2−2 シラスハウス②


 ぱんぱんにふくらんだ、ドンキの袋を両手に抱えて、部屋にやってきたのは、この家の管理人、白洲洋美だった。ホトも袋を抱えてあとからついてきた。

「ちょっと、ドアくらい開けてよ」

 テーブルに袋を勢いよく置き、洋美はセリに不平を漏らした。

「家でのんびりしてるんならさあ、せめて開けてくれたってばちあたんないと思うんですけど」

「ごめんなさい」

 気が動転していた。セリは自分がこんなふうになってしまったことに、驚いていた。過去を自ら抹消し、未来は一切不透明。現在は? ただ、苛立ち、怯えている。

「みんなは?」

 椅子に座り、洋美はドンキの黄色い袋のなかから「おーいお茶」の500ミリペットボトルを取り出し、飲み出した。

「清掃とか、芦田さんの畑の手伝いとか」

 セリも、椅子に座った。洋美のもってきた袋のなかから飲み物を探す気にもなれなかった。

「芦田さん、あんたらをちょうどいい人手だって思ってんのよねえ。もうバイト代請求しなさい。どうしたの、変な顔して」

 そういって洋美はセリのほうに顔を近づけた。セリのなかに、まだ混乱が残っていた。

「洋美さん、ブスとか女の子にいっちゃだめでしょ」

 袋のなかみを物色していたホトが、小声でいった。セリはホトのTシャツを思い切り掴み、捻りあげた。

「なんだてめえ、もういっぺんいってみろ」

「ジョークだよ、ジョーク」

 あまりに強く、襟を引っ張ったものだから、ホトのTシャツは伸びてしまっていた。

「面白くねえんだよ」

 ほんとうくだらねえ。セリはTシャツを離した。

「仲良しねえ」

 洋美ののんきなひとことに、セリとホトは同時に「はあ?」といった。

「ほら、いきがぴったり」

 洋美はいっさい動じない。なんでいつでも平然としていられるのだろう。セリはバカバカしくなってきた。

「仲良くしてあげてね」

 なかよくなかよくうるさいよ。

「今日からこの家に新しい入居者がきたから」

 ほら、早く入ってらっしゃいよー、なにもじもじしているの? と玄関に向かって洋美が叫んだ。

「疲れたでしょー、こっちでなにか食べましょうよー。ソフトサラダとエクレア好きってさっきいってたでしょー」

 おずおずと、部屋に全身黒衣の女が入ってきた。美しかった。困惑の表情が、より、その薄暗い美しさを際立たせていた。セリは女を見たとき、こんな顔に生まれたかった、と思い、すぐさま、憎んだ。

 女の名前は清白みゆきといった。いつものように、あの滝で、洋美が拾ってきたという。みゆきは所在なさげだった。シラスハウスの住人たちが帰ってくるたびに、セリはみゆきを紹介する羽目になった。全員に「この人、新しい入居者」と伝え終えると、セリはさっさとどこかにひっこんでしまった。


「ここって、なんなんですか」

 改めて、住人たちがリビングに揃ったところで、みゆきは訊ねた。

「それね」

 オーバーサイズのスエットパーカーを着ている男、ハコベがいった。幼い顔立ちだが、わりと年がいっているのではないか。みゆきにはそう見えた。

「あの、実はわたし、」

「いわないでも大丈夫です。あれですよね、滝のうえにいったんですよね」

 せっかくみゆきがしゃべっているというのに、スズナが割りこんできた。空気が読めないタイプなのだ。可もなく不可もない、印象に残らない顔立ちをしている女。

「はい」

 なにもかもわかられている、と思ったのだろうか。みゆきが下を向いて答えた。

「ここにいるみんなは、全員そうですから。一番ここで古くいるのがセリちゃん……、いないな」

 全員にみゆきを紹介ししたことで、役目を果たしたとでも思ったのだろうか、セリは女部屋にひっこんでしまっている。

「ぼくがセリの次に古いです」

 みゆきからいちばん離れた場所にいた、背の高いインテリ風の男、ゴギョウがいった。この男は他の皆とちがい、白いシャツにスラックスという、ほかとは違ってまだくだけていない格好だった。

