第三話 どうぞご覧なさいな

 ようやく自分を取り戻し始めたのは、目覚めてから三日が過ぎた頃でした。

 頭の中の霧が晴れるかのように、だんだんと状況を理解してまいりました。前後不覚になるまでお酒を頂いたこと、手首を切って自殺を試みたことを思い出し、わたしは失敗してしまったのだと知って落胆いたしました。そして、失敗しただけでは済まなかったのです。悪い出来事が、二つございました。

 一つは日増しに酷くなる頭痛のことです。御医者様がおっしゃるには、お酒を一度に飲み過ぎた後遺症であろうとの事。お薬で抑えることはできるのですが、それでも耐え難い痛みでございます。お薬が切れた時などは、身動きすらできない程の痛みに襲われるのでございます。

 もう一つは、顔中に残る傷のことです。泥酔して鏡台の前で手首を切った妾は、前のめりに倒れて額で鏡を割ったのだそうです。そして無数の破片が、顔中を刻んだのだそうです。妾の顔がどうなってしまったのか、恐ろしくて確かめられずにおります。御医者様は、何度か形成手術を施せば綺麗になるとなぐさめてくださるのですが、包帯の下の引きれ具合から察するに、元のようには戻らないのではないかと思うのです。

 職場の方やお友達が見舞ってくださるのですが、包帯で覆い隠された顔を見るや否や、言葉少なに病室を後にされます。御父様は仕事がお忙しいようであまり病院へは来ていただけませんが、御母様そして兄様は毎日のように妾を見舞ってくださいます。しかし、包帯の交換は大きな苦痛を伴い、また激しい頭痛は依然として治まらず、痛みに耐えるだけの毎日です。御母様や兄様の気遣いに、応える余裕などございませんでした。


 御姉様おねえさまが見舞ってくださったのは、退院が近づいた寒い日のことでした。

 この頃になると、顔の傷も包帯を外せる程度には回復しておりました。しかしお見舞いの方に、いいえ御母様や兄様にだって、変わり果てたわたしの顔を見られるのは絶対に嫌でしたから、看護婦さんにお願いして包帯を巻き続けていただいたのです。

 傷の痛みは痒みへと変わり、瘡蓋かさぶたに皮膚が引きり、不快で仕方がありません。加えて酷い頭痛に悩まされ、せっかく御姉様が来てくださったというのに、何のお愛想もできませんでした。でも考えてみれば、御姉様は恋敵でもあるのです。このような状況で、歓迎できる余裕はございません。

 久しぶりにお会いする御姉様は相変わらずお美しく、気高さと申しましょうか、気軽には話しかけられないたたずまいがございます。顔に傷を負う前でしたら気後れせずにお話しも出来たのですが、今はその美しさがただただうらやましく、また兄様の正妻として在ることへの嫉妬心も加わり、妾はついつい卑屈な態度をとってしまうのでございます。

 御姉様は問われました。

貴女あなた、どうしてこんな馬鹿なことをなさったの?」

 自殺未遂をしでかした義妹ぎまいに対する、身内として当然のといでした。

 妾は死んで、兄様と一緒になろうとしたのでございます。言うなれば、御姉様への嫉妬心から死のうとしたも同然でございます。その本人からどうしてと問われては……取りつくろう言葉も見つからず、ついつい意地悪く申し上 げてしまいました。

「兄様は、妾を愛してらっしゃるの。御姉様のことよりも、ずっとよ……」

 瘡蓋かさぶたに引きれ満足に動かぬ唇で、そう告げたのでございます。

 すると御姉様は深い溜息をいたかと思うと、しばらく妾を見つめながら何事か思案しあんしていらっしゃいました。そしておもむろに、こんなことをおっしゃるのです。

「主人と貴女あなたの関係には、ずいぶんと前から気づいておりましたのよ」

 妾は、驚きに息を呑みました。

「貴女に差し上げた香水、憶えてらっしゃる? もう使わないからと差し上げた、ゲランのミツコ。使ってくださったのでしょ? 主人から何度も、あの香水が匂いましたの。すぐに貴女からの移り香だと思い至りましたのよ。気づかないふりをするのが良いかと思ったのだけれど……駄目ね、こんなことになるようじゃ」

 そうおっしゃると御姉様は立ち上がり、妾の包帯に手をおかけになりました。そして、するり、するりと包帯をほどき始めるのです。

「貴女、まだ一度も鏡を見てないんですってね。一生残る傷なんでしょ? そりゃ怖いわよね。ワタシだったら嫌、絶対に見たくない。見る前に死んでやるわ」

 御姉様は、なおも包帯をほどき続けます。

「でも、貴女はご覧なさいな。鏡を貸してあげるから、どうぞご覧なさいな」

 包帯がほどけ、ようやくあらわになった妾の顔を見て、御姉様は眉根を寄せられました。

「可哀想に。綺麗なお顔が、台無しね……」

 そうおっしゃるとバッグから手鏡を取り出して、妾の眼前にかざすのです。思わず強く目をつむりました。

「ほら、目を開けて。ほら、ご覧なさいな。貴女のことだから、こうでもしないと逃げ続けるのでしょ? 今見ておくべきよ。ほら! ご覧なさい!」

 気圧けおされてしまいおずおずと目を開きますと、そこには以前とは似つかぬ妾の顔がございました。あまりの変わり様に驚き、思わず小さな悲鳴を上げてしまった程でございます。

 同時に意図せず、次から次へと涙がこぼれだしました。何故このような顔になってしまったのかと、大きな悲しみが襲ってまいりました。

 目尻から口端にかけて走るひときわ大きな瘡蓋かさぶたは、まるで百足むかでが頬に這っているかのよう……他にも大小様々な瘡蓋が顔中を這って微妙な齟齬そごを生み、その積み重なりが顔全体にいびつな引きれを生んでいるのです。

 御姉様の指先が、固く乾いたほほの瘡蓋をなぞります。

「このお顔を見ても、主人は貴女を愛するのかしら……」

 指先が瘡蓋を伝って、頬からゆっくりと口元へと滑ります。頬を伝う涙が、御姉様の指先を濡らしておりました。

「あの人は優しいから、同情して一緒に居てくれるかもしれないわね」

 口元から唇へと移った指先がわずかに口の中へ入り、舌先へ触れました。妾の涙の味が塩辛く、そして苦く感じられました。

「……でもそれって、愛と呼べるのかしら?」

 兄様は容姿で気持ちが変わってしまうような、そんな方ではないわ……そう言い返したかったのですが、自分が自分でなくなってしまった悲しみに、声になりませんでした。そしてこの容姿では、兄様が心変わりしてしまうかもしれない……不覚にもそう思ってしまったのです。くやしくて、涙を流し続けることしか出来ませんでした。

「ちょっと意地悪だったかしら。ごめんなさいね……」

 涙と唾液に濡れた指先をハンカチでぬぐううと、御姉様は包帯を元に戻されました。そして手早く帰り支度を整えて、戸口へと立たれました。ドアに手を掛けたまましばし考えを巡らせ、妾に背を向けたままおっしゃったのです。

「主人がね、泣いていたのよ。貴女と顔を合わせるのが辛いって……。ずっと愛されていないと思っていたけど、それでも良いと思っていたけど……やっと本当の夫婦になれそうな気がするわ」

 御姉様は静かにドアを開け、そのまま振り返えらずに病室を後にされました。

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