第4話 心の洗濯、落ちない悲しみ 5/20
さて何だかんだと食事も終わり、一息ついているとそろそろ風呂の準備をする時間だ。辺りは暗くなってきている。
彼女にそれを持ちかけるとそれが良い、との事だったので早速取り掛かる訳だが問題は水汲みだ。
大樽を置いてある場所には蛇口が近くに無く、井戸から水を汲み上げなくてはならない。少しばかり大変な作業だが彼女の細腕に頼る訳にも行かないので私がやる事にした。その旨を伝えると、
「あの水量をバケツだけでは大変です。あ、そうだ、良いものがありました」
と、何やら思いついた様な顔をしている。
何か特別な機材か妙案でもあるのだろうか。
とにかく二人で大樽へと向かった。
大樽は水汲みの事を考えてある程度井戸の近く、井戸と一直線上に並ぶ様に置いてあったのだが、これなら直ぐにでも始められるのだという。
だが今の所道具の類は一切近くにない。私がぼんやりと大樽を見ていると、
突然大樽の中に井戸から水が入っていった。
余りに一瞬の事で私は呆然と突っ立っていたがハッとして彼女の方を見ると光る魔法陣の様な物が浮いている。彼女はこちらを見て、
「これは『霊術』という物です。貴方の世界にこの様な物はありましたか?」
と、聞いてきた。
その声で我に返った私は空想やおとぎ話ではよく出てきたが実際に目の当たりにする事は無かったし、そもそもあり得ないとされていた、と伝えた。
「では実感が持てる様にもう少し別の物をお見せしましょう」
そう言うと彼女の右手の先に先程の陣が現われ、次は光球が辺りに浮かび、続けて左手の先に別の陣が現れ、その手で宙を扇ぐと光球がゆらりゆらりと漂い始めた。
何とも美しい光景だ。ここまで見せられれば信じるより他はない。
試しに頬と引っ張ってみても痛いので紛れもなく現実だ。そう彼女に伝えると信じて貰えて嬉しいと言ってくれた。
これがここでは有り得る事なのだ。
不思議な物を見せられたので少々呆けていたのだが、彼女にお風呂を沸かそうと言われて我に返った。
そうなってくると昼間に思いついた燃石湯沸かし法を使う訳だがどんな大きさの燃石を入れれば良いのか分からない。
彼女に聞いてみると燃石は霊術で中に火を入れたり出したりするので霊術士の彼女には調整は出来るが樽風呂は初めてなので彼女でも上手くいくかは分からない、との事だ。
しかしまあとにかくやってみない事には分からない、沸きすぎたなら水を足せば良し、ぬるいなら燃石を足せば良し、なんとでもなるだろうと彼女に言うと、それに賛同してくれたのか燃石を一つ手に取って調整した後樽の中に入れた。
暫くして樽風呂の温度を手で確かめてみると丁度温度に仕上がっていた。
四十一度前後か。流石霊術士だ、一回で合わせてくるとは恐れ入ったと思っていると、彼女自身一回で合わせられて良かったと言っていた。
樽設置の段階で目隠し幕(カーテン)用の支柱は立ててあったので幕を張り、地面に敷物をし、簡易的な脱衣場を作って風呂の完成である。
我ながら良い出来だ、などと思っていると彼女が入浴道具一式と、彼女の兄の物だという服を持ってきてくれた。
何でも私と彼女の兄は背格好が似ているらしい。試しに服の上から着てみると少々寸足らずではあったが悪くない具合である。彼女に礼を言い、風呂にする事とした。
だが彼女より先に風呂に入る訳にはいかないので、お先にどうぞ、と伝えると何やら不安そうに幕の中へ入っていった。
何故不安そうだったのかと一瞬疑問に思ったがその解はすぐに出た。
要は覗かれる心配だろう、この場合は下手に覗きませんからと言うといくら相手が正直者だと思っていても不安を抱かせてしまう。
今の彼女に余計な不安は抱かせたくない。いくら阿呆な私でもこれくらいは思いつくので、井戸の方で星を眺めてきます、と伝えた。
井戸は風呂からある程度離れており、風もなく、カーテンは簡単に捲れない。
それは彼女も知っているからこれなら覗かれる不安を解消させられると思ったのだ。しかし、
「あの……カーテンの近くにいて下さい……」
彼女から返ってきた言葉は意外なものだった。だがよく考えれば近くに居た方がある意味不安感はないだろう。怪しい動きはすぐにわかるからだ。
しかしどうもそういう意味ではないような気がしてきた。今、確証はもてないがとにかく彼女が不安にならない事が何より大切なので言われる通り近くに居ることにした。
夜空に輝く星々を眺め、(ああ、こちらの夜空にも星があり、向こうのそれよりは少し大きいが月も出ている。
しかも幸か不幸か満月の様だなあ。わが世でも無いのに満月の下か、いや向こうのそれであってもわが世でもなかったか……)などと呑気にしていた。
向こうの都会の夜空より遥かに綺麗な星空だ。星々の名前もよく分からないし機会があったら彼女に聞いてみよう。そうして話のネタをストックしていると、
「お先に失礼しました。お次にどうぞ」
と、声がかかった。
私の腕にある頑丈なデジタル時計は三十分程が経っていることを示していた。存外、私はのんびりと空を眺めていたようである。
普段は時を忘れて夜空をずっと眺めたりなどはしないのだが。
とにかく、失礼しますと言って風呂に入る事にした。すると彼女にカーテンの近くにいてもいいですかと聞かれた。
私のような三十路の男の入浴など見たくもないだろうし、別段気にもしなかったので、構いませんよと答えておいた。
