制裁
少年はK市のU町に入るとスモーク貼りのフェイスカバーの奥から辺りを見渡し針金で括られた金属板で二丁目と記された街灯が設置されている電柱の前でエンジンを切ってサイドスタンドを蹴り出し原付バイクを停める。
ヘルメットをバックミラーに被せ周辺の看板や住宅の郵便受けに目を凝らし数字を辿り始め、いつの日かに記憶した住所と合致した番地の木造二階建てアパートを探し当てると上下に三つずつ並ぶポストに貼られた表札を手前から順を追い、女の旧姓が書かれた一階の部屋番号を記憶した。
二部屋通り越し、扉の前で立ち止まると台所の擦りガラスから室内の灯りが付いているのを確認し左手の拳でノックを二度する。
中から気怠そうな返事が聞こえ、間を置き解錠音がしたドアが開かれると、上下灰色のスエットで室内から玄関口に足を下ろさず片腕で扉枠を突っ張り支える姿勢の眉間にしわを寄せたふくよかな女が開けたドアノブに手を掛けたまま目を見開いて固まった。
「え?ど…」
言葉を発しかけた瞬間に通路の光に照らされた少年は軸足に体重をかけ腹部を左踵で押し蹴り、身構える間もなかった女は後ろに素っ飛び倒れ床を滑り間仕切り壁に背中からぶつかった。
それを追って板張りの台所を土足で上がり込んだ少年は突然の暴力にうずくまる相手の腹を硬い靴のつま先でもう一度蹴り上げる。
これが突き刺さる様にみぞおちへ入った女は唸りバタつき腹部を庇った姿勢で後退り、怯えながら奥の部屋に腰を支点にして両足を交互に動かし床に体を引きずらせ逃げる。
台所から敷居を跨ぎ室内に一歩ずつ歩み寄り追いかける少年から間隔を保ち遠ざかる為に下がる女の後頭部が中央に置かれた正方形の白い炬燵式テーブルに触れたのと同時に今度は横腹を踵で踏みつけられた。
内臓が圧し潰された痛みに悶え苦しむ体は左右に転がり、机の脚にぶつかった拍子で筒形の灰皿が倒れパーラメントの吸い殻がバレンチノのガスライターにぶちまけられる。
その様を無表情で眼だけを向ける少年を横目で見上げると片手に何かを持っていることに気づいた。
「ちょっ、な…」
辛うじて漏らした声に反応するでもなく見下ろす人間の右手には鉄製のガソリン携行缶が握られている。
既に痛みと恐怖で瞳に溜まる涙が溢れ出している全身が震えるのを止めれずにいた女は即座に横向きで静止して片頬を絨毯に付けた姿勢になり丸まると、相手に届く最小限の音量で問いかけた。
「どうするつもりなの?」
これに返事は無い。
真相を掴めないままの女は何かを察する事が気配からは叶わぬ相手を正面切って直視せず、神経を逆撫でしない事に気を配る静かな口調で少年の足元に向け再度言葉を発した。
「私を恨んでるの?」
又しても黙り込みすすり泣く音だけが漂う室内で返答を待つ時が暫く続く。
その間は女にしてみると異様に長く感じられる時で、少年にしてみれば決断を迫られる短い時間だったのであろう。
其れ迄を微動だにせず佇んでいた少年がゆっくりと動いたのを女が察知できたのは震えがやっと小刻みに収束しかけた矢先に耳に入った物音だった。
眼球だけを動かして涙でぼやける目の端で捉えた少年の蓋を回し開け投げ捨てた動作に体の震えが揺り戻され、声帯は硬直して呼吸音しか発せなくなる。
横たわり恐れ戦く女に数歩近寄りその上空に腕を伸ばして拳を返し、容器を逆さにして薄赤い液体を少年が溢し始めると、服の上に注がれるそれを避けようとして女は頭を両手で抱えて体をもがき出し、無意識に口を突く辛うじて漏れる悲鳴を上げかけると発声を阻止する様に暴れる女の腹部を少年は勢い良く踏みつけた。
鼻を突く臭いに咽る女がそれでも逃れようと上半身を起こそうとすると少年が注ぐ行為を一旦止め、空いている手で濡れた髪の毛を掴み引きずり倒して蹴りつける様が幾度となく繰り返される。
降りかかる暴力を回避する事も拒否する声を発するのも許されないガソリンに浸された女は今なお攻め続く常軌を逸した行動から逃げ果せないと観念し頭部を覆い隠す姿勢で丸まりその動きをゆっくりと止めた。
抵抗が乏しくなっている足元で横たわる人間に液体を万遍無く浴びせる行為を淡々とこなして最後の一滴が落ちたのを確認した少年は携行缶から手を放し、その容器は固まり震える女の懐に落ちる。
「……もう……やめて……」
目前で汚れた手を上着の裾で拭く少年の突如として訪れた再会直後から始まった恐慌に喉に意識を集中させ広げ腕の隙間から漸く絞り出した声はか細く、我が子を育てることを放棄した涙と鼻水を垂れ流し顔を歪ませ許しを請うている生みの親に対して瞳孔が開かれ欲望を満たす様に何の躊躇いもなく無情な仕打ちに及ぶ少年は、制服のズボンに両手を放り込み立ち、聞き留めた素振りをせず憔悴した女を見下ろしている。
