掌のモルモット、紐のない操り人形

樹一和宏

掌のモルモット、紐のない操り人形


 階段を駆け上がる。切れる息を何度も何度も吸い直す。足の感覚が鈍くなって、段差を踏み外す。額を階段の角にぶつけても、その手を離さず駆け上がる。

 

 ――きっとこの先に、僕達が望んでいたものがあると信じて。


 でも、目の前は遮られ、後ろからの追っ手に僕達は引き剥がされる。もがいて、叫んで、僕の指先から彼女は離れていく。


 ――大丈夫だよ。すぐにまた会えるから。


 

「待っ――」


 目を覚ますと、片腕を伸ばしていた。恥ずかしい。誰も見ていないというのに、僕は「この手は頭を掻くために伸ばしたんですー」と言い訳をするように後頭部へと回した。

 何もかもが白く塗られた四畳半(壁際に置かれたベッドを抜けば、実質二畳半だが)。どうやら実験中に気を失ってしまったようだった。

 起きる動作で、頭に鋭い痛みが走った。顔をしかめてしまう。触ると、包帯が頭に巻かれているのが分かった。


 ……包帯?


 覚えはなかった。大方、気を失った時にどこかにぶつけて、山岡さん当たりが巻いてくれたのだろう。

 壁の時計を見ると時刻は八時だった。記憶だと確か、実験を行ったのが昼の二時だった。だとすると夜八時の可能性のが高いが、朝八時の可能性も捨てきれない。実際、前回気を失った時は丸二日気を失っていたらしいし。

 食堂に行けば分かるか。

 窓一つないこの施設では、一度時間の感覚を失ってしまうと朝か夜かが分からなくなってしまう。そのため朝食が八時、夕食が七時と時間が分けられている。


「おっと」


 部屋を出る間際、お守りを忘れていたことを思い出した。会ったことはないが、母の形見らしい。白い部屋の中で唯一オレンジ色をしたそのお守りはすぐに目についた。

 何のお守りかは分からない。でも山岡さんの言いつけ通りに僕は肌身離さず持ち歩くことにしている。紐の付いたお守りを首に掛けて、シャツの中にしまうと、僕は改めてドアを開けた。

 廊下に出て、食堂へと向かう。山岡さん曰く、小さな小学校ぐらいの広さがあるらしい。

 無機質で殺風景な白い廊下が淡々と続く。

 僕は一度としてこの廊下で誰かとすれ違ったことがなかった。理由は簡単。この施設には僕と山岡さん達だけしか住んでいないからだ。

 ヒトコロス菌。それが僕の体内で根を張っている菌の名前だ。空気感染し、安直な名前通りに、感染後の致死率は100%を誇る。偶然、僕にはヒトコロス菌の耐性があった。それが全ての始まりで、終わりだった。

 物心ついた頃から僕はここにいて、ここから出たことがなかった。毎日山岡さんが部下の二人を連れて【職員室】から出てきて、ヒトコロス菌の実験と称して僕を薬漬けにする。

 これが僕の人生の全てだ。十五年生きてきて、数行で僕の人生は語り終えてしまう。他に何かあるだろうと言われても、本当に何もないのだ。この十五年間ほぼ毎日ヒトコロス菌の実験のためだけに生かされてきた。

