎にとって、千絵は幸三の姉、以外になんの感慨もなかった。この家に暮らしていたけれど、千絵はいつだって家の者と距離を置いていた。ここは自分のいるべき場所ではない。そう思っているであろうことは全身から読み取れた。
「それをお義父さんが全部回収するように命じたってほんとう?」
初耳だった。
「わかんないな」
「わたし、あのとき写真見ちゃったんだ。あれは絶対に誰かに……」
早紀が幸一郎の顔を見て、話を止めた。きっといま、自分はとても嫌な顔をしていたんだろう。村の噂話を知りたくなく、関わりたくもなかった。幸一郎はどこか潔癖なところがあった。
「前田くんのラジオなんて、ただの友達に向けてのミニFMでしょ」
早紀が話を変えた。
「わりと面白いよ。聴くの習慣になってるし」
そう、前田のラジオは幸一郎の生活にとって欠かせないものになっている。前田のラジオはほほえましい。柿の木に実がなったとか、ふきのとうがとれたとか、誰かの家の下で猫が出産したとか、ニュースにもならないことをいつも語っている。前田は家から一歩も出ていないから、きっと母親が仕入れた近所の話を語っているんだろう。そういうささやかな話題が、幸一郎をなごませた。かかる音楽も、懐かしいものばかりだった。よくオザケンがかかるのはリスナーの趣味をわかっているからだろうか。
「優しいわね」
早紀の言葉はまったく優しい、というニュアンスが含まれていない。
「突然あいつが学校こなくなったとき、みんなでお見舞いにいっただろ。あいつ昔から深夜ラジオ無理やり聴いてたじゃん。アンテナのばして。次の日学校でラジオの話してくれて、面白かったよ、っていったら、しばらくしてあいつのお母さんに、手書きのチラシを渡されてさ」
「うちにもきたよ」
「暇なとき、ちょいちょい聴かなきゃ」
「それ聴いてるの、多分あなたと深町さんくらいよ」
「面白いんだけどなあ」
会話が途絶えた。俺たちは、いつもどんなことをしゃべっているんだったっけ。幸一郎は考える。高校生のころは、早紀になにか話しかけなくては、といつだって焦っていた。大学生になり、早紀と毎日会うことができなくなってしまったとき、どうやって会おうかと画策した。
幸次は違った。いつだって早紀と気軽に喋る。幸三だってそうだ。なのに、自分はいつまでたっても、この目の前の女に緊張し続けている。
まもなく三十となる我が妻は、どんな女よりも美しかった。幸一郎が盲目なだけなのかもしれない。結婚し、一緒の家に暮らすようになっても、いつだって眩しい。こんなにじっくり、妻の顔を見たのはいつぶりか。このまま時間が止まればいい。
「大丈夫?」
早紀が怪訝な表情をした。
「ああ」
なんでもないよ、と幸一郎は目を逸らす。
「明日、改めて役場の方がいらっしゃるって」
「うん」
「お茶いれようか」
早紀が立ち上がった。
「ごめんな」
「……なによ、改まって」
「なんか、俺いっぱいいっぱいで」
「当たり前だよ、そんなの。お父さんが亡くなったんだもん」
「あのとき、早紀もそうだった?」
訊いた瞬間、しまった、と思った。早紀は、どうだろうね、忘れた、とごまかした。幸一郎は思わず、話を続けた。
「早紀のお父さんたちが亡くなったとき、俺、無理やり結婚しようっていっただろ。あのとき、俺、早紀がショックなのをいいことに、無理やりしたのかな」
とても、くだらない問いかけだった。承知していた。でも、いった。
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