第5話 柔らかな朝、深まる理解 5/21

 翌朝、日の光で目覚めた。横を見ると彼女は静かに寝息を立てており、まだ目覚める気配はなかった。

 私はそっとベッドから下り、寝巻きから服へと着替えて、とりあえず彼女が起きるのを椅子に腰掛けて待つ事にした。

 何せ私はこの屋敷についてはあまり良く知らないし、昨晩の彼女の様子から考えて、起きた時に誰も居なければ不安になるだろうと思ったからである。


 しかしただ待っているだけでは睡魔に襲われそうだったので机の上にあった紙とペンを拝借し、平仮名と片仮名の五十音表を作ることにした。

 こうすれば昨日彼女が言っていた文字の対応が出来るからである。それから彼女に聞きたい事もまとめておく事にした。

 そうしている内にベッドの方から声が聞こえてきた。気がつけばもう一時間程経っている。


 彼女も目覚めた様で辺りを見回し、私を見て、「父上?」と寝ボケ眼で言った。

 きっと彼女の心が幻を見せているのだろう。何とも言葉を返し難いが「おはよう」と優しく挨拶した。

 幻影でも何でも見えているなら当人には紛れもなく事実な筈だ。それをこちらから壊す必要はなく、見たいだけ見させてあげればそれでいい。

 すぐに消えてしまうそれを少しでも留めてあげればいいのだ。彼女は聡明だからすぐに気がついてしまう、故に一秒でも長く幻影を見させてあげたい。そうでなくても彼女の心は限界なのだ。昨晩の様子を見れば誰だってわかるだろう、私ですらわかったのだ。


 彼女は少しぼんやりした後、我に返った様で「おはようございます、ルカワ様」と言ってきた。どうやら幻影は僅かばかりしか見せてあげられなかったらしい。

「昨日の夜の記憶が無いのです。正確に言えばこの部屋に入る直前で記憶が切れているのです。私は一体?」

 どうやらあの時の記憶が無い様だ。いや無くなっていて良かったというべきだ。

 あの暗い感情の渦は覚えていない方がいい。だが何が起こったかは教えなくては。

「この部屋に入る直前に意識を失ったんですよ。倒れてしまったので失礼ながら抱きかかえてベッドまで運びました」

 ここまでは事実だ。問題はこの先の事実を伝えるか否かである。

 伝えると余計に不安にさせる可能性が高い。しかし彼女からは意外な言葉が出た。

「倒れてしまったのですね、私は。そう言えば眠っている時に父上の懐にいる様な懐かしい感覚がありました。もしかしてルカワ様が隣に?」

 なんとまあ不思議な事もあるものだ。私が隣に眠っていた事を別の感覚で掴んでいたらしい。本当の事を言うより他あるまい。不明なままでは余計に不安な筈だ。


 その後、事の経緯を彼女に伝えると記憶が残っている部分の事、つまり部屋に入る前の事も含めて申し訳なさそうにしていた。

 大した御仁だ、普通は自分の身配をするだろうに。というよりは不安と悲しみの方が大きかったのだろう。

「どうしようもなかった事だと思いますよ。昼間には抑えられていたものが夜に溢れ出したという事でしょう。私が役に立てたのなら何よりです」

 出来る限り柔らかに私は言葉を発した。こんな時は言葉と口調を慎重に選ぶ必要がある。

 私がそう言うと、彼女は着替えてくると言って部屋を出て行った。彼女が着替えから戻ってくるまでの間に五十音表と聞きたい事もまとまると考え、私もいそいそと作業に戻った。

 私は少々悪筆なのでゆっくり書かないと綺麗な字にならないのである。自分で見るだけなら良いが彼女にも見せなくてはならないので余計に気を使う。


 暫くして五十音表が完成し、なかなかいい出来だと思っていると着替えを済ませた彼女が戻ってきた。

「昨晩はありがとうございました。ルカワ様がいなければ恐らく私は泣き崩れるばかりで何も出来なかったでしょうから」

 そう言った彼女は少し吹っ切れて昨日の調子を取り戻していた。

 恐らく吹っ切れた部分は「寝床を同じくした」(文字そのままで深い意味はない)という事に関しての恥ずかしさと不安という所だろうが。

 少々話をした所で彼女に、

「ところでその文字表は?」

 と、聞かれたので向こうの私がいた国の一番基本的な文字の一覧表だと応え、先程の思惑を伝えた。

「昨日の貴女の発想からコレが一番早いと思ったので」

「なるほど、どうやって対応させるか私も考えたのですが確かにコレが良さそうですね」

 彼女はなんだか嬉しそう笑顔で言った。

 笑顔は彼女に似合っている。暗雲で曇って欲しくはない。


 さて彼女の調子が戻った所で、私が今最も聞きたい事について問うことにした。

 それは、

「この世界では時がどうなっているのか」

 と、いうものである。

 これは人との付き合いの中でかなり重要な部分を占めていると私は考えているからだ。例えば私の腕時計が示す「三十分」、つまり向こうでの「三十分」がこちらでは「十五分」である場合、待ち合わせやその他諸々面倒だからである。


 それを語る上では数というものの概念や表し方など困難極まりない事から考えるべきだと言われるかもしれない。

 が、私はその方向についてはてんで駄目なので単純な事しか聞けない。だが昨日見た物のおかげで私が普段使っている数はここと似通っていると思えた物があった。

 何故かと言うと昨日の朝缶詰を持っていった時に缶詰にアラビア数字とそっくりな数字らしき物があり他の文字が読めなかったのにそれだけ読めたということが一つ。

 それから私が持っていった缶詰は「三つ」で彼女も「三つ」と言っていたのが大きい。だがしかしこれだけでは分からないし、私が考えても仕方ないので彼女に頼る事にした。

 ここの住民である聡明な彼女の言う事なら信じて問題ないだろう。頼り方は至ってシンプルだ。

 両手を開いて、

「これ、いくつに見えますか」

 と、問うた。

「指が十本ですね」

 そう答えられたので先程使っていたペンを指のそばに置き、

「これと指、合わせて何本ですか」

 と、問うと、

「十一本ですね」

 と、答えられた。大体分かってきた。後ひと押しだ。私はペンで数式を書き、

「1+1=」と「11+1=」の「=」の後に付くものについて問うと、彼女はペンを持って、

「2」と「12」と書いて答えた。

「何故こんな事を聞くのです? 私は数学や数式は得意ではありませんがこんな問題、小さい子供でも解けますよ。からかっているんですか」

 少々むくれて彼女は言うので、

「いやいや、申し訳ない。実は」

 と、先程の疑問について説明すると納得してくれた様である。

 むくれた彼女にも可愛げがあるなあ、などと一瞬思ったが数と時間について向こうとこちらの違いを擦り合せる事にした。


 結果として向こうとこちらで大きな差はなく、ほぼそのまま一般的向こうの考え方持ってきて問題なかった。

 大きな違いと言えば暦がトリクメニスといい今は丁度四〇〇〇年で、五月二十一日という事くらいである。

 いやはや何とも都合が良い。違いが大きいと覚えるのも一苦労だ。向こうとこちらで共通する所を見つけられたのは僥倖である。

(これだけ分かればもうこちらの事をそう難しく考える必要もあるまい)

 呑気さも大概な私である。

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