 四畳半の狭い部屋、新書が入ることのない小さな図書室、物置になった出入口、窓のない建物、防護服、それが僕の世界の全てだった。

 何千回と歩いた変わり映えのしない廊下を進み、無人の食堂へと辿り着く。厨房も、百人分の席も、今日も寂しそうにその利用者を待っている。

 僕が座る角の席には、誰が用意したのかも分からない僕用の食事が、今日も用意されている……はずだった。

 変わらない毎日のはずだった。つまらない毎日のはずだった。死んでいるのと何も変わらない毎日のはずだった。

 僕がいつも座る席に、女の子が座っていた。

 女の子がこちらに振り返る。僕は一瞬にして、その瞳に引き込まれてしまう。

 長い黒髪、クリーム色の肌、幸の薄そうな顔。

 全身に電流が走ったみたいだった。初めての感覚。長い間を置いて(いや一瞬だったかもしれない)、僕はようやく声を出すことに成功する。


「……君は誰?」


 女の子は口に微笑みを浮かべつつも、物悲しそうに目尻を下げた。


「アキだよ」


 今にも消えてしまいそうな儚げな声。僕はその子の名前を復唱して、咀嚼して、飲み込んだ。良い名前、なんて味なことは言わない。でもアキという名前は僕の中にすんなりと浸透して、あたかも元から知っていたかのように馴染んでいく。

 ふと僕は良くないことに気がついて、急いで口を両手で覆った。

 アキが不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの?」

「早くここから出て行った方がいい。僕はヒトコロス菌っていう人を殺す菌を持っているんだ」


 アキと名乗った女の子は声に出して笑い始めた。何か面白いこと言ったか? と今言った台詞を頭の中でもう一度繰り返してみる。


「よく見て」女の子が自分の着ている無地の白いTシャツの裾を引っ張ってみせてきた。

「……僕と同じ服。ペアルック」

「そういう意味じゃないよ!」


 僕の服は支給されている服だ。それと同じ服を着ているということは


「もしかして君も、ヒトコロス菌の耐性があるの?」

「正解。その通り」


 アキがニッコリと微笑む。

 本で読んだ運命的な出会い方でも、奇跡的な出会い方でも、ドラマチックな出会い方でもない。ただの食堂で出会っただけの僕らしい、つまらない出会い方だ。でもシチュエーションなんて関係ない。


「これからよろしくね」

「うん、よろしく」


 僕はたったこれだけで、恋に落ちてしまった。


 ※

 

「ここの生活ってつまらないよね」


 隣に座るアキが本当につまらなそうにあくびを掻いた。


「しょーがないよ。そーいう場所だもん」

「野球拳でもする?」


 ベッドのクッションを使って、アキが大きく体を跳ねさせた。


「お互い一回勝負で終わっちゃうじゃん」


 アキが来てから僕の生活は大きく変わった。まず何よりも誰かと気兼ねなく喋れるという点だ。山岡さんと喋れるのは実験の時間の間だけだし、しかもそこには一切喋らない部下二人が随伴している。部下の人の無言の圧力のせいもあるが、山岡さんは良くも悪くもいつも一定の距離を保って僕と接してくる。互いを不愉快にさせずも、愉快にもさせない距離だ。しかしアキは違う。防護服越しではなく、生身なのだ。息遣いを感じて、こうして隣に座れば微弱な温度さえも感じる。


「残念、私はこの下に更に着てますー」

「え、そうなの」

「今、変なこと想像したでしょ」

「例えば?」

「私の下……って、言わせようしないでよ!」


 アキが冗談交じりに僕の肩を叩いてきて、僕は思わず笑ってしまう。


「そっちが勝手に自爆したんだろ」と僕もアキの肩を突き返す。


 誰かと触れ合える。誰かと笑い合える。温度を感じて、感情を共有出来ることが、僕には堪らなく嬉しかった。ずっと孤独に蹂躙されて、一度食事の時に出てきたナイフで自殺未遂をしたことがあるほどの僕が、今は毎日が楽しいと思えるほどにだ。

 アキはよく僕の部屋に遊びに来て、こうして一緒にベッドの端に腰掛けた。アキが来てから一ヶ月、僕らがする会話に、中身があったことなんて一度もなかった。それでも僕は充実した毎日を感じていた。


