其之後 颯爽北部尉

 洛陽らくようは古くから栄える大都市であり、後漢の都である。広大な領土の中心にあって、まさに中原ちゅうげんの地に立地する。平地にあって交通の便が良く、西は副都・長安ちょうあんと、東は各州都と繋がる。西には函谷関かんこくかん、東には汜水関しすいかんという堅固な関所があって都を守っているだけでなく、北には邙山ぼうざんの山並みと河水がすい(黄河)があり、南には河水支流の洛水が流れ、地勢的にも優れていた。

 陰陽道における陰は山の北、または川の南を、陽は山の南、または川の北を意味するので、洛陽という地名は洛水の北に位置するところから来ている。

 その洛水からは水が引かれ、濠が城外に巡らされている。城壁は高く堅固で、東西南北に十二の城門をようする。

 城内には北宮・南宮という二つの宮殿が築かれていて、天下の中心人物である皇帝が住まい、重大な政策はここで朝議にかけられた。

 また、政治の中心となる太尉たいい府・司徒しと府・司空しくう府という三つの行政府があり、商業の中心として、金市・馬市・羊市の三つの市場が作られている。交易のために各地各国から商人たちが上洛してきていて、外国の珍しい品々も売り買いされた。

 城外南には勉学の中心である太学たいがく(国立大学)があり、全国の優秀な頭脳が集まってきていた。西の郊外にある白馬寺は中国初の仏教寺院で、明帝の時代に建立された。布教活動の中心施設である。西域から移民してきた人々がその近くに住んでいた。政治・経済・民族、まさに、天地人の中心となっている都である。

 皇族、貴族、官吏、商人、農夫、外国人……。老若男女様々な人々でにぎわう洛陽城内。多くの人々が行き交う大通り。官府から出て来た若者がその中を威風堂々歩いていく。

 曹操そうそう孟徳もうとく熹平きへい三(一七四)年のこの年、二十歳。官職は――――。

「ふざけんじゃねぇ!」

 ふと、罵声が飛び込んできた。その方向に顔を向けると、チンピラ数人の横暴が目に入った。大通りから横に伸びる路地で露天商相手に絡んでいる。通行人をおどしてそれを排除しながら、我が物顔でその路地を占拠していた。

「インチキ野郎め。こんな石ころがどうしたってんだよ?」

 茣蓙ござの上には恐らく売り物だろう、色とりどりの石が並べられていて、チンピラ共はそれを足蹴あしげにして辺り一面にぶちまけた。

「俺たちを怒らせた代わりだ。こいつはもらっとくぞ」

 チンピラの一人がそう言って、一番高く売れそうな玉石を店主の了承なくふところに入れた。

「待ってくだされ。そんなことをしたら、本当に罰が当たります」

「だったら、当ててみろってんだ、よ!」

 チンピラ共は露天の売り物に手を付けても金を払おうともしない上、その店主を足蹴にする無法ぶりである。曹操の目つきが鋭くなった。

「お前ら、何を騒いでいる?」

「何だ、てめぇは?」

 頬に傷があるいかつい顔の男が凄んできた。チンピラのかしらだろうか。曹操は全く動じない。

「聞いているのはオレだ。答えろ」

 かつて放蕩無頼ほうとうぶらいの生活をしていた曹操である。このようなやからの扱いには慣れている。

「ああん? このジジイが悪ぃんだよ。出鱈目でたらめを言って俺たちを愚弄しやがった」

「どんな出鱈目だ?」

「こんな石ころを聖なるものだとかほざくからよ、こんな風に足で突いてやったら、今度は罰が当たると言い出しやがったのよ」

 そのチンピラは転がった石の一つを足で突いて説明した。

「ほう、天罰か」

「何を納得してやがる。そんなわけあるか。いいか、聞いて驚くなよ。俺たちは今をときめく中常侍ちゅうじょうじ曹節そうせつ様の女婿じょせい馮方ふうほう様の子弟だ。恐れ入ったら、さっさと帰んな。ひゃははは!」