成長した声を未だ耳にしていない過去にはお母さんと慕ってくれた息子を恐怖に押し潰されそうになりながら女が見上げると、視線が合った少年はポケットから肘から下だけを動かし引き抜き、その右手にはライターが握られていた。
真夜中をとうに過ぎたY町の二階建て建売住宅正面で少年が停止した原付バイクに跨り腕組みを速度メーターに乗せ暫しの時を焦点を合わせるでもなく前を向いていたが、そうして眺めていた姿勢から意を決した様にバイクを降りると、クラウンが収まっている駐車場脇の入り口の小さなアルミ門扉から敷地に足を踏み入れる。
細かいタイル貼りの玄関先に立ちドアを引くと鍵はかかっておらず、開いた扉を抜け後ろ手でゆっくりと閉めると薄暗い空間に前実家の匂いが漂い、閉め損ねたキッチンドアの隙間から光が漏れていた。
汚れた安全靴を脱がず上がり込んだ少年がそのドアを押し開けると、煌々と照らされた灯りの下で男が背を向け寝息を立てて椅子に座った状態でダイニングテーブルに伏せている。
その姿から目を覚ます様が窺えないと見ると腰からケースのボタンを外して警棒を抜き出してグリップを持ち、それを真下に振り落としカシャンと音を立てて三段に伸ばすとしっかりと握り直し、過去の体験から相手の力量を知る少年が室内を警戒しながらも大胆に歩み寄り椅子の後で立ち止まった。
晩酌の残骸が乗るテーブルで深い眠りにつく男に至近距離まで来た少年は、鼓動の高鳴りが強さを増していたが落ち着くのを待たずに傾げた頭に狙いを定め、腕を自分の身長の上まで持ち上げ右側頭部目掛けて背後から右手を振り抜く。
不意の一撃に唸り声を出し左上半身でテーブル上をなぎ倒しビール缶と共に椅子ごと床へ崩れ落ちる。
倒れた衝撃とこめかみの違和感から意識は覚めたが正気になる間もなく男の目尻に入ったものは武器を振りかぶる少年の姿だった。
防衛本能が働き咄嗟に頭を両腕で覆い隠した相手の頭部を狙い少年はその上から警棒を浴びせるが手が邪魔をして直接には当たらない。
再度試みるが男の身をよじり的を絞らせない動きで腕を打ち抜くことになる。
酔いも相まってか思う様に体をコントロール出来ず反撃を繰り出せない男は振り下ろさせる武器から身を守る術に集中するしかなく、防戦一方の中で相手に隙が出る時を待ち凌いでいたが、その後も数回叩き突けていた少年は思う様に決まらないと踏んで固い頭の防御を外させるのと相手が起き上がり攻撃に転じて来る力を削ぐ為に殴る矛先を脛に変えて打ち抜く。
すると命中して骨にめり込んだ感触が右手に伝わってきた。
無防備な脚を狙われた男は全身を貫く痛みに声を張り上げ脛を抱えて体をもたげ上げたが、瞬時に真正面から顔面を蹴られ抱えた手を解き背中から床に倒れ、この隙を見逃さなかった少年は踏み出し、もう片方の脛にも警棒を叩き込むと先程と同じ感触が腕を通り抜けた。
両足をやられ耐えられない激痛を散らすように唸り暴れる頭の守りが手薄になるとそこを目掛け少年の一撃が飛んで来る。
男は反射的に片腕で庇うが攻撃が手首に入り痺れが五本の指先まで走り倒れ込む。
すかさず少年の足が腹を蹴りに来たのを察した男は安全靴の先が食い込む寸前で何度も腕を殴打され力が籠らない手で足首を掴んだが、その瞬間に払いのける事なく少年が守りが薄くなった頭部に警棒を振り下ろした。
この一打を
言葉を発する間も与えず繰り出された暴行で相手に反撃する意思が無くなったと判断した肩を揺らし息を切らす少年が汗と共に握り込んだ警棒から手を放すと、それは一度鈍い音を立てて弾み床に留まった。
その場で数回深呼吸をした後にポケットから煙草を取り出し火を点けようとしたがライターが無い事に気付いた少年は、テーブルのセブンスターと並べて置かれた黄金色したダンヒルに男を跨いで手を伸ばして掴み、親指で蓋を起こして灯し歯で咥えた煙草を寄せて吸い込んだ。
背中に視線を感じた少年が振り返ると、物音で起きてきた入口の扉の陰から覗くパジャマ姿の弟が見つめていた。
その左瞼と口元には青痣と明らかに殴られた跡の上に
「コイツにやられたのか?」
その言葉に小さく頷いたのを確認した怒り狂って傲慢無礼を極めた感情をむき出しにした暴力で抑え込むことによる征服感に酔いしれながら相手を抑え込んだ少年は男に振り向きしゃがみ、傍らに落ちていた警棒を拾い逆さに持ち先端から足元の床に叩きつけて縮め納めると腰のケースにしまって立ち上がり、身勝手から生まれた事実から一度ならず二度迄も息子を見捨て逃げ出して自分の人生を振り回したその積年の恨みを浴びせた息も絶え絶えで床に寝そべる男を見下ろす。