「あ、そろそろ行かなきゃ」とアキが時計を見て立ち上がった。


 僕も釣られて時計を見ると、もう昼の二時近くになっていて、恒例の実験の時間に差し迫っていた。


「頑張って」とガッツのポーズをすると

「そっちもね」とアキはガッツのポーズを仕返して、部屋から出て行った。


 僕は再び時計を見上げた。再びアキと会える夕食までの時間を計算すると、僕は大きく溜息を吐いて、ベッドに倒れ込んだ。


「あと五時間かー、長いなー」


 僕は自分の実験が始まる四時まで軽く一眠りすることにした。


 ※


「ハジメくん、最近楽しそうだね」と山岡さんは次の注射の準備を進めながら言った。

「え、そうですか?」

「もしかして、アキちゃんかい?」


 違いますよって否定したい所だが、恥ずかしながら山岡さんの指摘は的中していた。


「お、顔が赤くなってるよ」

「からかわないでください!」


 山岡さんがおかしそうにいつもの癖で肩を上下にして笑った。防護服越しではその表情は一切分からない。

【処置室】と呼ばれるここには大量の機材が並んでいた。何に使われるのか分からない大型の機械から、よく使われる小型の物まで。更には僕をビビらせるためにあるのではと思ってしまうメスやらドリル何かが綺麗に並んで置かれている。その大半が使われている所を見たことがないが、このまま使われないといいな、とは思っている。

 この部屋で僕はヒトコロス菌の研究のために日夜薬を打たれている。椅子に固定されて、薬を注射され、体の反応を分析されるのだ。


「それじゃあ注射するよ。静かにしてー」


 僕は天井の白い照明に目をやった。目を閉じると神経が研ぎ澄まされて、逆に痛みが増す気がするからだ。

 左腕が圧迫され、チクリと痛みが走った。


「今日のは少し手足が痺れるかもしれないから」

「はい。分かりました」


 痺れ、吐き気、感覚麻痺、思考麻痺、目眩、高温、低温、呼吸不全、腹痛、頭痛、意識障害、出血、等々……

 僕はこの何千回と行われた人体実験において何度も臨死体験を味わった。だから手足が痺れる程度なら何も問題なかった。

 

 その日の実験は滞りなく終わった。手足の痺れも大したものじゃなかった。手を握っては開いてを繰り返し、その感覚を確かめる。


「よし」


 万全なことを確かめ終えると、僕は小走りで食堂へと向かった。食堂へ入るや否やは僕は「アキ」と彼女の名前を呼んだ。

 いつもの席でボケーッとしていたアキがハッとして、僕の方を見た。すぐにパッと笑う。


「遅いよ。先に食べちゃおうかと思ったんだから」

「ごめんごめん、言い訳はしないよ」


 僕が席に着くと、二人して「いただきます」を言って僕らは食事を始めた。

 ご飯と味噌汁、ほうれん草のゴマ和えと焼き魚と卵焼き。相変わらずの質素な食事だ。それでもアキはいつも美味しそうに一つ一つを口に運んでいく。

 つい見惚れていると


「ん、何? あげないよ」とお盆を引っ込められた。

「取らないよ」


 今日の実験のこととか、昔あったことなどを、僕らはダラダラと話しながら食事を続けた。食べ終わっても、僕らは席を立つことなく、椅子に腰掛けたまま話を続けた。

 この流れは最早定番になっている。どちらがこうしようと言い出した訳じゃない。自然とそういう流れになったのだ。

 その翌日も、その翌日も、僕らは一緒に居続けた。寝る時間と実験の時間を除いて、僕らは寄り添うように隣に居続けた。

 僕の部屋で、食堂で、時には図書室に足を運んで、使われない部屋を練り歩いて、封鎖された出入口を物色して、僕らはつまらない毎日を二人だけで過ごした。

 ……いや、つまらならくはなかった。僕にとってはどんな些細なことも、きっとアキがつまらないと思っていることも、僕には楽しかった。

 一人で食事をすることがなくなった。死ぬことについて考える夜の時間がなくなった。孤独に押し潰されていた時間の全てが、アキについて考える時間になった。

 必ず飛び跳ねる寝癖の位置も、好きな物は最後に食べようする所も、くしゃみをする時体が跳ねてしまう所も、全部が愛おしくて堪らなかった。

 そんなストーカーみたいな僕だから


 ――あの日、アキの顔に影が差した瞬間を、僕は見逃さなかった。


 ※

 