 馮方。権勢を誇る濁流派の高官だ。このチンピラ共はその虎の威を借るきつねである。しかし、そんなものを恐れる曹操ではない。敢然かんぜんと言い放つ。

「恐喝罪に横領罪と不法占拠罪だな」

「あん? 今、何て言ったんだ?」

「恐喝罪、横領罪、不法占拠罪といった。相手を脅し、他人の物や公道を不法に自分のものにすることだ」

 曹操はご丁寧にも分かりやすく説明してやった。

「それがどうした。文句あるのかよ?」

「それ以上続けていると、そのうち部尉の兵たちが騒ぎを聞きつけてやってくるぞ。オレが歓待してやろう。共に参ろうではないか」

「おお、そういうことか。そりゃあいい。話の分かる奴だ」

 チンピラ共は曹操が自分たち権威に取り入ろうとしているのだと勘違いした。

 洛陽には東西南北に四人の部尉がおり、城内各地域の治安を守る警察の役目を担っている。曹操は身をかがめると、ぶちまけられた売り物を一つ拾った。小さな玉石に仏像が彫られている。曹操は白馬寺に出入りすることがあって、それが仏像だと分かった。

「これは西域のものか?」

「はい。于闐うてんのものでございます」

 于闐とは西域せいいき諸国の一つだ。洛陽からは一万七千里(約四千八百キロメートル以上)も離れているところにある。広大なタクラマカン砂漠の南西に位置し、西域諸国の中でいち早く仏教が伝来したと言われる。南には天に届くかような崑崙山こんろんざんの山並みが悠然とそびえる。崑崙山から採れる玉石は特に有名で、この特産品が交易品として中国に入ることから、漢と西域をへだてる関所は〝玉門関ぎょくもんかん〟の名が付けられた。

「こんな無知な輩に浮屠ふとの教えは届くまい」

「浮屠を御存知なので?」

「ああ少しな」

 仏教は伝来して日が浅い。曹操がまだ阿瞞あまんだった頃から白馬寺で支讖しせん安世高あんせいこうという二人の高僧が仏経典ぶっきょうてん訳経やっきょうに従事していたが、まだその教えは広く浸透していない。

「おい、何やってやがる。さっさと行こうぜ」

 後ろからチンピラ共の急かす声がした。曹操はその一人がかすめた玉石の代金を払ってやり、チンピラ共を連れてその場を後にした。

「ありがとうございました。御仏みほとけの御加護がありますように」

 どこかで聞いたことのある声が聞こえ、曹操が振り返った時、もう露天商の姿は忽然こつぜんと消えていた。残っていたのは茣蓙と壁際の小さなつぼだけであった。

「罰じゃなくて、酒と肉に当たったな」

「はっはは、その通りだ。馮方様の名前を出せば、お近づきになりてぇって奴が山ほどいるからな」

 チンピラ共は勝手なことを口にしながら、呑気に曹操の後を付いてくる。

「ちょっと待て。城外に出るのかよ?」

 曹操とチンピラ一行は洛陽城十二門の一つ、上西じょうせい門の前に来ていた。

「ここでお前たちを歓待する」

「あん? どういうことだ。さっぱり分からねぇぞ」

「今に分かる」

 曹操は城門脇の門兵屯所にずかずかと入っていった。代わりに出て来たのは門兵たちだった。彼らは有無を言わさず、チンピラ共を取り押さえた。

「何だ、何だってんだ?」

 それには兵たちに続いて出て来た曹操が答えた。

「洛陽北部尉ほくぶいの名において、お前たちを逮捕する」

 曹操孟徳の官職――――洛陽北部尉。今朝、そう決まった。


 北部尉は洛陽城内北部エリアの治安を受け持つと共に、四つの城門の門衛も兼ねる。四つの門とは、上東じょうとう門・上西門・門・こく門である。曹操はこの四つの門の修繕を行い、屯所を設けた。また、新たに赤・青・黄・白・黒の五色の棍棒こんぼうを作って、門の左右に十余りをぶら下げた。法を犯した者への懲罰ちょうばつ用棍棒である。名付けて〝五彩棒ごさいぼう〟という。

 木製の棍棒は木の種類と大きさが違っていて、罪の重さによって、使う棍棒の種類を決定する。何人か法を犯した者があり、その中には貴族や現役官僚もいたが、曹操はことごとく棒叩きの刑に処した。

 その辣腕らつわんぶりは一カ月もするとすっかり有名になって、曹操が管轄する北部エリアの風紀は粛然となった。

 曹操が孝廉こうれんに挙げられたのは去年のことである。当然ながら、孝行的行為とは縁の薄い曹操が孝廉という官吏登用制度に推挙されたのは、もちろん儒教的素養というよりも、名士たちの評価が大きく関係している。