「わたしとナズナがそのあとにここにきて……」

 スズナと手を握っている小柄な女に目配せした。顔中が膿んでいた。にきびを掻きむしり続けているのだろう。頬にいくつも血の点を浮かべている。

「時期とかどうだっていいでしょ」

 ナズナは神経質な声をしている。まるでガラスをひっかいたみたいだった。彼女は毛玉だらけのワイン色のセーターを着ていた。まもなく夏だというのに。

「で、ハコベくんがすぐあとにきたんだよね」

 スズナはハコベに向かってやけに媚びた微笑みを放つ。

「でも一年以上前。一昨年の夏とかだったかな」

「ホトちゃんがもうすぐ一年か。新しい人、ひさしぶりなのよ」

「タイミング的にちょうど良かったかもね」

 自己紹介は終わった。しかしみゆきの訊きたいことはまだ誰も語ろうとしない。しかも謎を重ねてくる。

「どういうことですか」

 みゆきは訊ねた。ハコベとスズナ、顔を見合わせて、どうする? などといい合っていちゃいちゃしている。ナズナの表情はどんどん険しくなっていった。

「じつはわたしたち、ここから卒業しようかなって思ってて」

 スズナの発言に、全員が二人に注目した。

「やだ……だめ」

 ナズナが大声をあげた。

「泣かないでよ」

「だってっ、スズちゃん」

 突然大泣きしだしたナズナを、スズナは抱きしめた。

「ここに長くいてもね、しかたがないかなって思えてきて。ここ、すごくいいとこなんですよ。空気も美味しいし、村のみなさんみんな優しい人たちばかりで」

スズナは諭すようにいう。

「僕たちに畑仕事を教えてくれたり、歩いてても気さくに話しかけてくれて」

 ハコベがみゆきに向かっていった。安心してくれといわんばかりだ。

「また滝にいくんじゃないかって警戒してんのよ、あいつら!」

 ナズナが叫ぶ。スズナが止めてもナズナの言葉は溢れつづけた。

「ぜったいそうでしょ、うちら全員あの滝にいって、死のうとしてたところを洋美さんに拾われたんだからっ!」

「洋美さんて……さっきの人ですよね」

 みゆきがいった。滝にいたら声をかけられ、車に乗せられ、ドンキまでいった。そして、自分をこの家に置き去りにしていった人。

「ここから車で一時間のドンキホーテが大好きな」

 ゴギョウがいやな笑いを口元に浮かべた。

「一緒にいきました」

「あの人がこの家の管理人なんですよ」

「食料も買ってきてくれるし。この家は刃物とか火は使っちゃいけないの。だから食べられるものを持ってきてくれるの」

 お風呂はね、お隣の芦田さんのところで借りてるから、大丈夫よ、とナズナをあやしながら続けた。

 ここは、一戸建てだ。刃物がない? 風呂がない? 使っちゃいけない? この人たちはいったい何者で、なんでここに暮らしているんだ?

 ナズナを抱きながら、スズナはいう。まるで母娘だ。多分ナズナのほうが年上だというのに。

「ただの買い物好きって噂もあるけど」

ゴギョウがいった。この男は自分の発言ひとつひとつが面白くてたまらないのだろうか。不快だ。

「あの人に声をかけられたんです。それで、話していたら……」

 みゆきはとにかく、自分がなぜここにいるのかを順序立てて説明しようと試みた。

「車に乗せられてドンキにいったんでしょ」

「はい」

「そしてしばらくここで暮らせと」

ゴギョウのいう通りだった。ドンキで洋美は、「こんなの似合うんじゃないの?」などといって紫色のトレーナーをみゆきの胸にあてた。そして、ここにくると、着替えろといいだし、さっきまで着ていたコムデギャルソンのワンピースを奪ってしまった。抵抗したが、「大丈夫よ、きれいにクリーニングしとくから!」などと無理やり。

「はい」

「じゃああなたは合格したんですよ」

ハコベがいった。

「合格、ですか」

「そ、合格。この家でしばらく暮らして、人生をやり直すために英気を養うっていうか」

「みんなそうだから。みんな滝から落ちようとしたの。でも、飛び降りることができなくて」

 スズナがいった。

「あの滝……っていうかあの山、洋美さんが管理してるらしいんだよ。だからいつも掃除をしている。で、僕たちは彼女に話しかけられて」

 ゴギョウが補足でもするかのように付け加えた。

「あの人はね、世話焼きなの。でもね、選ぶの。人を見る目があるっていうか。借金がどうとか、犯罪を犯して逃げ回ってる、みたいな人は洋美さんは見抜くから。わたしたちはね、選ばれたの」

 スズナがしゃべっている途中で、落ち着いたらしいナズナが、離れた。納得していないことを、身体で表現したみたいだった。

「選ばれた」

 もっときちんと教えてくれなくてはわからない。これでは謎ばかり見せられて回収するつもりのない、素人の書いた小説みたいじゃないか。

「ぼくらは宙ぶらりんなんです。これまでここにいた人たちもそうだった。具体的な窮地に立たされたわけでもないのに、死にたいって思った。生きるだ死ぬだの瀬戸際にいるわけじゃなくて、ただ、なんとなく死にたいなって思ってあそこの滝にいった。そして、いざとなってみたらどうにもできなくなっちゃって立ちすくんでただ水が落ちるのを眺めていた」