 その日、頭の包帯が外された。包帯が付いてから三ヶ月経った頃のことだった。


「薬の副作用で気を失って、椅子から落ちた時にぶつけてしまったんだよ」


 山岡さんの語った真実は、僕が予想していた通りのことだった。

 ずっと拘束されているような煩わしさを感じていたから、何だか頭がスッキリした。

 実験が早く終わったことも重なり、僕は浮き足立って食堂へと向かった。

「アキ」といつもの調子で食堂へと入る。既に席についていたアキの体がビクリと跳ねた。

 だいぶ驚いたようで、僕の顔を見るなり、目を大きく見開いた。


「そんなに驚いた? 今日は実験が早く終わったんだよ」

「え……あ、そうなの……良かったね……」


 いつもの反応じゃなかった。


「どうした?」

「あ、いや、その、包帯、取れたんだ、って思って」

「うん、治るのに大分かかっちゃったよ……アキ?」


 名前を呼ぶと、アキがハッとして我に返ったように「あ、ごめん」と目の前で今のなし、と言いたげに手を振った。


「少し驚いちゃっただけ。怪我が治って良かったね」

「うん、ありがとう」


 アキは笑っていた。いつものように。嬉しそうに。そして、どこか寂しげに。

 その日以来、アキの様子がどこかおかしかった。以前より無邪気さが減ったような、何か僕に隠し事をしているような、そんな気がしたのだ。思い当たることは一つしかなかった。この狭い世界で、問題あるとしたらあの実験だけだ。

 アキが二時に処置室に入っていくのを見届けた後、僕はしばらくしてから再び処置室へと向かった。アキがどんな実験をされているのか見るためだ。場合によっては僕は止めるかもしれない。

 足音を立てないように裸足になって、ドアに忍び寄る。耳を当てると、山岡さんとアキの声が聞こえてきた。会話しているようだが、内容までは分からなかった。会話が終わり、一瞬の静寂が訪れる。直後、僕の耳に聞こえたのは悲鳴だった。

 断続的に何度も悲鳴が上がる。悲鳴を上げまいと食いしばるが、それでも声が出てしまうような苦痛に満ちたものだった。

 恐る恐るドアを開け、隙間から中を覗いた。そして目に飛び込んできた光景に、僕は絶句した。

 椅子に縛り付けられ、タオルを咥え、頭に機械を被せられたアキが体を何度も跳ね上がらせてもがき苦しんでいたのだ。アキが悲鳴を上げて体を跳ね上がらせる度に、バチバチと電気の音が部屋に満ちた。

 衝動に駆られて、僕は飛び込もうと一歩を踏み出した。瞬間、一番手前にいた部下の一人がこちらを振り向いた。目が合った。ギョロリとした不気味な目がこちらを凝視する。そこから一歩でも踏み込めば「殺す」と言わんばかりの威圧が、僕の全身にのしかかった。刹那、力関係がハッキリと分かった。僕では足下にも及ばない。

 僕は踏み出した一歩を戻すと、ゆっくりドアを閉じた。ドア越しに聞こえるアキの悲鳴。僕は耳を塞いで、目を塞いだ。何も出来ない自分が情けなくて、ただひたすら謝ることしか出来なかった。