 曹操(吉利きつり)を高く評価した橋玄きょうげんの言葉は尚書しょうしょ右丞うじょう(人事局副官)の司馬防しばぼうの耳に入った。

 司馬防、あざな建公けんこう河内かだい郡温県の人で、後に曹操に仕える司馬懿しばいの父である。

 この司馬防が曹操を尚書台(総務院兼人事局)に推薦した。

 曹操はろう(官僚候補生)となったが、間もなく洛陽北部尉の職があてがわれた。

 孝廉に挙げられてから、権勢ある出自であることもあって、とんとん拍子に官職を得るまでになったわりには授けられた官職は小さなものだった。

『物騒な事件が続いているから、期待されたかな』

 北部尉の内示を受けた時、曹操はそう勘繰かんぐった。

 半年ほど前から洛陽では凶悪な強盗事件が続いていて、民心の不安が募っていたのだ。聞くところによれば、曹操が北部尉に就任する少し前、袁家の屋敷もその強盗集団の被害にあったという。

『富貴が過ぎるとねたみを買い、欲にかられた者たちにその財貨を狙われる』

 曹操はその話を聞いた時、そう思っただけで気にも留めなかった。

「……就任早々、派手にやったようだな。もう話題になっているぞ」

 曹操の父、曹嵩そうすうあざな巨高きょこうという。曹嵩は屋敷に勤め先の官府から戻ってきて、門前で出迎えた曹操に顔をしかめて言った。

「ああ、あんなのは取るに足りません。最初が肝心ですからね」

 曹操は逮捕したチンピラ五人を衆人環視の中、棍棒こんぼうで打ちすえたのだ。

「――――私は此度こたび洛陽北部尉を拝命した曹操である。この者たちは商人を脅し、売り物を毀損きそんし、公道を占拠した。故に一つの罪につき五打、三つの罪で十五打の棒叩きの刑に科す」

「――――若造がふざけんじゃねぇ! 後でどうなるか分かってんのかぁ?」

 チンピラの頭らしき男が拘束された体をじらせて意気がった。

「――――ふざけていない。無法者は厳法で歓待する。こいつを抑えつけろ」

 曹操は兵士たち命じてチンピラ頭を抑えつけさせ、容赦なくかしの木で作られた棍棒をその背中に浴びせた。刑の執行が終わると、威勢の良かったその男はうめくだけで動けなくなった。

「――――お、俺たちを誰だと思ってやがんだ? 中常侍・曹節様の女婿、馮方様の子弟だぞ」

 それを見た次に刑の執行を待つ男がまたバックにいる大物の名を出して曹操を威嚇いかくした。野次馬たちがその名に驚く。が、曹操はどこ吹く風で、

「――――お前は売り物を掠めたな」

 曹操は兵たちにそのチンピラの体を調べさせて、仏像が彫られた玉石を取り上げさせた。

「――――お前には横領罪を加える。よって四罪二十打だ。抑えつけろ」

 冷徹に言い放つと、その男に容赦なく二十打をお見舞いした。その男は背中を血まみれにして死んでしまった。チンピラも衆人もその鬼の仕打ちに恐怖した。

 そして、許してくれと懇願こんがんする残りの三人にも自ら十五打を打ち込んで、刑の執行を終えた。

 倒れ込んだまま動けない男たちを尻目に、曹操は棍棒をかかげて衆人に訓告した。

「――――今日より、現行の法に加え、夜間の外出を禁止する。法の執行は貴賎きせん官民を問わない。法を犯した者には厳罰を以って対処する。皆、くれぐれも法にそむくことのないように」

