6−4 通夜のあと④
夜道を志村が歩いている。ぶつぶつと、ひとりごとをいいながら。あんにゃやちゅ〜しんじゃえばいいんだよ〜いきてるだけで〜たにんにきがいをくわえるむしなんだから〜。ババアの店の前で立ち止まる。電灯のない真っ暗闇のなか、店全体が発光しているようだ。バカ笑いが聞こえる。志村はドアの前でうろうろし、そして家路に向かう。再び愚にもつかないひとりごとを口走りながら。ポケットに手を突っ込むと、リリアンがあった。志村にとってのお守りだった。大好きな祖母がやりかたを教えてくれた。
「いいかい。時間を無駄にしちゃあいけない。起きてるあいだはなにかをしていなくてはならない。人生なんてあっという間だよ」
祖母は志村によくいった。父と母はコンビニ経営で大忙しだった。コンビニの上、暗い部屋(電気をつけるのは真っ暗になってからでないともったいない、と祖母はつけようとしなかった)で、志村と祖母は黙々とリリアンを、した。
「あんたみたいな子は、せめて手仕事くらいできなくちゃ」
祖母は優しかった。だが、志村はその優しさを憐れみとしかとらえることができなかった。そしていつのまにか、志村は憐れまれることばかりを望むようになっていた。
小学校から高校までの十三年間は、地獄にいたようなものだった。蹴られない日、髪を引っ張られない日はなかった。便所の個室に逃げ込んでも上から水をかけられる。怖くて小便ができず、膀胱炎にもなった。教室で漏らしてしまったこともある。そして、またボコボコにされる。せっかく祖母が髪をとかしてくれたのに、清潔な服を着せてくれたのに、帰ってくる頃にはぐしゃぐしゃになってしまっていた。それがいつでも悲しかった。何事もなく(無視されたりシャープペンで頭を刺されたり突然飛び蹴りされる程度ならましなほうだ)帰ってくると、祖母は「偉かった」といい、ずたずたに制服を切り刻まれて帰ってくると、なにもいわずに抱きしめてくれた。祖母のしわしわの乾いた肌、なのにその暖かい感触! それだけが志村を救い、そしてリリアンを祖母と暗い部屋で黙々と続けることだけが、乗り切る術だった。しかし……。
何度も「学校に行きたくない、辞めたい」と訴えても、許されなかった。
「どこにいったって、あんたの人生はどうせ辛いんだから」
抱きしめながら、祖母は恐ろしい呪いを志村にかけ続けてた。病院でもらう小児用風邪薬のような不愉快な甘味。
高校を留年することが決まる寸前の頃だ。一番いじめがきつかった時期、志村は学校にいけずに滝を見にいった。滝の管理人である白州は、志村を見ても、なにもいわなかった。白州は村の有名人だった。地方新聞に紹介されたことがあった。
『若者たちのむやみな自殺を食い止める男』
この滝は恐ろしく高い。そこから落ちれば即死できる。自殺の名所だといわれていた。村の者たちにとって神聖な場所で、てっぺんまで行くことを禁じられていた。そもそもその山にはあまり近寄らない。志村は立ち入り禁止と書かれた看板が吊るされた縄の向こう、滝の上へ至る道へは、入らなかった。ただ滝を見ていた。
虚ろな目をした人間が、じっと看板を見ていた。ああ、この人、死にたいんだなあ、と思った。わたしだって死にたい。なぜ死なないか。それはおばあちゃんが悲しむからだ。おばあちゃんが死ぬまで、わたしは死んではいけない。
つまり、志村は祖母の呪いに似た優しさに生かされていた。
昨日の昼休み、体育館の裏で丸裸にされた。そして後手になわとびで縛られホースで水をかけられた。逃げ惑うわたしをあいつらはげらげら笑っていた。柵の向こうで通行人が立ち止まって見ていた。でも助けてくれなかった。チャイムが鳴り、そのまま放っておかれた。服を奪われて、裸で保健室まで、手が使えないまま歩いた。だれかに見られないように、怯えながら。保健の先生は、わたしを見て、なにもいわずタオルで拭いてくれたけど、多分すごく面倒と思ったに違いない。ゴシゴシとこすられて痛かった。
大人は全員わたしに関わりたくない。自分で解決すべきだと放っておく。解決の仕方がわからないといっても、だ。
おばあちゃんのいう通り、高校を出ても、シャカイでもいじめられ続けるのが自分の人生なんだ。もういやだ、死にたい。おばあちゃんは泣いてくれるだろう。お父さんとお母さんはわからない。忙しすぎて、いつだっていらいらしている。めんどくさいって思うかも。あとはみんな、きっとほっとするんだろうな。ウケる、とかいわれるのかもしれない。
保健室のベッドに横になった。さっきストーブで体を温めて、特別に紅茶を飲ませてもらった(それがバレたら今度はなにをされるんだろう……飲み終えてから怖くなった)。ベッドは冷たいけど、心地よかった。自分の体温で布団があったまっていく……。保健の先生が部屋から出ていってしばらくして、
「持ってきましたー」
と声がした。
「先生? いないのー?」
足音が近づく。カーテンを乱暴に開いたのは、クラスメートの千絵だった。
千絵はなにもいわず、しばらく志村たちは見つめあった。千絵の顔はとくになんの感情も読み取れない。無表情だった。
「これ、体操着、あんたのでしょ」
そういってナップサックをベッドに置いた。
「じゃ、お大事に」
おだいじに。
志村のなかで、憎悪がせり上がってきた。
千絵は志村をいじめはしなかった。でも、もっとひどかった。あいつはわたしの名前を奪った。だからわたしはシムラだ。わたしがバカにされているのを、興味なさそうに見ているか、知らんぷりしている。人間となんて思っていない。いじめているやつらよりも、もっとわたしを見下している!