 その日の夕食は、いつもなら先に来て待っているはずのアキが僕より後に来た。


「ごめん、寝坊しちゃった」とアキはいつもの調子で笑った。

「実験大変だったの?」

「全然、いつも通りだったよ」

「……いつも通り?」

「うん、いつも通り山岡さんと喋って、注射して、終わり。寝坊したのはたぶん、副作用がキツかったのかもね。あーそんなこよりお腹減っちゃったよー」


 アキの笑顔が偽物に見えた。どうしてアキは嘘をつくのだろう。僕は食事の最中、


「アキは嘘をつくってどう思う?」


 と訊いた。アキは手は止め、しばらくして僕の方を見ると


「誰かのための嘘なら良いと思うよ」と悟っているような大人びた顔をした。

「でも、嘘つかれている人にとったら、たとえその人のためでも嘘をつかれているっていう事実が酷いと僕は思うんだ」

「うん。そうかもね。結局は裏切っているのと一緒だもんね。でも私は空回りな偽善だとしても、真実だけが正しいなんて思いたくないの」


 アキが何を言いたいのか、さっぱり分からなかった。

 翌日も、僕はアキの実験を見に行った。その翌日も。その翌日も。

 アキの体を痛めつける実験は全く変わらず、寧ろそれは次第にエスカレートしているように思えた。昨日チラと見えたアキの服の下に、痣があった。僕は酷くショックを受けた。

 僕に何が出来るかといくら考えても、脳裏に焼き付いたあのギョロリとした目が僕の足を竦ませた。


 ※


 それを見つけたのは偶然だった。

 僕の実験が終わり、食堂へと向かっている最中だった。服の上からお守りを握る癖をしようとした時、僕はお守りを処置室に忘れてきてしまったことに気がついた。

 別になくて困るものではないが、ないと不安になるものだ。

 僕は急いで処置室へと戻り、お守りを取りに戻った。お守りはすぐに見つかった。恐らく実験の際、服を脱がされた時に落ちてしまったのだろう。お守りは椅子の下にあった。


「ん?」


 お守りの隣に、白い紙が一緒に落ちていた。僕はそれも拾い、見てみることにした。

 そこに書かれていたものに、僕は言葉を失った。

 それは館内地図だった。食堂や図書室、僕の部屋やアキの部屋など更には僕が知らない隠し部屋までが書かれていたのだ。しかし問題はそこではなかった。問題は僕が十五年間生活してきたこの建物の五倍以上の広さを持った、別館が存在することだった。

 僕が今まで山岡さん達が住んでいると思っていた職員室の奥は連絡通路になっていて、別館へと続いている構図になっている。

 そんな馬鹿な、と思い、僕は試しに地図に書かれた【資料室】と書かれた知らない部屋に行くことにした。

 そこは空き部屋と空き部屋の間の壁だった。入口らしきものは見当たらない。しかしよく考えてみると部屋と部屋の間隔が妙に広いような気もしてくる。

 僕は右の部屋から左の部屋にかけて、壁に手を触れながら歩いた。そして中腹に来た頃、小さな茶色いシミに僕は触れた。途端、空気が抜けるような音と共に、壁がスライドして部屋が現れた。