 曹嵩はそんな息子の暴れっぷりに頭が痛い。阿瞞の悪知恵にも、吉利の放蕩無頼ぶりにも悩まされたが、その性格は曹操となった今も微塵みじんも変わっていないようだ。

 門をくぐりながら、曹嵩は息子に注意を促す。

「聞けば、その者たちは馮方の食客たちというではないか。面倒になるような真似はしてくれるな。やり過ぎては恨みを買うだけだぞ」

「職務を果たしただけですよ。最近は物騒になっていますから、風紀を厳しくしなければなりません。父上も袁家が強盗に入られた話を御存知でしょう」

「ああ、聞いた。確かに物騒になってはいるが……」

「父上も注意してください。富を溜め込み過ぎると、欲にかられた連中を引き寄せますよ」

 曹嵩は蓄財に余念がなかった。曹操はそれを言っているのだ。

「我が家には特に金が必要なのだ。お前がやり過ぎた時は金が解決してきたのだぞ」

「分かっていますよ。あ、父上、足下に気を付けて」

「何だ、これは?」

 門を入ってすぐ、前堂の前に煉瓦れんがが山積みされている。へいを修繕するのに使うのだ。

「我が家も用心しなければなりませんからね。私兵が少ない分、いろいろ工夫が必要です」

 曹嵩の工夫とは金である。曹嵩は息子の言った言葉を少々誤解して受け取った。

「それは十分心得ておる。傭兵を雇う準備しているが、今はあちこちの家が傭兵を雇い上げているからな。腕の立つ良い傭兵は簡単には集まらん」

 夜な夜な名家を狙う強盗団のせいで、傭兵市場はにわかに狂乱していた。中には傭兵として雇った者に逆に盗みを働かれた家もあったりで、各家は対策に大わらわだった。

素性すじょうの知れない傭兵を百人雇うより、しょうに使いをやって元譲げんじょう妙才みょうさいを呼び寄せた方が賢明ですよ。あの二人は百人分に相当します。身内なら安心ですし、その金は人夫にんぷを雇うのに使う方が有効な使い道かと思いますね」

 元譲・妙才というのは、曹氏の故郷である譙県の姻戚、夏侯かこう氏出身の若者だ。曹嵩は元々夏侯氏出身で、曹氏に養子に入った人間であった。

「それもそうだな。譙から男衆を何十人か呼び寄せる方がよいか。よし、早速使いを出そう。人夫も手配しておく」

 曹嵩は書状をしたためるために書斎に向かった。曹操はそれを見送ってから出勤した。もう日が暮れようとしているが、夜間外出禁止令を敷いたため、その警邏けいらに回らなければならない。強盗団が暗躍するのは決まって夜間なのである。


 それから数日も経たないうちに、東部エリアに居を構える司空しくう唐珍とうちんの屋敷が百鬼に襲撃される事件が起こった。

 唐珍はあざな恵伯けいはく。有力宦官・唐衡とうこうの従弟である。唐衡は一時代前に専横を極めた濁流派の首魁の一人であった。専横して久しい大将軍・梁冀りょうきの誅殺に功があり、他の宦官たちとその後数年間、権勢をほしいままにした。

 唐衡は十年前にすでに他界していたが、唐珍はその恩恵により、高官に昇った。

 そして、皮肉なことに、そのピーク時にこの災難にったのだ。

 司空はいわば建設大臣ともいうべき職で、官僚最高職〝三公さんこう〟の一つである。

『これで何件目だ? 私兵を飼っている大家ばかりを狙って一人も捕まらないなんて、余程の手練てだれの集団と見える……』

 翌朝、曹操は自ら唐珍邸を訪問した。すでに東部尉の兵たちによって屋敷は封鎖されていたが、曹操は北部尉を名乗って、半ば強引に実況検分に加わった。

 正門が破壊されている。何かとてつもない巨大な圧力で打ち破られた痕跡こんせきが残る。進入路はここだろう。しかし、門を破るような衝車しょうしゃなどは城内に持ち込めるはずはない。

 前堂には遺体が並べられていた。この襲撃で命を落とした者たちだろう。十数体はある。東部尉の兵がさらに屋敷から遺体を運び出しているのを見れば、被害はさらに増えそうだ。曹操は遺体に被せられていた茣蓙ござをめくった。斬殺ではない。遺体はどれも黒ずんでいる。まるで毒に侵されたかのようだ。だが、どうやれば、これだけの人数を毒殺できる? 食事に毒を混ぜようにも、皆が一同に会して食事をするわけでもないだろうに。

「北部尉殿、やはり困ります。誰も入れるなと厳命されておりますので……」

「オレは同僚だぞ。東部尉はどこだ? 直接話をつける」

「こちらにはいらっしゃいません」

「この事件を放って何をしている?」

「それは私たちにも分かりかねます」

「唐司空は無事なのか?」

「はい」

「司空に話を聞いたら帰る。案内しろ」

 東部尉の副官の男を困らせながらも、曹操はその後に続いて屋敷に入った。

 歩きながら、内部の様子を観察する。中は随分荒らされている。物が散乱し、至るところを物色された形跡が残っている。しかし、奇妙に思うことがあった。同時にピンとくるものもあった。

