第二幕 シシャ
6−1 通夜のあと①
通夜は終わりを迎えようとしていた。ババアは遺影を眺めていた。田島秋幸。この男は面白かった。そんなことを口にだしてしまったら、大変なことになるだろう。世が世なら処刑されていたかもしれない。この男の「犬」はとても大きかった。いま窮屈な身体から解き放たれ、しばらくのあいだ「犬」はあたりを駆け回っていることだろう。悪さをしなければいいが。大概、「犬」となってしまうとそいつは不安がる。身体のそばからしばらく離れようとしないものだが、さっそくの不在。いま、秋幸の「犬」はトーキョーにいるかもしれない。あの女を探しているのかもしれない。すぐに見つかるだろう。「犬」の嗅覚は……。
目の前を幸三が横切った。空のビール瓶を両手にぶら下げている。幸三は決して出しゃばることなく、通夜のこまごまとした雑事を処理していた。
「わたしたちも手伝うよ」
ババアは幸三に声をかけた。
「たち、ってことは、わたしもすか」
ババアの隣にいた咲子が声をあげる。少々顔が赤い。あれほど最中は酒を飲むなといったのに、まったく。
「大丈夫です。田島の家の者がしなくちゃ、面目がたちませんから」
いつもおどおどしているというのに、立派だ。
「そんなこといってる場合じゃないでしょう」
そういってババアは咲子の腰を叩き、立ち上がろうとした。
「ビール足んねえぞ!」
遠くで夏秋が吠えた。
「手伝えよ、ジジイ。ビールでドタマかち割るぞ」
咲子が小声でつぶやく。
「本当に、大丈夫ですから」
そういって幸三は、夏秋の元に向かった。
夏秋は嫌われ者だ。田島の遠縁であることでいばり散らしている。このあたりにふらっとやってきてはやりたい放題だ。
「ババア」
咲子がいった。
「なんだよ」
「あれ」
咲子が顎で示した先には、幸一郎の妻、早紀がいた。スマートフォンでゲームをしている。いっさいこの場に関与するつもりのない風情だった。ただいるだけ。
「モンストやってる場合じゃねえだろ、あの女」
「それに、ね」
ババアの見やった先には、幸一郎がいる。肩肘を立てて、酒を飲んでいた。声をかけるものは誰もいない。この男がこれから、この集落を背負えるのか、不安と嘲笑がこの部屋には充満している。
「なんなんですか、この夫婦」
「世継ぎは無理だね。この家も、幸一郎さんの代までだ。残念だね。わたしはね、この村の女のお産、全部手伝ってきたんだよ」
そう、ここで暮らすようになってから、何百年が経ったろう。あっというまだった。
「お産?」
「幸一郎も、早紀も、幸三も、幸次も……、今日の主役の秋幸さんもね」
もっと前からだが、そんなことをいったところでどうにもなるまい。
「ちょっと、秋幸さん、だって九十近く……」
「ふふ。若いでしょ、わたし、見た目」
「ババアギャグ……」
「うっせえ」
「え、マジなんすか。ババアジョークでしょ」
咲子がいった。
「さあね」
そうそう、あらゆる人間の誕生を見てきたと同時に、あらゆる死を見てきた。でも、この田島秋幸の葬儀は、たいそう豪華だ。奥の台所で、片付けを始めようかと思ったとき、ドタドタと恐ろしい勢いで棺まで駆けてくるものがいた。派手な格好だ。あれはプッチ風のワンピース。通夜には最も似つかわしくない。
「おおええっ、おえっ……」
棺に顔を突っ込み、突然嘔吐をしだした。さすがに部屋にいた連中もざわついている。顔を上げ立ち上がり、颯爽と振り返った。川村千絵だ。
ババアはその姿を見て、呆れた。げろも演技のようだ。くだらない登場のしかたじゃないか。
千絵はなにかを見つけたらしく、またもドタドタと目標に向かっっていった。
「なに」
スマホから顔を上げ、見下ろしている千絵を、早紀は睨んだ。
「松本清張の『疑惑』、桃井かおりがやってたの、知らない?」
「知らないわ」
早紀は首を振る。愚かなものを相手にはしていられない、といったていだ。
「女優はね、毎日女の勉強をしなきゃなんない過酷な職業よ。おんな学校はね、卒業できないのよ、一生」