そうすると彼女は安心したような声つきになった。
先程と今の彼女の発言と行動、おかれた状況を考えると彼女の不安の原因はまず間違いなく昨日の一件だ。
そして夜の闇がもたらす例え難い恐怖、それらが混じり合ったものであり、それは覗かれるとか覗かれないとかいう不安を簡単に上書きしてしまうものなのだろう。
だからカーテンの近くに居てほしいと、近くに居たいと言ったのだろう。この予想が正しいのなら先程は近くに居てあげて正解だった筈だ。
こういう時は彼女の意思の方が大切で彼女してほしい様にしてあげればそれでいいのだ。
私の思い違いでなければ、の話ではあるが。
こんな考えをしながら風呂に入って居ると私としては長風呂になってしまった様で体を洗って着替えた後、さっさと外に出た。
あの樽は果実酒でも入っていたのか良い香りがしていた。
風呂から出て彼女に声をかけると、お早いのですねと言われたので今日は長風呂な方だったと苦笑交じりに応え、風呂の湯をどう抜くか聞いた。
なにせこの樽風呂、それなりに大きいのでひっくり返して湯を抜くにしても今からは大変だし、明日まで放っておくのもあまり良くない気がしたので先程の霊術で湯を抜けないかと思ったのである。
そうすると便利な事に霊術でどうにかなるらしく今度は樽から湯が水泡状の一塊になって出てきた。
私が感心するのも束の間、
「このまま落とすとベタベタになるので」
言うが早いか湯が全て蒸発し消えてしまった。またしても呆気に取られていると、
「普段はこういう事をあまりしません。他言しないで下さい」
そう彼女は少し疲れた表情で言った。
しかしこの疲れは術を使ったから出た疲れではないと見えた。きっと私が風呂の中で考えていた内容から来る疲れだ。
あのまま何処か水の流せる場所まで持っていくのも骨だろうし彼女が疲れているのは聞かずとも目に分かっていた筈だ。
多少私が無理をしてでも湯を抜くべきであった。
風呂の中での考え事は一体何だったのだ。
それにしてもこの霊術は何か攻撃的なものを感じた。他言しないで、といったのは彼女が攻撃的なものを好まないからだろう。
「大丈夫です。他言はしません」
そう言うと彼女は少し安堵していた。
さて風呂も片付き、ダイニングで彼女と缶詰の事やら料理の事やらと何の取り留めのない話をしている内にそろそろ眠くなってきた。
不眠症の私でも流石に今日の様な日は眠くなるものなのか、と久々の自然な夜の眠気に感心していた時、
「実は昨晩、どうしても眠れなくて……なんというか不安というか、怖いというか……」
と、しどろもどろに彼女が言ってきた。
それはそうだろうあんな事があったのだ、眠れる訳もない。
何で私は昨日気づいてやれなかったのか、いや気づいたとして何をしてあげられたというのか。かける言葉すら思いつかなかった私に昨日何が出来たというのか。
そう考えていると彼女は続けて、
「あの、ですから、その……一緒の部屋で寝て頂けませんか……?」
と、心底困った顔で言ってきた。
一瞬驚いたが眠れぬ辛さ、特に不安からくる辛さは身をもって知っている私からすれば無下に断るのも忍びないので、
「私のような者で良いのであればお力になりましょう」
と、応えた。すると彼女は、
「ありがとうございます。ベッドが二つある父の部屋を使いましょう」
と、心底安心した声で、しかし悲しげな顔つきで返してきた。
この表情の意味が分からないほど私は馬鹿ではない。
彼女の父の部屋に着きドアを開けて中に入ると、私は右手首に小さな力を感じた。
ああ、やっぱりそうなるか。
見れば彼女は私の服の袖を僅かに掴み俯いて動かない。私はゆっくりと膝を床につけながら彼女の顔を見た。
彼女の目には光を遮る黒雲がかかり、それでも涙は蕭蕭と降っていた。
得も言われぬ悲しさ、恐怖、喪失感、凡そ暗い気持ちを表す全てが詰込まれていた。
誰が何と言おうが彼女のソレは間違いないものの筈だ。
そして彼女は力なく私へと倒れ込んだ。こんな時にどうするかなど愚問でしかない、呑気な私でもすぐにわかる。
それしかできない、それしかないのだ。
「そのまま泣けばいい。それだけでいいんだよ。もしここが落ち着ける場所なら幾らでも使っていいんだよ」
そう言って優しく抱きしめた。
彼女は只々涙を流すばかりであった。だが言葉にせずとも大体の想像はつけられるものだ。
私はひとえに彼女をだきしめ、時折少しの声をかける事しか出来なかった。
彼女の深い悲しみを前にして私は、私の言葉は、小さな意味すら持てるかどうか怪しいのだ。だから言葉は使わなかった。
暫くして彼女は泣き疲れて眠ってしまった。どんな形であれ眠れたのなら幸いだ。眠れなければ癒せるものも癒せなくなる。
私は彼女をベッドに横たわらせ、私も寝るかと彼女のベッドから離れようとすると左手を弱々しく掴まれた。きっと無意識で掴んだのだろう。
賢い人なら彼女のこんな行動の確たる根拠を言えるのだろうが私は大して賢くないので、(まぁ、そうなるか)
と、だけ思って彼女の手をほどかず一緒に寝ることにした。
(私が先に起きないと誤解を招きそうだ)
そんな事も頭をよぎったが睡魔は私を深い眠りへと誘った。
全く普段は働かないクセにこんな時に働くのだから嫌な奴である。
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