「こちらです。おいたわしいことに、奥方様が被害に遭われたようです」

 曹操が寝室に入る。ある女性の遺体の傍にうずくまる人物がいた。体は嗚咽おえつしているのに、声を発していない。不思議に思った曹操はその人物に声をかけた。

「唐司空殿ですね。私は洛陽北部尉・曹操と申します」

 唐珍は曹操に顔を向けたが、声を発しない。

「あまりの心痛のせいか、言葉が話せなくなっています」

 副官の男が曹操に耳打ちした。

「耳は聞こえるのだろう。唐司空、一つだけお尋ねしたい」

 曹操は言うと、膝をついて唐珍の耳にささやきかけた。

 唐珍邸に仙珠が存在したかどうか――――。

 それを聞いた唐珍はまるで悲しみの淵から脱したように立ち上がって、しっかりした足取りで寝室から移動を始めた。曹操がそれに付いて行く。書斎に入った唐珍は絹布けんふを取り、答えを記したその帛書はくしょを曹操に示して見せた。

『――――かつて仙珠のもたらす天運によって唐氏が栄華を極めたのは間違いない。私が司空を仰せつかったのもその残照であろう。しかし、天運そのものはすでになく、唐家がこうして悲惨な命運に見舞われたのも、そのあかしである……』

 答えは「ない」。曹操はそれを知って、唐珍邸を立ち去った。


 曹操はここしばらく日夜屯所に詰めることが多く、この日も朝早くから屯所に入って来たる強盗団との対決に向けた策を考えていたところであった。

『奴らはただの強盗団ではない。仙珠が狙いだとしたら、袁家を襲うのも当然だな……』

 何しろ、袁家は実際に黒の仙珠を隠し持っているのだ。それを嗅ぎつけられたとしたら?

『洛陽の袁家になくてさいわいだったな。唐家にもなかった』

 百鬼の狙いが仙珠にあるのではないかとひらめいたのは、唐珍邸の検分の際だった。

 壁や天井、本棚などあらゆるところが荒らされていて、それが逆に奇妙に映った。

 金品を狙った普通の強盗なら、そんなところを物色しない。

『誰が仙珠を保持しているかまでは掴めていない。疑わしい連中の屋敷を手あたり次第襲っているとなるということか……』

「曹部尉、少しよろしいでしょうか?」

 そこに部下がやってきた。困り切った様子から察するに、何か難しい事案が発生したようだ。

「何だ?」

 曹操が外に出てみると、二頭立ての豪華な馬車が止まっている。

「誰のだ?」

「東部尉・王吉おうきつ様のものです。通りを駆馳くちされましたので、お止めしたのですが……」

「なるほど、分かった」

 駆馳というのは馬車を速く走らせることだ。城内では禁止されている。

「部尉はどこだ?」

 王吉は馬車から顔を出して、曹操を探した。権勢を楯に文句をつけようというのだろう。

「私が洛陽北部尉、曹操でござる」

「おお、そなたが曹操か。先日は失礼した」

 王吉は残忍さをたたえた眼で曹操を見た。王吉もまだ二十過ぎの若者である。

「洛陽東部尉の王吉である。謝罪がてら、新しく赴任した同僚の顔を見ておこうと思ってな」

 曹操は峻厳しゅんげんなその仕事ぶりでもうちょっとした有名人である。

「城内を駆馳されたそうですな」

「おお、済まんな」

「いかなる御仁ごじんであれ、我が管区では法規は守って頂かなければなりません」

「それはもちろんだ。法を犯したのはこの御者ぎょしゃだ。罰してやってくれ」

 何かと御託ごたくを並べて、圧力と恫喝どうかつで強引に法を曲げようとするのかと思っていた曹操には、それは意外過ぎる言葉であった。罪を着せられた御者は、

「わ、私は仕方なく……」

 何かを訴えようとしたが、背中に刺さるような視線を感じて、

「……いえ、私が悪いのでございます」

 そう言って、渋々刑罰に応じた。見れば、それは唐珍邸で曹操を案内した副官の男であった。それをとがめられてのこの仕打ちなのかもしれない。まだ朝が早く、野次馬がいなかったのがその御者にとってのせめてもの救いだった。

