第4話 府川
「何も悪いことしてないじゃない」
府川が笑いながら言った。てっきり長話に飽きているとばかり思っていたものだから、話し終わった直後に言葉をもらえて少し驚いた。
「でも何も得るものがなかったし、与えることもなかったよ」
僕は回転椅子をくるりと回して、府川に向き直った。それまでは壁に備え付けられた鏡に向けて話していた。大きな鏡はところどころが白く汚れていた。綺麗にしたがる人はあまりいないらしかった。
室内は深い赤の壁紙が貼られている。見渡していると、まるで巨大なサメの口の中にでもいるような気分にさせられる。照明はなんだかぼんやりしていた。カップルならば安く泊まることができるというので、府川に無理やり連れ込まれた、安い作りのホテルだった。
「だってほら、私と一緒にいてくれるのも要するに同情してくれたからでしょ?」
府川は首を軽く傾げた。撓垂れる艶やかな黒髪やシミのない肌は並々ならぬ努力のもとに成り立っていた。あまりに綺麗だったので大学入学時こそ彼は一目置かれていた。その後、新入学生を全員集めての派手な宴会の場で性別が男だと明かしてからは潮が引くように人々が去っていった。僕だけがその潮の流れに取り残されて、一年と少しの歳月が流れた今も府川と付き合っていた。
「同情されるのは嫌じゃない?」
僕がおそるおそる尋ねると、府川は大袈裟なほど首を横に振った。
「別に。優しくされて嫌なわけないよ。おかげで安く泊まれたわけだし、明日もよろしくお願いできるし」
ここは東京の郊外だった。明日は日が昇る頃に外に出て、東京ビッグサイトに行く。コミックマーケットという名の、種々多様な表現者や企業の思惑が重なり合った大規模な同人誌即売会が開催されようとしていた。
「だいたいさ、あたしのような男なんて、ほんの十数年前でも即刻精神異常者扱いでしょ。始まる前から終わってたんだ。そんな世の中で、話のわかる君のような健常者たちが少しずつ同情してくれたから今があるわけよ。本当にもう、ありがたい話よ。これからも目いっぱい同情してね」
床に置いた半開きのスーツケースを府川は足の指で器用に弄り、鉤を外して開いてみせた。中の衣装がふわりと広がる。淡いピンク色のドレスのようなコスチュームと青色のかつらがのぞく。明日、府川はそれを着る予定だった。昔からの夢がいよいよ叶うのだと息巻いていた。今まで誰にも言わなかったのに、何故か僕には話せたのだと、不思議そうに語っていた。
府川はやおら立ち上がると、僕の背中に飛びかかり、髪を撫でてくれた。それが府川なりの同情のようだった。僕は府川のことは男だとも女だとも思っていない。ただ彼は僕の話をきいてくれた。それだけでもとてもありがたいことだった。
暇だから過去の話をしてと、促してきたのは府川だった。僕はそれに乗せられて自分のことを話した。全てを口で話したのは初めてのことで、終わってみるとすっかり喉が渇いていた。途中で止めることはできなかった。始めたからには全て話してしまいたかった。途中で胸がつかえながら無理に言葉を繋いだのを府川はしっかり見ていたらしい。
「ありがとう」
うなだれたまま僕が呟くと、府川は歯を見せて笑ってくれた。
翌朝早くに部屋をでた僕らはりんかい線に乗って国際展示場駅で降り、すでに形成されていた徹夜組の列(本来は禁止行為である)を睨みながら開場を待った。平成最後のコミケの初日、気温は既に四〇度に迫っていた。列が動き始めると、僕らはコスプレイヤー専用のスペースに案内された。府川は着替えを終えてビッグサイト前の芝生のエリアに繰り出した。
カメラを持った人たちが押し寄せてきて、府川の前で一斉にシャッターを切る。その中の数名が腰を落とし、低いアングルを狙おうとしていた。そこで僕はすぐに駆け出し、そいつらの首根っこを押さえた。大抵の者は悲鳴を上げる。抗議しようとしてくる奴も、僕の発達した二の腕を見せると顔を強張らせる。
小学校、中学校と谷中を相手に格闘していた僕はその後も独学で武術を学び、引き締まった肉体を手に入れていた。
いくら抵抗されても、僕の手が敵を離すことはなかった。格の違いを悟った相手はそそくさと逃げていく。時には口汚い言葉の残していくが、ほとんど変わり映えのしないつまらない言葉だった。真壁の勢い込んだ罵倒に比べれば痛くも痒くもなかった。
「さすが、頼りになるう」
振り返れば府川が笑顔でVサインをしてくれていた。シャッター音がいくつも重り、府川はその中央で輝いていた。あの笑顔を崩すわけにはいかないと、僕も俄然力が入り、怪しい連中に睨みを利かせた。
府川が自分の性別を明かした後、校内を一人で歩く府川の姿を見かけた。俯いていたその姿を見ていたら声を掛けたくなった。挨拶を交わしただけで、府川は一気に笑顔になった。それを見ていたら、入学前から沈んでいた僕の気持ちもいくらか楽になった。府川には話さなかったことだ。
僕の性分は、多分、これから先も変わらないのだろう。様々な人に同情して、受け容れられたり拒絶されたり、同じようなことを繰り返す。それでも別にいいのだと、思わせてくれる笑顔だった。
「ありがとう」
昨夜僕が呟いた言葉を、府川は何倍も明るくさせて言い、僕は腕を振るに留めた。
同情 泉宮糾一 @yunomiss
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