 足を踏み入れる。部屋の大きさは僕の部屋の四倍ほどで、壁一面に本やファイルが並んでいた。部屋の中央奥にはこれ見よがしな大きなモニターが鎮座していた。

 軽くモニターに触れてみる。どうやらそれはタッチパネルだったようで、真っ暗だった画面が光だし、僕は目を細めた。

 画面に表示される『スリープモード……解除中』の文字。やがて画面は再び暗転し、次に点いた画面に、僕は全身に泡立つのを感じた。


 名前設定:ハジメ〈本名:飯田一〉

 年齢設定:十五〈実年齢と一緒とする〉

 家族設定:ハジメのヒトコロス菌より全員死亡〈家族からの了承有り〉

 軟禁理由設定:ヒトコロス菌の所持〈ヒトコロス菌の設定については別途資料参照〉

 音声採取方法:お守り


「……設定、って……なんだよこれ」


 僕はハッとして、お守りを開けて中身を取り出した。黒い四角形の塊が出てきた。端っこには赤いLEDライトが点灯していた。

 ヒッと僕は無意識に声を上げ、それを放り投げた。


『そのお守りはお母さんの形見だから、肌身離さず持ち歩くんだよ』


 僕の世界の全てが音を立てて崩れ始める。何が本物で嘘なのか、何が真実で偽物なのか、自分自身さえも分からなくなってくる。

 僕は駆け出して食堂へと向かった。運動不足がたたって、あっという間に息が切れてしまう。飛び込むように食堂に入ると、アキがいた。


「どうしたのそんなに慌てて」

「君はどっちなの!?」


 唐突なはずの僕の質問に、アキは戸惑うことはなかった。全部知ったように澄んだ顔をしていた。


「安心して、私は本物だよ」


 僕はアキの手を取ると、職員室へと向かって走り出した。


「逃げよう!」

「どうして?」

「どうしてって、そりゃ…… 君を守るためだよ!」


 この施設は嘘をついてきた。家族が死んだことも、お守りのことも、ヒトコロス菌のことも、十五年間も嘘をついて僕の人生を奪ってきた。あの孤独な日々を思い返すと、許されるものじゃない。それになにより、僕はこれ以上、アキが酷い目に遭うことが堪えられそうになかった。

 僕より辛い目にあってるのに、僕を心配させないように平然と嘘をつく。そんなことをさせるのが、辛くて辛くて堪らなかった。ヒトコロス菌が嘘ならば、僕達がこうして実験と称して痛めつけられるのはおかしいじゃないか。


「でも、ここから出て、どうやって生きてくの?」

「そんなもの僕がどうにかしてみせるよ!」


 職員室のドアを開けた。一度も見たことがなかったが、そこには僕が想像していた職員室の風景はなかった。殺風景な空虚な廊下がただ真っ直ぐに続いていた。

 走りながらさっきの地図を見る。出入口となる場所を探すと、それは別館の九階にあった。何で九階に、と思ったが、よく見ればそこはF1と書かれ、僕達が生活していた場所はB8と書かれていた。

 別館に入ると、そこは今まで僕達が住んでいた場所とは全く違う雰囲気だった。ポスターが貼られ、自動販売機が置かれ、観葉植物が並べられ、僕達の所にはなかった人の営みが感じられた。

 階段に向かう。途中、館内を埋め尽くすようなけたたましいサイレンと赤ランプが点灯した。心を煽る不安と恐怖。

 階段が見えた。あとは上るだけ、と思った矢先、「止まれ!」という怒号に似た大声が聞こえた。振り向けば、十人近くの大人が僕達に向かって走ってきていた。


「急ごう!」


 僕はアキの手を引っ張って、階段を駆け上り始めた。

 疲労は既に限界に来ていた。体中のあらゆるものが機能不全を起こしているのが分かる。吐き気にも似た気持ちの悪さと、頭に血が回りきっていないような気分の悪さ。視界の隅が黒くなり始めていた。でも、それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 階段を駆け上がる。切れる息を何度も何度も吸い直す。足の感覚が鈍くなって、段差を踏み外す。額を階段の角にぶつけても、その手を離さず駆け上がる。


 ――きっとこの先に、僕達が望んでいたものがあると信じて。


 息をしているのに、息をしていないようだった。額を切ったようで、汗を拭うと手が真っ赤に染まった。

 B1を過ぎた。B1とF1の間の踊り場へと辿り着く。あと少しで……

 上を見上げる。そこには出口が待っているはずだった。外に出て、僕達は本物の世界で暮らし始めるはずだった。でも現実は違った。階段の上で待っていたのは十人ほどの大人達だった。

