第四話 どうか兄様の手で……

 二人して忍び込んだのでございます。夜の図書館へ。

 何ヶ月もお休みしているとはいえ、わたしはこの図書館の司書。従業員入り口の鍵は、預かったままでございます。鍵穴がコトリと鳴って、二人を迎え入れてくれました。

 通路に踏み入ると、やけに大きく足音が響きました。誰も居ない図書館では、とても大きく音が響きますのね……妾、驚いてしまいました。


 乗り気ではない兄様に頼み込んで、一緒に来ていただいたのです。

 退院してから逢いに来てくださらないから、お家までお誘いに伺いました。あの時の兄様の慌てようと言ったら……失礼居ながら妾、思わず笑ってしまいましたのよ。

 御姉様の手前、困った顔をしていらっしゃったのでしょうか。それとも本当に、妾のことをうとましく感じていらっしゃったのでしょうか。でも今となってはもう、どちらでも良いことでございますね。

 御姉様にも何度も頭を下げ、兄様を連れ出すことをお詫びいたしました。最初は怪訝けげんなお顔をされていましたが、何事かに思い至られたようで、最後には呆れたように笑って二人を送り出してくださいました。

 妾がこんなことを言うのも可笑しいのですけど、本当に御姉様の事をお慕いしておりましたのよ。聡明そうめいりんとしたお姿に、ずっと憧れておりました。兄様の妻となられたことは面白くありませんでしたけど、違った出会いであればきっと、もっともっと仲良くなれたんじゃないかと思いますの……。


 あら、いやだ。また、お話がれてしまいましたね。ごめんなさい、図書館へ忍び込んだお話しでしたわね。

 従業員通路を抜けて図書館のホールへ出ると、そこはぬめるように重く冷え切った空気で満ちておりました。窓からは青白い月光が射し、立ち並ぶ書架が薄墨うずずみのような月影を落としております。まるでカンバスにえがかれた海底のよう……昼間とは似つかぬうれいに満ちた表情に、妾は心が弾んでしまいました。最後にこんな景色を見られるだなんて、本当に嬉しい……。

 よどんだ紙の匂いに懐かしさを覚えながら、図書館の奥へと進みました。鳥肌が立つほどの肌寒さを感じておりましたが、かえって心地が良いくらい。無数の書籍に囲まれ、身の引き締まる思いがいたしました。妾はやはり本が好きなのだ、そして図書館が好きなのだ……改めてそう思ったのでございます。

 こんなに図書館が好きなのに、司書の仕事には戻れそうにありません。このような傷だらけのお顔になってしまっては、窓口のお仕事は難しいのではないかと思います。地下書庫の担当にしていただこうかとも考えたのですが、ひどい頭痛を抱えていては満足にこなすことはできないでしょう。図書館のお仕事は、大好きでございました。もう続けられないのかと思うと、悲しくて仕方がありません。


 建物の一番奥まった場所。学術書が立ち並ぶ一角。幾度となく、兄様が抱いてくださった想い出の場所……どうしても此処を訪れたくて、無理を言って兄様を連れ出したのでございます。

 書架の前の長椅子に、二人並んで腰掛けました。何を話すでもなく、互いの気持ちに隔たりを感じたまま、居心地の悪い時間だけが過ぎていきます。

 窓の外の月は先程よりも高く昇り、より一層輝きを増しているように感じられました。妾はおもむろに、顔の包帯をほどき始めたのでございます。兄様は、あわてて止めようとしてくださいました。でも良いのです。兄様に妾の顔を見ていただきたいのです。

みにくくなってしまいましたでしょ?」

 兄様は目をらしておいででしたが、きちんと見ていただきたいとお願いすると、恐る恐る妾の顔をご覧になりました。

 月の明かりに照らされた妾の顔が、どの様に兄様の目に映ったのかは解りません。瘡蓋かさぶたこそ取れたものの、縫い傷だらけで引きれたままのお顔です。妾は努めて笑顔を作ろうといたしましたが、かえって不気味な表情を生んでしまったやも知れません。

 どのように映ったにせよ、見知った顔と大きく違っているのです。さぞかし兄様は、動揺されたことと思います。それでも気取けどられまいと気遣い、妾をそっと胸に抱いてくださったのです。久しぶりに感じる兄様の温もり……しかしその胸は、嗚咽おえつに震えておいででした。くぐもった泣き声が、胸板を伝って響いてまいります。「妾なんかのために、泣かないでくださいまし」そう申し上げたのですが、兄様の嗚咽はやがて慟哭どうこくへと変わっていったのでございます。


 兄様はずっと、わびておいででした。自分の気遣いが足りなかったばかりに、妾につらい思いをさせたと。自分のせいで、妾を追い詰めてしまったと。違うのです。寂しさに負けた妾が、勝手にしでかしたことなのです。

 しかし、自分がしでかした結果とはいえ、妾は生きることが辛くなってしまいました。生きているだけで辛いのです。激しい頭痛にさいなまれ、痛みに耐えるだけの毎日でございます。外に出れば包帯に覆われた顔に、心無い陰口が付きまといます。傷だらけになってしまった顔は、いまだ正視に耐えません。唯一の心の拠り所であった兄様も、御姉様の元へと去って行かれました……。

 絶望しか無いのです。生きるには、希望が必要なのだと知りました。絶望の中に在っては、生きていくことなど出来はしないのです。死んでしまいたい……心の中は、その想いだけで一杯なのです。

「妾のことを哀れに思ってくださるのでしたら、どうか兄様の手で天国へと送ってくださいまし……」

 妾の哀願に息を呑み、兄様は戸惑っておいででした。たしなめられるのかと、いいえ、叱り飛ばされるかとも思っておりました。しかし兄様は妾を胸に抱いたまま、長い時間を思案に暮れていらっしゃったのです。


(つづく)

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