度重なる頭部への打撃で意識が朦朧とする男は額を傾け重い頭を転がし相手の動きを確かめる。
それを見た少年はキッチンのシンクに歩を進め出し、その下を開き扉の裏側に刺さる出刃包丁を引き出し掴む。
全身の云う事が聞かない男が次に視界の先に捉えた光景は刃先をこちらに向けて歩み寄って来る姿だった。
終焉
T町の緑が生い茂る菩提寺に叔母と訪れた俺は戸籍の上では父だった男が眠っている砂利敷きの墓所で墓石が無く卒塔婆だけが納まり置かれた枠の足元に後ろから手渡された線香と奴が好んでいた煙草に火を点け供える。
立ち昇る煙を目で追いながら拝む訳でもなく何をと聞かれても答えようのない感情で佇んでいると、叔母が背後から静かに語り出した。
「ごめんなさいね。貴方の息子さんを預かれなくて」
未だに諸悪の根源だったとしか思ってない男の死因は頭部に受けた打撲によるものでは無く腹部の刺し傷による失血死だった。
「この子たちの母親は火事で亡くなったって聞かされていたんだけど」
あの日にガソリン塗れで横たわる女の前に冷徹を装い感情を押し殺して立ちはだかって火を放つ素振りはした。
が、実行には移してはいない。
そう記憶している俺が後に理由を聞いて自分の耳を疑った。
女の住むアパートで起こった火災の件で叔父の所に連絡が届いたが、その原因が焼け跡から見つかった神に祈るかの形でジッポライターを握り締めた形で発見された女の焼身自殺だったというのだ。
最終的に良心の呵責と破壊衝動との葛藤で記憶が曖昧になった俺があの時に握っていたライターはいつの間にか女の部屋に落としていた。
最後に見た女の瞳に映った息子の顔は幼少期の俺が脳裏に刻んだあの顔をしていたのだろうか。
「うちも火事で私達の家が無くなっちゃったでしょ」
叔父の家の放火は俺が警察に出向いた際に事情聴取で詳細に話した事の経緯と近所の人が見た特攻服の形状を含んだ目撃証言が合わさり早急に身元が判明し、O町の奴等は吃音だが喋れる様になり車椅子に乗れるまでに回復した佐々木真司への集団暴行も絡み逮捕されたと聞かされていた。
振り向かずに何処でもない一点を睨んでいた俺の背中から多少の距離を置いている叔母は少しの間を空けて語りを続ける。
「それに私達には実の父親を殺めた子を育てることが出来ないのよ」
あの夜の襲撃では床に倒れグッタリとしていた男に刃物を向けたが、俺は掴んだ包丁を最後に手放してその場を後にしたのを覚えていた。
武器を振り回して暴行に及ぶ自分の長男の面は俺の記憶に焼き付けたあの顔と同様のモノだったのかも知れない。
「だから養護施設にお世話してもらう事になったのよ」
男が死んだのは俺が家を離れた後に弟が止めを刺していたからだった。
あいつは14歳未満で刑罰法令に触れる行為をした触法少年となり、犯罪の低年齢化が後をたたない一方で14歳に満たない弟の犯罪は刑法第41条で刑事責任が問われずに児童福祉法に基づいた処置で児童養護施設に送られた。
間違いなく真夜中に単身乗り込んで来た我が兄の男に対する暴挙が日頃虐待を受けていたあいつの根底にあった恨みを煽り立て最後の引き金に手を掛けさせ、無抵抗になるまで追い込み息の根を止めずに俺がそこから消えた為にその指を引かせてしまったのだろう。
奴が逝く前に目の当たりにした我が次男の顔はどんな表情だったのだろうか。
こんな結末になるのだったらあの時点で自分が尻込みせずに男を抹消しておけば弟の一生に付いて離れない重い十字架を背負わさせずに済んだ。
俺は生涯この事実を悔やみ続けて生きていくのだろう。
あの短期間で自分の身の回りで巻き起こり、そして自身が巻き起こした事実に押し潰されそうになり日差しの無い空を仰いでみたが頭と心の整理が付く訳も無く虚無感だけが全身を覆いつくしていた。
「それじゃあね」
かなりの時間を要していた懺悔とも取れる心の呟きを待ち続けてくれていた叔母のこの一言で燃え尽きた線香と煙草に視線を移した俺は踵を返し、石段を二つ降りてそこを後にする。
帰りしな遠目に見えた三段墓の墓碑に島田家と彫られている袂の拝石に花と菓子が沢山手向けられた前で小坂美奈代が手を合わせている背中を離れた場所から眺め、その方向に深々と頭を下げた後に俺は立ち去った。
ノスタルジア 其乃日暮ノ与太郎 @sono-yota
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