 引き返そうとした。でも下からも追いかけてきていた大人達は、すぐ目の前にまで迫ってきていた。跳ね上がる鼓動。止まる呼吸。真っ白になる頭。僕とアキは目を合わせた。

 直後、僕の体が後ろへと思いっきり引っ張られた。アキも捕まえられ、僕達は引き剥がされていく。


「やめろ! 離せぇ!」


 もがいて、叫んで、僕は手を伸ばす。でも、アキは僕へと手を伸ばそうとはしなかった。


「アキぃい!」

「いい加減にしろ!」


 鈍い痛みが頭を襲った。痛がる暇もなく、視界がぐるりと回り、光が失われる。

 真っ暗になった世界、途切れる意識の中、アキの声が聞こえた。


「大丈夫だよ。すぐにまた会えるから」


 ――第二十回、シミュレーション実験終了。七十二時間のインターバルを挟んだ後、二十一回目を実施します。各職員はレポートの提出と担当設備の点検を行ってください。

 被験者担当の山岡は速やかに記憶リセットの処置を行い、設定を行ってください。


 ※


「待っ――」


 目を覚ますと、片腕を伸ばしていた。恥ずかしい。誰も見ていないというのに、僕は「この手は頭を掻くために伸ばしたんですー」と言い訳をするように後頭部へと回した。


 ※


「……君は誰?」


 女の子は口に微笑みを浮かべつつも、物悲しそうに目尻を下げた。


「アキだよ」


 今にも消えてしまいそうな儚げな声。

 僕はその子の名前を復唱して、咀嚼して、飲み込んだ。良い名前、なんて味なことは言わない。でもアキという名前は僕の中にすんなりと浸透して、あたかも元から知っていたかのように馴染んでいく……違う、知っている。知っていた。アキという名前、食堂でのこの光景に酷いデジャブを感じた。


「……ねぇ、僕達、どこかで会ったことない?」


 アキと名乗った女の子が大きく目を見開いた。


「どこか……って、どこで?」

「いや、ごめん。それは分からないんだ……ただ、そんな気がして」

「気のせいだよ。私達は今日、初めて会ったんだから」


 ※


 最近、既視感をよく覚える。十九年間も同じ所をぐるぐる回っているのだから、そりゃそんな錯覚を感じるのも当然かもしれないけど、それにしても最近は吐き気を感じるほどの既視感によく遭遇する。一度したことがあるような話題。何故か知っている話のオチ。

 アキと会話をしていると、その既視感に遭遇することが多いような気がした。


 ――このお守りは何だか持っていちゃいけない気がする。


 母の形見だと言われても説得力を感じず、僕はお守りを部屋の机に放り投げたまま何日も放置をしている。

 頭の包帯が取れたその日。アキが寂しそうな顔をした。それもどこかで経験したことがあるような気がした。でも、どこで? いつ経験した?

 居心地の悪ささえ感じる既視感の正体を追って、僕は就寝時間を過ぎてから部屋を抜け出した。やってきたのは、たくさんある空き部屋が並んだ廊下だった。

 空き部屋を一つ一つ覗いていく。この中のどれか一つが、空き部屋じゃなかった気がした。そして強い違和感に襲われたのは五個目と六個目の間でのことだった。


「このシミ」


 茶色い小さな斑点。僕がそれに触れると、空気が抜けるような音と共に、目の前の壁がスライドして部屋が現れた。


「ここだ」部屋に入り、僕の既視感は確信へと変わっていく。

「こんなに早く来ると思わなかったよ」


 薄暗い部屋の中、巨大なモニター前の椅子に誰かが座っていた。


「誰だ?」

「忘れてしまったのかい? 酷いな、毎日会っているじゃないか」

「もしかして」


 モニターが点いた。突然の明かりに目を細めた。やがて光に慣れてきて、モニターの光に照らされた人物の顔がハッキリとしてくる。鼻の下に立派な髭を生やした大人だった。その顔に見覚えはなかった。でも、その声には聞き覚えがあった。