千絵は仁王立ちでドヤ顔だった。早紀はゲームに戻ろうと下を向く。千絵が早紀の持つスマホを取り上げた。
「ゲームなんてやってる暇はないの」
「なにすんのよ!」
早紀が立ち上がる。この女にこんなに生気を感じるのは久しぶりだ。ババアは見ていて感心した。
「なんかうざかったから。でもさ、うざいあんたも悪いよね。わたしをうざくさせた責任とんな」
千絵がスマホを早紀に投げた。
「ゲームは一日一時間!」
「なによあんた!」
「自分だけ辛いとか思ってんじゃねーだろうな」
早紀と千絵が睨み合う。なかなか見物じゃないか。ねえ、と咲子のほうを向くと、咲子は入口を見ていた。
「どうした」
「別に……」
咲子はなにか隠しているらしい。もしくはいいたくないらしい。
「なめてんじゃねーぞ、なにもかも」
千絵が咲子の肩を突く。
「姉さん、なにやってんだよ。くんな、っていったろ!」
この騒ぎで幸三が台所からやってきて、千絵を羽交い締めにした。
「どうも〜、この家のあわれな女中だった川村美和の娘の千絵です〜。弟の幸三がお世話になっております〜」
離せよ! と体をくねらせる。
「幸三」
遠くにいた幸一郎がいった。
「はい」
「お前、親父の通夜になにやってんだ」
「すみません」
幸三が下を向き、謝る。
「なに幸三にキレてんだよ。わたしにいえよ」
千絵が喚いた。幸一郎は千絵のほうへと近づいていった。
「千絵さん、今日は親父の通夜なんで」
「幸三の親父でもあるでしょ」
幸一郎は黙ってしまった。
「で、遺産はいくらくれんの」
「遺産?」
「まさか息子に一銭もよこさないつもりじゃないでしょうね」
「おいおい、姉ちゃん。幸三のことはさ、秋幸は自分の子供だって認めては」
でかい声で話を割って入ってきたのは夏秋だ。金の話となったら黙ってはいられないのだろう。
「うるせえ。つかおっさん、鼻毛でてんぞ」
「鼻毛関係ねえだろ」
そんなことをいいながらも、夏秋はたじろぎ、鼻毛を抜こうとする。
「鼻毛出てるようなやつに発言権はねえ」
「ちょっと、おい、幸三、鏡」
「あ、はい」
幸三は千絵を離し、鏡をもってこようとした。
「幸三、こんなおっさんに従うな」
千絵がそばにいるというのに怒鳴る。
「え、え」
「いただけるものはいただきます。そこで眠ってる秋幸が、母さん孕ませたのは村中の人間が知ってることでしょう。これで幸三がなんにも貰えなかったら、母さん地獄で泣いてるわ」
「へ。お前の母ちゃん地獄か」
夏秋がせせら笑う。
「この村の人間が天国になんて、誰だっていけねえ、っての!」
千絵の指が夏秋の鼻の穴にいき、思い切り引いた。
「いってえ!」
夏秋が鼻に手を当てながら呻いた。千絵は指を忌々しげに擦る。どうやら鼻毛を抜いてやったらしい。
「母さんはね、今頃秋幸がくんのを手ぐすねひいて待ってるよ、地獄の前で。あいつに復讐するためにね。まだここいらにうろちょろしてんじゃねーだろうな、好色ジジイ。お前が泣かせた奴ら全員地獄でお前を嬲る準備してんぞ。さっさとあの世へ行ってリンチ受けろ!」
あたりに向かって千絵が叫ぶ。ババアはそのさまを見て、ため息しか漏らすものがなかった。いま「犬」はいないっていうのに。人間には見えやしないなんて、なんて滑稽なんだろう。それさえわかれば、「死」なんてものに恐怖することもないし、そんなただの情報変換を騒ぎ立てることなどないだろうに。こんなふうに、別に必要のない儀式などしなくてもいい。ああ、でもこれは、「生きているやつ」のために必要な、始末なのだ。シシャからすればまったくどうでもいい行為だった。
「あんた、なんなんだ」
幸一郎がいった。
「わたしは、千絵!」
ここがこの女の一人舞台になるのは気に入らなかった。くだらない。さっさと台所に引っ込もうか。
「コーヒーお砂糖は〜?」
悪意のこもった、人を馬鹿にしたような声が響いた。
全員が、声のほうを振り向く。
入口に、女が立っていた。
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