おだいじに、おだいじに、おだいじに。いつのまにか、しね、しね、しね、と言葉が変わっていた。
「どうしたの……」
保健の先生がやってきて、志村を怯えながら、見た。どうやらいつのまにか、声となってしまっていたらしい。
夕方になり、志村が帰ろうとしたとき、白州とすれ違った。
「まだいる?」
白州が志村に訊ねた。さっきの男のことだろう。
「まだ、います」
そう答えると、滝のほうへ歩いていった。
「あの」
白州を呼び止めた。
「なんだい」
「止めるんですか?」
「どうだろうね。縄の向こうにいったら、話を聞く。でも、まだ迷っているのなら、それは人があれこれいう筋合いじゃあない」
向こうへ行ったら、それは死を決めたことではないのか? そう思ったが言葉にできなかった。
「いいか、人が死ぬと、身体身動き取れなくなんだろ、つまり他人が処理しなくちゃならないんだ。それはとても迷惑なんだ。つまりな、人間てのは、母親に痛い思いをさして生まれて、人に迷惑かけて死んでいく。だからな、せめて、死ぬときは迷惑おかけしました、って気持ちでいかなきゃなんねえ」
そういって白州は奥へと向かっていった。
高校を卒業することが決まった日、祖母は階段から足を滑らせ病院に運ばれ、そのまま亡くなった。もう抱きしめてくれる人は人生に現れない、と志村は思った。どんな愛し方でもいい、抱きしめてさえくれれば、救われたのに。
志村には、呪いの形見であるリリアンだけが残された。それから志村は、家からほとんど出なくなった。家族以外の人と話すのは、頼まれてコンビニのレジに入るときくらいだ。いつのまにか、しゃべりかたがたどたどしくなっていった。
「で、ミズタニさんとえーと、アレがきて、店に入ってくるわけよ。でごちゃごちゃ話してて、わたしはタイミングを見計らってこういうの、『コーヒー、お砂糖は?』って。でもうまくいえなくってさ、何回もNGになるのね、で、まわりもピリピリしてて、わたしからすりゃパニックよ、なにが正解なの、と。いまだにコーヒーの匂い嗅ぐだけで思い出しちゃって……」
饒舌になった千絵が咲子相手に身振り手振りを交えなから語っていた。
「辛い、ですね……」
咲子はまるで自分の身に起こったことのように、共感のそぶりを見せた。
「嬉しくなる」
「え」
「あのとき、わたし、生きてるっていうか、なんていうんだろう、もうそのパニックすら快感ていうか……あとから思えばだけど」
「……すごい」
「映像出たの、あれが最初で最後だったけど」
「いいなあ……」
「ゴシャヒデオもオオシマナギサもいないし、別に出たい監督とかいないから。いいけどさ」
そういって千絵はタバコに火をつけた。
「いいなあ……」
選ばれし者の恍惚と不安。咲子は憧れていた。まるでその現場に居合わせたような、なんなら体験したかのような心持ちになっていた。
「なんなのこれ」
ババアは呆れていた。
「遺産がどうこうってのはな、どうだっていい」
幸次が切り出した。
「どういうことだよ」
幸一郎は訊ねた。ここに集まったのは、これから俺たちはどうするか、だ。
「お前はこれから苦労するだろうよ。夏秋って守銭奴もいるしな。千絵さんだって幸三に金をよこせってねばるだろ」
「この家にはもう人に分配できるほどの余裕はないよ」
相続したら、すべておしまいだ。どいつもこいつもわかっちゃいない。いや、相続することすら難しいかもしれない。
「一円だってもぎ取りたいところだろうな、あの人からすれば」
「そんな」
「彼女、仕事がうまくいってないみたいだし。グラビアやって、ドラマの超チョイ役をもらって、芸能界人生ゲームはドボンだ、って。しょうがないから赤羽あたりに店でも開くかどっかの国の大統領夫人になるかしかない、ってバスのなかでずっと語ってたよ。フリートーク二時間。CMなし。な?」
幸次は幸三のほうに顔を向けた。
「そんなこといったって、うちの財政は幸三が一番よくわかっているはずだ」
幸一郎がいった。
「わかんないよ。お金のことなんて……」
幸三は首を振る。わからないことにしておきたい、いつまでもここにいたい。
「住み込みも幸三だけだし、もうこの家はおしまいなんだ」
「ふふ」
幸次は芝居がかった笑い方をした。
「なんだよ」