「山岡さんですか?」

「その通り。こうして生身で会うのは初めてだね」

「……生身ってヒトコロス菌は大丈夫なんですか?」

「ああ、大丈夫だよ。ヒトコロス菌なんて君たちをここにとどめておくために作られた適当な嘘だからね。君も本当は薄々気付いていたんじゃないのかい?」

「まぁ、せめて僕とアキにマスクぐらいさせた方が説得力が増したかもしれませんよ」

「確かに、言われてみればそうだね」山岡さんが肩を上下させて笑った。

「山岡さん、本題を話しましょう。何か僕に用があったんじゃないんですか? 僕がこうしてここに辿り着くことは、そちらにとって掌の出来事の一つに過ぎないんでしょう?」

「嫌だねぇ。四年前の君はもっと可愛らしかったのに。どうしてこんなに険の強い子になっちゃったんだろうね」


 僕は何も返事をしなかった。山岡さんは冗談も通じないのか、と言いたげに両手を挙げて首を横に振った。


「分かったよ。こうして互いに人目を盗んで就寝時間にここに来たんだ。本当のことを話そう」


 そうして山岡さんは、僕がこれまで生活してきた十九年間が、全て嘘で塗り固められた張りぼての世界だったことを教えてくれた。


「そこで君は思うわけだ。どうしてそんなことをするのかって」


 僕は固唾を呑んだ。


「結論から言おう。これは愛の実験なんだよ」

「愛?」

「人類発祥から六百万年。我々人間は他者を愛し、愛されここまで繁栄した。そこである日、とある学者こう疑問に思った。人間は同じ人間を何度愛することが出来るか、とね。そこでこの施設が作られた。衣食住が用意された二人だけの空間と、互いに辛い目に遭う現状。そして真実を知った時、愛を貫いて二人は全てを捨て去ることが出来るのか、とね。ちなみに今回でこの実験は丁度三十六回目を迎える」

「……じゃあ僕は、もう何度も同じことを繰り返しているっていうんですか?」

「その通り。正確には十歳の頃からだね。記憶を消す薬も効きにくくなってきていてね。君の体が薬に慣れ始めたのと、何度も同じ経験をし過ぎて、消しにくくなっているんだと思う」


 どこまでが嘘で、どこまでが真実なのか、境界が分からなくなっていく。こうして山岡さん話していることが嘘で実験の一つの可能性もある。


「訊きたいことがあります。どうして山岡さんは僕に真実を教えてくれたんですか。山岡さんが話してくれたことが全部本当なら、山岡さんが態々僕の前に現れて、説明する必要がなかったはずです。これまで通りにモニターで全て設定だったというものを見せればよかったはずですよね?」

「情が移った。と、言うのかね……私は学者だが、それ以前に君達と同じ心を持つ人間だ。何度も君が彼女のためにこの施設から逃げ出そうとする姿を見て、心打たれてしまったんだよ」


 山岡さんが僕の元にやってきて、一枚のメモを渡してきた。


「そこに書かれた時間帯は比較的に警備が手薄だ。あとは君次第だ」


 山岡さんは僕の横を通り過ぎると、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 僕はメモを睨みつけると、今、何をするのが正しいのかを考えた。

 このメモは罠かも知れない。捕まるかもしれない。そして僕はまた記憶を失ってしまうかもしれない。でも一パーセントでも僕とアキがここから出られる可能性があるのなら、僕はそれに賭けてみたいと思った。

 これ以上、アキが苦しむ姿は見たくない。ただそれだけのために。

 僕は意を決し、拳を握った。


 ※


「……君は誰?」と彼はまた言った。


 その度に私はやっぱり忘れちゃったんだって少し泣きそうになる。


『本当に君の記憶はリセットしなくていいのかい? 後悔すると思うよ?』

『構いません。私はどんなことがあっても絶対にハジメくんのことを忘れたくないんです』

『分かった……ただ、他の職員を騙すために、記憶がなくなったフリはし続けてくれよ』


 私が笑うと、ハジメくんは安心したみたいに顔を綻ばせる。

 彼の包帯が外されると、ハジメくんに見せつけるための痛い実験が始まる。だから私は包帯が取れる度にドキッとする。痛いのが嫌だからじゃない。終わりの始まりを予感するからだ。

 でも、どんなに痛くたって構わない。何百、何千、何万回繰り返したって構わない。たとえそれが人工的に作られた愛でも構わない。彼が私のために手を引っ張ってくれる度に、私の心は満たされる。


「逃げよう!」

「どうして?」

「どうしてって、そりゃ…… 君を守るためだよ!」


 私は言われる度に笑いそうになってしまう。

 離さないように、離れないように、しっかりと私は手を握る。


 ――きっとこの先に、私達が望んでいたものがあると信じて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

掌のモルモット、紐のない操り人形 樹一和宏 @hitobasira1129

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