オールザサッドヤングメン
キタハラ
第一幕 シ
1−1 幸一郎はなにかを思い出しそうになる①
目の前にある死骸をどう処理すればいいのかわからない。幸一郎は立ちすくむことしかできなかった。死んでいるのは父親が可愛がっていた犬だった。柴犬で、まだ小さかった。名前はコウといった。
犬が現れるまで、彼は父に、コウ、と呼ばれていた。家の者たちも「コウちゃん」と呼んでいた。いま彼は、幸一郎、と呼ばれていた。父がそう呼ぶと、他の者もみな、「幸一郎ちゃん」と呼んだ。家にいる者たちだけではなく、学校や村でも、いつのまにか彼をそう呼ぶようになった。
コウは死んでしまったから、再び自分は父にコウ、と呼ばれるかもしれない。そんなことを考えた。もうコウと呼ばれても、その響きは自分に馴染みそうもなかった。自分はもう「幸一郎」になってしまっていた。犬が死んで、生き物から、ただの「もの」になったみたいに、自分はもうコウちゃんではない。
真昼の空き地には誰もいなかった。幸一郎の膝上まで雑草が生えている。だからこの死骸は、遠目からは見えない。
早く、なんとかしなくてはならない。
この骸を抱えるのに躊躇していた。血で服が汚れてしまう。それに、死んでいるものを触るのは、いやだった。
幸一郎はコウをかわいがったと思う。コウもなついていた。餌をやるのは父の役目だったが、散歩は幸一郎がしていた。夕方五時のチャイムが鳴ると、遊びも途中でやめ、家へと駆けた。六時の晩飯までの時間、コウを連れて散歩するのが彼の役目だった。
「幸一郎も弟ができたんだからな。コウを大切にしなさい」
父はいった。なんだかおかしかった。だって、弟は二人もいるではないか。もうすでに自分はお兄ちゃんである。それに、犬は別に血が繋がっていない。弟なんかではない。飼い主と飼い犬、という関係でしかない。だいたい僕は、犬を飼いたいなんて思ったこともなかった。お父さんがいきなり家に持ち帰ってきたんじゃないか。
そんなことを口走るほど、幸一郎は気が強くも、子供らしくもなかった。父にただ、頷いただけだった。
いま、コウの死骸を眺め、途方にくれている。この犬との思い出が蘇ってきた。鼻がつんとした。もう心臓の高鳴りは収まりかけていた。自分の左胸に手を当て、鼓動を感じた。
なんで心臓は勝手に動いているんだろう。理科の授業でまだ習っていない。もっと上の学年になれば、そういったことを学ぶのかもしれない。もっと年をとったら、不思議なことを不思議と感じなくなるような気がしている。
家で女中をしている美和さんに以前、「花ってなんできれいなんだろう」といったときのことだ。美和さんは、「幸一郎さんは詩人ね」といった。
「幸三にもそういう繊細なところがあればいいんだけれど」
幸一郎からすれば、幸三のほうが天才だ、と思っていた。幸三は幸一郎には見えないものが見えるのだ。うらやましくて仕方がない。幸一郎は知りたかった。なんで心臓は勝手に動くのか。なんで花はきれいなのか、なぜ生き物は死ぬのか。
帽子をかぶっていなかった。さっきから頭がきーんといたい。喉も乾いている。家に帰って冷蔵庫にあるオレンジジュースを飲みたい。その前にこれを処理しなくてはならない。
「コウちゃん?」
声がした。
振り向くと、幸次のお母さんが日傘をさして立っていた。気まずかった。ん、とだけいって、視線を死骸に戻した。
「どうしたの、それ……」
幸次のお母さんが雑草をかきわけて近づいてくる。隠そうとして死骸に覆いかぶさろうとしたが、できなかった。
「それって、秋幸さんがかわいがっていた犬だよね」
「違うよ、これは……」
幸一郎はなんとかごまかそうとした。だが何一つうまい言い訳が思いつかない。
「これは……ポケモンだから」
咄嗟とはいえ、なんでそんなことを口走ったのか、自分でも意味不明だった。
「わあ、死んでいるねえ」
