1−2 幸一郎はなにかを思い出しそうになる②

「なに……」

 隣で寝ていた早紀の、わずらわしげな声が聞こえた。

 夢だった。幸一郎は布団から起き上がった。ひどく汗を掻いていた。夢のなかの暑さを、まだ纏っている。今自分は二十九歳だ。妻もいる。そして父は、昨夜死んでしまった。今日は通夜がある。ひとつひとつ、思い出していく。部屋の暗さで、日本間の寝室が無限に広がっていくかのごとく錯覚させた。そんなはずはなかった。

「すごい汗」

「変な夢見た」

「夢」

 早紀は興味なさげだった。いつものことだった。妻は幸一郎の言葉に興味などない。むしろこんな朝早くに起こされたことに、苛立っているのかもしれない。

「なんか、昔の自分がいた」

 そう言葉を放ったことで起きた、しばしの沈黙に、幸一郎は気落ちした。もう自分は大人だ。なのになんでこんなにもあらゆることに気が左右されるのだろう。

「いた、って、あなたの夢じゃない」

 早紀の返事を待っていたというのに、その物言いに、がっかりする。

「自分の目で、自分のことを見てて。自分が主人公で。俺主演の映画みたいな」

 うまく説明できなかった。ただ、妻がこのもやもやとしたものを理解してくれればいい、それだけを幸一郎は願っていた。

「なに、身体をべたべた触って」

 早紀が起き上がる気配があった。なぜ妻は、自分が手で身体中を撫でていることがわかるのだろうか。

「夢の俺は小学生なんだけど、いきなり、おっさんになってて、びっくりしてるとこ」

「わけわかんない」

 その言葉は、幸一郎のすべてを評しているように聞こえた。幸一郎は、昔から、天然だとか、わかりづらいとか人によくいわれた。

「がくん、て自分の身体に魂が戻ったみたいで」

 魂、という言葉が口から出た。昨日、ずっと魂のことを考えていた。

 

 父の亡骸を見ながら、ずっと考えていた。

「なにしてたの、夢のなかで」

 早紀が訊ねた。いつもなら適当な返事をするだけだというに、さすがに今日は、そんなふうにあしらうことはできないと思っているのかもしれない。

「絵を描いてた。外で。ポケモンの」

 言葉にしたら、なんてまぬけなんだろう。しかも、嘘だ。犬の死骸を処理できなくて呆然としていた、なんていえない。

「ふうん」

 まるで言葉を知らない子供の話に、適当に相槌をうったかのようだった。

「聞いといてお前、なんだよ」

 不平を漏らした自分が、まるで幼児になってしまったみたいだった。

「ポケモン描いてて、なんで大きな声だすの」

「うん」

 としか、いえない。まるであのときから自分はなにも変わっていない。成長できていない。

「ポケモンに殴られたみたいな声だったよ」

 ばた、という音がした。早紀が倒れたらしい。まだ眠かったのだろう。自分の夢なんて、人にとってまったく興味などもたれない。眠いのならなおさらだ。

ゲロを吐いたみたいに、喉から首、肩、胸まで痛みに沁みていた

 幸一郎は部屋からそっと出た。台所に向かい、冷蔵庫からヴォルビックのペットボトルを出した。中身は近所の滝の水だった。神水と呼ばれている。別にうまいとは思わない。水道水と違うようにも思えない。この集落の人々は、毎日せっせと滝の水を飲料水にするために汲んでいる。時計を見ると、まもなく五時になろうとしていた。

 そういえば、最近は番組を聴いていなかった。誰にも聴かれていないとしたら、かわいそうだな、と思っていた。前田のラジオは、朝、昼、夜とある。テーブルに置いてあるラジオをつけた。ノイズが続き、ブッ、と屁みたいな音がしたあとで、鳥のさえずりの効果音は聴こえてくる。幸一郎はバカバカしくて、笑った。そして、咳払いの音。


 ……はい、そういうわけでね、今日もおはようございます。DJ前田でございます。まもなく夏到来の朝ですね。つってもこのへん、あんまり暑くはならないんすよね。なにせ聖地っすからね。でもまあ夏らしいことしときたいとこっすよね。夏といったら前田的にはスイカですよね。まあ昨日も話しましたけどね、スイカ。このラジオも十年以上続いているので慢性的なネタ不足ですよね。スイカ以外のことでなんかあるかなーってトークのネタ考えるんですけど、プールとか、海とかですかね。でもこの村にはプールないですからね。海なんて車で三時間ですからね。山二つ越えなくちゃいけないですし、もうそれOLのご褒美旅行ですよね。ていうかそもそもなんでわざわざ暑いとこ行かなきゃなんないんですかね。ていうか僕ら、どうせどこにもいけませんよね。でもいいじゃないですか、海とか、いらないでしょ。べたべたするし。波、うぜーし。にしてもここ、本当に二十一世紀の日本なんですかね。こんだけ交通が不便だったらもうあれですわ、孤島ですわ。外部との接触が一苦労なだけで、こんなに人間は止まっちゃうもんですかね。世界は僕らの外で動いてますよ……。でも、まあいいじゃないですか。美しい山並みのこの村で、皆さん時代に乗り遅れていきましょう。というわけで、時代遅れついでに今日の一曲目は懐かしいものを選んでみました。オザケン、みんな知ってますか。九十年代の名曲。小沢健二で、『今夜はブギー・バック』。


 嫌味なくらいに、前田の番組は『今夜はブギー・バック』を流す。音楽は、あの頃に幸一郎をまるごと連れていく。あのときの会場の空気。横にいた幸次と幸三の緊張した面持ち。もちろん幸一郎だって心臓がばくばくいっていた。市民文化会館のステージに立っているかのような気分に、いまなっていて、なのに、幸一郎は、高校生の頃の、自分自身の姿を見ていた。不思議だ。体感しているというのに、見てもいる。


 エントリーナンバー五番、田島幸一郎君、森山幸次君、川村幸三君による、『今夜はブギー・バック』

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