第二話 旅立たねばならぬのです

 兄様に抱かれた後、快楽の余韻よいんが去って思うのは、いつも御姉様おねえさまのことでございます。兄様はこのあと御姉様のもとへ行ってしまうのかと思うと、ねたましくて仕方がありませんでした。

 先程も申しました通り、わたしは御姉様をお慕いしておりました。しかしそれ以上に、妬ましく思う気持ちを止められずにいたのです。妾はどう足掻あがいても兄様と添い遂げることが出来ないのに、御姉様は当たり前のように正妻として在る……そのことがうらやましくて仕方がありませんでした。

 兄様はどうして、ずっと一緒に居てくださらないのでしょうか。どうして御姉様のもとへ行ってしまうのでしょうか。「御姉様の所に行かないで、今夜は妾と一緒に居てくださいませ」そのように懇願こんがんしたことも、一度や二度ではございません。そのたびに兄様は妾の髪をでながら、「愛しているのはお前だけだよ」と言ってくださるのです。それなのに、いつも御姉様の待つお家へと行ってしまわれるのです。


 兄様と妾は許されざる関係なのですから、添い遂げることなんてできない……そんなことは解っております。ならばせめて、天国で添い遂げたい……この頃の妾は、そう思い詰めるようになっておりました。

 こらえ切れずに、この願望を兄様に告白したことがございます。兄様は、「馬鹿なことを考えちゃいけないよ。死んでしまえばおまえ、それきりなのだから」と悲しそうな目でおっしゃるのです。もちろん賛成していただけるとは思っておりませんでしたが、それでも兄様にたしなめられて胸が張り裂けんばかりの悲しみに襲われました。やはり、心の底では期待していたのでしょうね。兄様が妾と一緒に、心中してくださることを。

 兄様と共に旅立つことができないのなら、妾だけでも先に旅立てば良いのではないか、先に行って兄様が来られるのを待てば良いのではないか……悲しみに打ちひしがれる中で、今度はそのような考えに囚われ始めました。最初は小さな思いつきであったのですが、旅立たねばならないという思いは日に日に大きくなり、ついには実行に移す日がやって来てしまうのです。


 兄様のお仕事が忙しく、お逢いできない日が続きました。

 家族との夕食を済ませた後、自室で独り寂しさを紛らわせるためにお酒をいただいておりました。普段飲みつけないせいかひどく酔ってしまい、朦朧もうろうとした意識の中で旅立たねばならぬという思いだけがどんどん大きくなっていったのです。

 ふと、鏡台の引き出しに、剃刀かみそりが入っていることに思い至りました。鏡の前に座り、剃刀を手に取ってみました。これを使えば旅立つことができる、そう考え手首へ刃先を当ててみました。少しだけ、ほんの少しだけ力を込めれば、鋭い刃が手首の肉と血管を切り裂いてくれる……たったそれだけで旅立つことができる……解ってはいるのですが、手首に当てた剃刀をピクリとも動かすことが出来ませんでした。向かい合わせに座る鏡の中の妾は、剃刀を手に震えているように見えました。

 ご存知でしたか? 人間は自らを傷つけられないように、そのように出来ているんですってね。でもそれは、正常な判断ができる状況に在ってこそ。妾は一杯、また一杯とお酒をあおって、判断を鈍らせてしまおうと考えました。その時、これはとてもいい考えだと思いましたのよ。だって上手くすれば手首を切るまでもなく、お酒の力で旅立てるかもしれないじゃありませんか。

 鏡の中の妾が誰だか判らなくなるまで何杯もお酒を頂き、目論見もくろみどおり揺れる視界の中で剃刀を引くことに成功いたしました。自らを傷つけることに恐れもいだかず、手首を切り裂く痛みすら感じることもなく、右に在る物を左に移すがごと凡庸ぼんようさをもって、事を成し遂げたのです。

 手首を眼前に差し出して赤黒く流れる血潮をながめておりました。すると鏡の中の誰だか判らない妾も、同じ様に赤黒い流れをうっとりと眺めているのです。手首よりひじへ伝い、ぽたりぽたりとしたたり落ちる様を見ていると、ただただ安堵あんどの気持ちだげが湧き上がり、そのまま眠りへと落ちていったのでございます。次に目覚める時は、きっと天国です。天国で兄様が来られるのを、楽しみに待ち続けるのです……。


 激しく揺さぶられて目覚めました。目覚めたと申しましても、どうやら微睡まどろみに落ちたままのようです。

 お母様の叫び声が、やけに不快に響きます。何を言っているのか理解は出来ませんが、兎にも角にも不快で仕方がありません。お母様。どうか大きな声を、お出しにならないで……。どうかそんなに躰を、お揺すりにならないで……。

 どうか今しばらく眠らせてください、そう伝えようとしましたが声にならず、身を起こそうにも躰ばかりか、指先一つ動かすことすらできませんでした。

 眠りたいのです。何も考えたくない、何も考えられない。今はただただ眠りたい……眠りたいのです……。


 次に目覚めた時には、見知らぬ部屋でベッドに横たわっておりました。

 兄様が何度も何度も、妾の名前を呼んでいらっしゃいます。躰がまるで鉛にでもなってしまったかのように重く、起き上がることすらままなりません。兄様の名前を呼ぼうとしましたが声にならず、情けのないうめき声が漏れるばかりです。

 やがて白衣の方々がいらっしゃって、ようやく此処が病院であると知りました。御医者様が何事かをおっしゃるのですがよく解らず、満足にお応えすることも出来ません。

 御医者様たちが去り再び二人となった病室で、兄様は妾の手を取り涙を流されました。良かった、良かったと、声を震わせながらむせび泣くのです。

 お前の気持ちをもっと考えてやれば良かった……お前が死んでしまっては自分も生きてはいられない……そんな事をおっしゃるのですが、やはり何のことだか理解が出来ず、兄様の手の温もりだけに心地の良さを感じながら、やがて眠りの中へと落ちていくのでした。


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