幸一郎の言葉を無視して、おばさんはいった。とても嬉しそうだ。
「コウちゃんがやったの?」
おばさんが幸一郎を見た。笑顔を満面に咲かせていた。とても無邪気で、気味が悪い。
「……死んでた」
事情を説明することはできなかった。誰にもいわないと約束をしたからだ。特におばさんには、いえない。
「かわいそうに」
おばさんはいった。まったくかわいそうとは思っていないいいかただった。
「かわいそう?」
鸚鵡返しで訊いた。
「かわいそうでしょう、かわいかったのに」
「かわいかったから、かわいそう?」
いま自分が感じているぼんやりとしたものに、名前がついた気がした。かわいそう。飼い犬の死を前にして、自分はかわいそう、と感じているのだった。
でもこのかわいそう、はいつものかわいそうとは違う。学校中でいじめられていた志村にたいして、かわいそうにと思っていた。学年が二つ上の志村はいま、町の中学校に通っている。来年には幸一郎も、バスに乗って片道一時間かけて通うことになる。中学でもやられているらしい。泥だらけのセーラー服姿の志村が俯いて歩いているのを見たことがある。きっとああいう人は、一生いじめられるんだろうな、かわいそう。そう思っていた。
コウの死を前に感じている、かわいそう、は志村に対して感じるものとは違っている。別の言葉が必要な気がする。
幸一郎は立ち尽くしたままだった。
「おうちの人を呼んで、始末してもらいなさい」
始末。大人に見つかってしまった以上、家にコウを持ち帰るしかない。誰にも見つからないうちに、どこかに埋めてしまうつもりだった。よりによって、父の次に見つかったらやばい人に会ってしまった。この人は、あちこちに噂をいいふらす達人なのだ。
「ねえ、春におばちゃんとしたこと、覚えてる?」
そういわれ、いきなり現実に引き戻された。
あのこと。
「うん」
幸一郎は返事をした。ぞくっとした。思い出したくない。
「おばちゃんねえ、赤ちゃんできたみたいなの」
春に、幸次の家でしたことと、赤ちゃん、という言葉がまったくつながらず、幸一郎は混乱する。おばさんはいつもそうだ。なんだかいつでも村をふらふらほっつき歩いていて、しゃべっているとどんどん話が別のものになっていく。
「そうなんだ」
相槌をうちながら、幸一郎は、これからのことを考え、頭のなかのことを振り払おうとした。
「かわいがってあげてね」
なにをいっているのかわからなかった。かわいがっていた犬が死んでしまったのに。おばさんはほんとうにわけがわからない。
「うん」
幸一郎は適当に答えた。その態度に腹を立てたのか、おばさんが幸一郎の肩を強く掴んだ。
驚いておばさんの顔を見た。おばさんの目はまったく笑っていない。
「かわいがらないと、コウちゃんが小学六年生にもなっておもらししたって、みんなに言いふらしちゃうからね」
おばさんの眼差しは、幸一郎に向けられている。なのに、幸一郎を見ていない。どこか遠い場所を見ている。いつだってそうだ。
「うん、わかった」
あの湿った息。からだを押し付けられたときに、お母さんのことを考えたこと、固くなった性器が肉のなかに押し込まれ、包皮がめくれそうになり痛かったこと。別の痛みが尿道からびりびりとやってきて、我慢できずに漏らしてしまったこと。
なにもかも思い出したくなかった。
「よかった」
そういっておばちゃんは口角をあげたが、やはり笑っていない。
頭がぼんやりした。なにもかも真っ白になる。やっぱり美和さんのいわれたとおり、帽子が必要だった。頭が蒸れるのがいやだったし、ジャイアンツのマークがついているのもいやだった。野球なんて興味ないのに、お父さんが好きだから、買い与えられたのだ。
「コウちゃん?」
声が、くぐもった。
幸一郎は、そのまま崩れ落ち、意識を失った。
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