「あっけないもんだな」
「俺は、この家の始末をつけるだけに生まれたのかもしれないな」
幸一郎がいった。これまでずっと考えていたことだった。初めて口にした。
「そうだな」
幸次の短い返事に、幸一郎は黙ってしまった。
「さて、帰るか」
今日は朝から喋りすぎた。そろそろ寝たい。また田島の家に戻るのも、幸三の部屋で寝るのも正直気が乗らなかったがしかたがない。あの部屋で、かつて千絵は家族三人で寝て暮らしていた。いつだって逃げ出したかった。なのに結局戻ってきた。
「もっとお話しましょうよ。東京の小劇場事情とか教えてくださいよ」
咲子が腕を引っ張る。
「そういうなんか貧乏ったらしいこと知らないから」
あんな気色の悪い世界に足を突っ込んだことを消去したい。演技の勉強をするため西脇に勧められて何度か出たが、下手くそな役者と、人間力のない演出家しかいなかった。スタッフだって文句しかいわない。
「わたし、大学の頃芝居やってて……、でもなんていうか周りのレベルっていうかノルマとか人間関係に悩んでて、やめたんですよね」
千絵はすっと冷めた。
「で」
「最近、もう一度がんばってみようかなって思えてきてて」
「やめときなよ」
「え」
背中を押してくれるとでも思ったのか、咲子は固まった。
「世の中どうせ景気よくならないし。夢とかさ、そういうの、重荷みたくなってくるんだよ。一度外したんでしょ。無理してまた負荷かけなくたっていいじゃない」
千絵の言葉を咲子は俯いたまま聞いた。
「むしろうらやましいよ。居場所あるなんて」
ごちそうさま、といって千絵は店を出ていった。
「あの女、金払わないで出て行きやがった」
しばらくしてからババアは気づいた。咲子は無言のままだった。
「うちの母ちゃんもな、つい最近死んだ」
幸次は忌々しげにいう。
「それは……」
幸三が驚いて声をあげた。
「母ちゃん、俺が小学生のとき、消えちまっただろ。警察から連絡がきた。なんでだかギフの旅館で働いていたらしい。他に行くとこもあんのに、なんでまた同じような山奥に暮らしてたんだか」
「いったのか」
幸一郎は慎重に訊ねた。幸次の母を最後に見たのは、幸一郎だった。日射病で倒れ、目が覚めたとき、村は大騒ぎになっていた。
「まあな。母ちゃんには娘がいたらしい。タネ違いの妹、俺らと似たようなもんだな。火事で二人とも焼け死んだってさ。……俺は思ったんだ。捨てられたとはいえ、俺のことを産んでくれた女だ。そいつのために、なにをしてやれるか。秋幸に人生狂わされた女のために、あのジジイが結局誰を愛していたのか、誰も愛していない好色だったのか、をつきとめてやりたい」
まるで悲劇の主人公のようだ、と幸一郎は思った。ひどいことを考えてしまったことに、後悔し、思考を打ち消そうとした。
「ま、無理か」
誰もなにもいわないことに苛立ち、幸次はいった。
「ジジイ、どうやら俺が生まれてからも何回かうちの母ちゃんと関係があったみたいだしな」
村中で囁かれていた噂だった。
「幸三のとこも多分そうだろう。使い物にならなくなるまで、女漁りしていたわけだ」
なにをいっても、間違ったことしかいえそうもない。
「明後日には俺は帰るよ。離れを使わせてもらう。いいだろ」
幸次が立ち上がる。
「森山のお父さんのとこには……」
幸次の父は、妻が出奔してしまってから酒浸りとなっている。
「いかねえよ。昔みたいに殴られるのなんてごめんだよ。実の父親と育ての父親が違うのも面倒だな。いいことねえな」
じゃあな、といって幸次は出ていった。
しばらく幸一郎と幸三は黙ったままでいた。
「ロマンティックだな」
幸一郎が遠くを見るような目をして呟く。
「え」
「誰を親父が愛していたか、だなんて、なんかロマンティックだな。考えたことなかったよ。俺、親父の元で育ったからかな。そんな発想したこと」
「違うよ」
幸三が遮る。
「なんだよ」
「幸次は、お母さんが愛されてたかを知りたいんじゃないよ。自分を愛してくれていたのかを知りたいんだよ」
「ファザコンだな」
幸一郎は苦笑いをする。
「俺たち全員、ファザコンだよ」
幸三がいった。
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