車駕しゃがの微罪につき、黄棒五打の刑に処す」

 曹操の命で、御者の男の背中にかしの木で作られた黄色の棍棒が五回打ち込まれた。

 男は苦悶くもんの表情で刑罰と理不尽な命令に耐えた。

「私も管区では厳法を以って治めようと思っている。曹部尉の厳法はよい参考になった」

 一方の王吉は曹操の裁きをにやにやと見守ると、満足そうに言った。

「ところで、曹部尉。私が急いでやってきたのはほかでもない、そなたに伝えることがあったからだ」

 実は王吉は副官の男を御者に降格させ、わざと法を犯すよう駆馳させたのである。

 それを暗に自白しながら、曹操に告げる。

「何でしょう?」

「そなた命を狙われておるぞ。誰にか分かるか?」

「不義不忠の者でしょう」

 穏やかな話ではないのだが、曹操は人ごとのように即答した。

 王吉は少し苦笑を浮かべながらも、親切に教えてやった。

「馮方の食客たちだ。そなたに恨みを募らせておる。白馬寺の隣に皇甫こうほ家が手配していた屋敷があるのだが、近くそこにそなたをおびき出して襲うつもりだ」

 どうやって知り得たのか、王吉は曹操にその詳細な情報を密告した。

 皇甫規こうほきという清流の名将がいた。護羌ごきょう校尉となって西方にいた皇甫規は病のために召還されることになった。皇甫家は急遽きゅうきょ洛陽に屋敷を用意したが、洛陽に辿り着く前に亡くなった。その屋敷は皇甫家には不要となり、のままである。

「どうして教えて頂けるのですか?」

なことを聞くな。同僚として、忠言するのは当然のことではないか」

 そう告げながら、王吉は棒叩きの刑に遭ったばかりの御者に馬車に戻るように指示した。

「せっかく忠告してやったのだ。気を付けることだな」

 そして、王吉は曹操にそう言い残すと、御者には、

「いいか。くれぐれも城内はゆっくり行くのだぞ」

 白々しくそう言って、馬車を出させた。

「いったいどういう風の吹きまわしだ?」

 それを見送った曹操は王吉の態度を訝しんで言った。なぜなら、王吉は濁流派宦官・王甫おうほの子であって、清流派に肩入れする曹操からすれば、敵側の人間なのである。


 曹操は王吉のタレコミで知らされた空家を下見しておこうと上西門へ向かった。

 あのチンピラが騒動を起こした場所を通りかかり、ふと、路地の脇に目をやる。

 誰もいない路地の奥に露天商の老人がぽつんと座っていた。

「ここにもう客が来ることはないだろう。商売するなら、他でした方がいいぞ」

「これはこれは、あの時の。こうしておりますが、別に商売をしたいわけではありませんので」

「では、何のためにここにいる?」

「都の様子を観察しているのです」

 曹操はこの老人にはじめて怪しさを感じた。が、敵対者に感じる怪しさではない。

「爺さんはどこに住んでいる?」

「ずっと前からこの洛陽におりまする」

「洛陽のどこだ。城内か?」

「はい。ここに」

 ここと言っても、その路地には家屋はおろか倉庫さえない。以前見たように壁際に壺が置いてあるだけだ。曹操が感じた怪しさが好奇心に変わる。にわかに顔をほころばせると、「おもしろい」と一言、露天商の前にどっかと腰を下ろした。

 露天商の名は費長房ひちょうぼう。かつて洛陽の役人であった。ある時、薬売りの老人が商売を終えると、壁にかけてあった壺の中に消えるのを目撃した。後日、費長房は銘酒めいしゅを贈り物として、その老人に頼み込んで、壺の中を見せてもらった。驚くべきことに壺の中は宮殿があり、立派な建物が並ぶ別天地であったという。これが〝壺中天こちゅうてん〟の逸話である。