 ゴギョウがいった。

「そうしたら洋美さんがやってきて。別にあなたがどんな人なのか、なんて聞かないよ。いいたいなら聞くけど」

 スズナがいう。どうやらここでリーダーシップをとっていたのはこの二人のようだ。

「ここは、いうなれば、人生の休憩所みたいなところだから。誰も責めないし、いやな奴だっていない」

 みゆきがそう思ったら、頭のなかを読まれたかのように、ハコベが挟んだ。

「喧嘩をしかけるやつはいるけどね。ホト」

 ゴギョウが会話に参加せず、ずっとスマホをいじっているホトに向かって声をかけた。

「なに」

 煩わしげにホトはゴギョウを見上げる。

「ところでセリはどこにいった」

「知らんよ」

「またちょっかい出したんだろ」

「べつにしてねーし」

「セリ姐さんいじめないで」

 スズナがたしなめるようにいった。

「いじめてねえよ」

「ホトは子供なんだよ。好きな人にちょっかい出すの」

 落ち着いたらしいナズナが、いった。

「あいつが俺の作業邪魔してくんだよ」

 ホトはそのひょろ長い身体をくねくねと動かす。気味が悪い。いや、どいつもこいつも気味が悪いとみゆきは思った。裏しかなさそうだ。

「なんの作業か知らないけど、だったら男部屋でやりゃいいだろ」

 ゴギョウがいった。ここでは、ホトをいじってOKという空気があるのだろう。

「布団でしてたら、寝ちゃう」

 ホトの返事にみゆきは呆れた。そりゃいじられて当然だ。

「子供か」

「女子部屋見た?」

 ハコベは話を変えた。

「いえ、まだです」

 みゆきは答えた。この家には、このリビングのほかに、男子部屋と女子部屋があるらしい。

「だったら行く?」

 スズナがいった。

「布団三組しかない」

 ナズナがいった。どーすんのよ。いままで男三女三だったのに、この人きたからなんかバランス崩れてきてるんだけど。非難の対象をみゆきに変えたらしい。

「僕たち、来週にはどうせここを出ていくから。だったら、スズナちゃんと僕は別のところで寝るよ」

 ハコベが名案であるかのように宣言した。

「なにいってんの」

 ナズナの敵は、ころころ変わる。

「だってベッドないじゃないか」

「隠れてこそこそしてたのを、公認でしようってわけ!」

 ひどくいやな間が起きた。

「ひどいよ。一緒にきたのに、それなのに、できちゃってさ、それで一緒に出てくとか。ひどい」

 ナズナが再び泣き出した。

「あの、わたし、やっぱり帰ります」

 一度退却しよう。このままではやっかいなことになる。みゆきは立ち上がった。

「どこに行くんですか」

 ゴギョウが嬉しそうな顔をしている。やはりこいつは気に入らない。

「家に帰ります。失礼しました」

「帰れるんですか」

「え」

「荷物、もっていっちゃったでしょ、洋美さん」

「服ももう着替えちゃってるし」

 ゴギョウに続て、ハコベがいう。どいつもこいつも、不愉快だ。

「ここから出るためには、洋美さんの許可がいるんです。『もう一度社会に出るために、きちんとした目標を持つこと』それか、心のそこから信じ合えるパートナーを見つけること」

 ゴギョウの言葉に、スズナとハコベが顔を見合わせて微笑みあった。

「ぼくらはね、神様の滝を汚してしまったから。弱いまま戻ることはできないんですよ」

 ゴギョウはいった。

「なにいってるんですか」

 こいつら全員、狂っているのではないだろうか。みゆきにはそう思えた。

「僕たちには可能性があるって洋美さんはいうんです。もう一度頑張れる。もう一度、きちんと生きていける。ゼロをイチにするってね、並大抵のことじゃないじゃないでしょう。ものすごいパワーがいるっていうか」

 ハコベがいった。

「そのために、ここで練習しているんです。集団生活をきちんと過ごすこと、家の周りの人たちに迷惑をかけないこと」

 ゴギョウがいった。

「この村はね、とてもいいところなんですよ。空気がきれいだし。村のみなさんはみんなやさしくて」

 スズナはいった。

「なのになんでそんな逃げるみたいに出ていくのよ」

ナズナが感情を無理やり押さえつけたような声で問う。

「だって、本当のパートナーが見つかったんだもの。さっき洋美さんにいったら、おめでとうっていってくれたわ」

「帰ります」

 こんな狂人の芝居に付き合ってはいられない。なんとかなるだろう。もしものために、滝のある山に、ジップロックに入れた金を隠しておいた。タクシーを拾い、とにかくここから……。

「ひとまず明日、洋美さんがくるまでここにいれば。一日一回顔見せにくるから」

 なんなんだこいつらは。ふてくされたナズナとスマホにかじりついているホト以外の三人の、まるで信仰を疑っていないような顔。白洲洋美っていうのは何者なんだ。

「……わかりました」

 みゆきは、納得するふりをした。


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