きみを救う物語

志馬なにがし

F.E.1918 アスアトリ


 誰だ、という声にメルは身をこわばらせた。二階にある父親の書斎のドアを開けたときである。


 単に大きな声に驚いたわけではない。誰もいるはずのない館に、見知らぬ男――ましてや敵国の軍服に身を包んだ男が壁に身をもたげこちらに銃口を向けている。少しでも動けば撃たれる。そう思わせるほど、男の眼光は鋭かった。汗がにじみ、膝が笑う。よろけたメルが壁に手をつくと、男は動くなとまた叫んだ。


 館の外からは爆発音と石壁が崩れる音が聞こえる。飛行機のプロペラ音が聞こえ、逃げ惑う声も聞こえる。窓が爆音に合わせて赤色に染まる。地響きが足元から伝ってくる。空襲がアスアトリの街を焼いていた。


 当然、使用人たちはメルを逃していた。しかしメルは使用人の手を振りほどき、ひとりで館に戻ってきたのである。

 父の書斎には家族写真があった。白黒のくたびれた写真だ。それだけだった。幼い頃、両親を亡くしたメルにとって、命をかけるに十分な理由だった。いつ爆破に巻き込まれるやもしれない。街には敵兵が進行してきている。そんな危険をかえりみても、両親が映る写真をメルは失いたくなかった。


 戦時下――常に緊張にさいなまれる日々だった。自国は攻め込まれている。いつ空襲があってもおかしくない。不安が常。そういう状況だった。わずかな物音で身をすくませるほど異常な緊張が街全体を覆っていた。

 そこで起きた空襲である。人々の緊張は恐怖に変わり、恐怖は金切り声に変わった。我先に、と火の手の反対へ逃げていく。誰も我を保てなかった。


 誰も我を保てないとは、メルも例外ではない。苦しい、と感じるほどに心拍が上がっている。自らの鼓動が耳の奥で響いている。一刻も早く写真を手にして逃げ出したい。ただ、銃を向けられて動けない。その背反事象はいはんじしょうがメルを混乱させていた。メルはせり上がる胃酸をぐっとこらえていた。


 すると男が短い声とともに倒れた。足からは血が流れている。

「怪我してる」

「近寄るな」

 男は銃口を再びメルへ向ける。

 しかしメルは男の言葉を無視して自らのワンピースの裾を裂き始めた。

「動くなって言ってるだろ!」

「だって、だって! 血が、出てる」

 裂いた白い布を包帯状にして、メルは男に近寄った。


 バンッと男が発砲した。メルの足元を銃弾が通過する。それでもメルは歩みを止めなかった。


「血を止めなきゃ」

 男の出血部分を締め上げるようにメルは包帯をきつく巻く。

「敵だろ」

 メルは小さくうなずくだけで、必死に包帯を結んでいる。

「名前は?」

「メル。メル・アイヴィー」

「アイヴィー……そうか」

 男の表情が始めて緩んだ。そして、ゆっくりと男はメルに銃口を向ける。表情とは裏腹の行動に、メルは困惑を隠せなかった。


 そのときだった。ギイ、と背後のドアが開く音がした。敵兵のようだ。敵兵はメルを視認するなりライフルを構え、引き金に指をかける。敵兵ふたりに挟まれたメルは、今度こそと目をつむった。


 バンッ――銃声がつんざき、メルは意識を失いかける。しかし、身構えたはずの衝撃が……やってこない。


 背後から何か倒れる音がして、目を向けると敵兵は倒れていた。男の構えた銃から硝煙の匂いがした。

「なんで」

「お前が大佐の娘だからだよ」

 男は立ち上がり、メルの手を引く。下の階からは複数の足音が響いていた。敵兵はひとりではなかった。先ほどの銃声に警戒を強めたようだ。

「お父さんを知ってるの?」

「今はここから逃げることだ」

「ねえ、教えて」

 歩みを進めながら男は説明した。自分は敵国へのスパイで、メルの父親の部下だったこと。メルの父親からは自分に万が一のときは家族をよろしくと言われていたこと。このアスアトリ空爆作戦を事前に知り、メルを逃しにやってきたこと。スパイであることがバレて右足を撃たれたこと。


 二階の階段に差し掛かったときだった。足音が下の階から響いてくる。男は立ち止まって舌を打つ。

「他に逃げ口はあるか?」

「南のベランダから木を伝って降りられる」


 ――行くぞ、男がそう口にした瞬間、階段の手すりが爆ぜた。


 いたぞ! 敵兵たちが叫ぶ。何発も何発も、銃弾が打ち込まれる。


 ベランダに着き、肩で息するふたりは向き合う。男は両手でメルの頬を覆った。

「いいか。このまま空襲は南に向かって進行する。東からは歩兵が攻めて来る。ルグレ川だ。西に走ったらルグレ川に着く。そこに船があって、仲間がいる。そこまで走れ。いいな」

「あなたは」

「あとで追いつくから心配するな。いいか。振り向くな。振り向かず走れ」

 メルは首を縦にふる。一瞬優しげな表情をした男は、すぐに険しい表情に戻り手榴弾を屋敷の中に投げ込んだ。

「行け!」

 メルはベランダへ伸びる枝に手を伸ばして木へ飛んだ。

「ありがとう!」

 そう声を張ると、男は歯を見せて笑った。


 メルは走った。

 背後から、ドン、と音がした。振り向くと自分の館から煙が上がっていた。嫌な予感がした。引き返しそうになった。今すぐ男の無事を確かめたかった。しかし男は必ず来る、そう信じて、メルは前を向いた。


 ルグレ川の桟橋で男の仲間と合流すると、メルは船に乗せられた。

 あの人が来るの――メルがそう言うが仲間は首を横に降る。

「残念ですが、あなたが到着し次第出航しろと」

 けど、と叫ぶが仲間は聞く耳を持たない。

「それにその状況であれば、少尉はきっと」

 ――決死の覚悟だったはずです。その言葉にメルは膝から崩れ落ちる。


 船は川の流れに乗って、ゆっくりと進む。船には布がかけられていた。メルと男の仲間はその布に身を隠していた。メルは膝を抱え、嗚咽おえつ混じりに泣いている。

 まだ空襲の音は響いている。石壁が崩れ、人が下敷きになり、火の手は容赦なく人々を焼いている。屋敷からここまでの景色はまるで地獄だった。これが人が作る景色なのかと。こんな地獄の中で、男は無事なはずがない。

 

 メルは胸の前で手を組み、祈るように歌った。言葉は小さくかすれ、とても弱々しい声だった。



 ――いつか、きみを救い出せますように。



 まだ空襲は続いている。

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