「――――方士ほうしになるという約束で見せてもらいましたから、私もこうして修行を重ね、方士となったわけです」

 方士は仙人、または仙人修行者をいう。曹操も壺の中を見たいと頼んだが、やはり方士になるという条件を突き付けられ、それはあきらめた。

 費長房は洛陽で方術が悪用されるのを監視しているという。曹操が他の壺の中に神出鬼没の強盗団が隠れている可能性を聞くと、費長房は「それはない」と答えた。

 高度な方術であるため、方士の中でも使えるものはごく一部。百鬼が方術まがいの術を操るらしいのを感じているが、方士ではないとも言い切った。

『ただの人間が方術まがいのことをろうすだけなら、対処のしようはある』

 曹操は張譲ちょうじょうと火の球の術を思い出した。どうやら百鬼事件の背後に仙珠が関係しているのは間違いなさそうだ。

『……だとしたら、奴らどこから湧いて出てくる?』

 曹操が城外の道を一人歩きながら、推理を働かせる。壺中天の教訓は「想像もしていない場所に想像もしていないものがある」ということにほかならない。

 百鬼は意外と近い場所に潜んでいるのではないか。曹操は百鬼が洛陽城内に居住する有力官僚のどこかの屋敷に潜んでいるのでは……と考える。

 まず思い浮かんだのが馮方だ。曹操が棒打ちの刑に処したチンピラどもの親分である。馮方は濁流派宦官・曹節の義理の息子だから、有力な容疑者ではある。

 だが、あんなチンピラ風情ふぜいが神出鬼没の強盗団の一味だとは思えない。少なくとも、曹操のイメージにはマッチしない。

「他に城内に住まう濁流派官僚は……おっと、その前にすることがあった」

 曹操が独り言を呟いた時、白馬寺が見えてきた。目的の空き家はその隣だ。


  数日後、本当に匿名とくめいの人物から呼び出し状が届いた。

 例の強盗団に関する貴重な情報を垂れ込むから、指定した時刻に曹操一人で皇甫邸に来てほしいという内容だ。曹操はそれに乗ってやった。

「はっははは、のこのこと現れやがったか、このくそ野郎!」

「先日の恨み晴らさせてもらうぜ。覚悟しやがれ」

 曹操が無人の屋敷で一人待っていると、二十人程の徒党が現れた。うち四人は曹操が棒叩きにしたチンピラであった。王吉の情報が真実であったことが証明された。

 当然ながら、曹操はチンピラ共の登場に驚きもせず、澄ました顔で聞いた。

「強盗団に関する情報を知りたい」

「間抜けめ、そいつぁ、お前をおびき出す口実よ!」

「よもや俺たちの顔を忘れたって言うんじゃねぇだろうな?」

「やれやれ、少しでもお前たちを信じたオレがばかだった。情報がないなら、帰らせてもらうぞ」

 曹操は椅子にしていた庭石から腰を上げると、すたすたと歩き出した。

「ばかめ、そうはいくか!」

「生きてここを出られると思うなよ!」

 チンピラ共がそれぞれ武器を取って曹操に襲いかかった。が、その前に地中に消えた。

「ぎゃあ!」

「何だこれは、いててて!」

 落とし穴の中で悲鳴を上げるチンピラ共。もだえる度に全身にとげが刺さる。穴の中は棘地獄である。いばら毬栗いがぐりが山のように敷き詰められているのだ。

「想像もしていないところに想像もしないものがある。教訓から得たお前らへの贈り物だ」

 事前に彼らの襲撃計画を知ることとなった曹操は無人の皇甫邸を下見して、曹家が雇った人夫たちを使って落とし穴を掘らせておいた。曹操はそこに布をかぶせ、薄く土を被せて、楽しそうに自ら最終調整を行った。

 茨や毬栗を大量に集めさせてその中に敷き詰めたのは阿瞞、吉利時代の奸知かんちである。支丹したんを名乗っていた頃の袁紹えんしょうが花嫁強奪を成功させて逃げる途中に茨の中にはまって、悲鳴を上げた情景を思い出したのだ。どうせやるなら、面白くした方がいい。曹操がそんな舞台を準備万端整えているとはつゆ知らず、

「ふざけやがって、この野郎!」

 まだ地上に残っていた数人が曹操に迫ったが、また地中に没した。落とし穴は一つではない。

「うわぁ、いてぇ!」

 曹操は穴のへりに歩いてきて、滑稽こっけいなほど見事に罠にかかった哀れなねずみたちを見下した。

「ははは、罰が当たったな」

 曹操はしっかりシミュレーションをして、敵の動線上にいくつか穴を掘らせておいたのだ。間もなく、待機させてあった曹操の部下が駆けつけてきた。

 曹操は剣を抜くこともなく、外で見張りをしていた者も含め、チンピラ共を残らず一網打尽いちもうだじんにしたのだった。


 袁家の頭領に袁逢えんほうあざな周陽しゅうようという者がいた。寛大誠実と評される人物で、支丹こと袁紹の実父である。祖父の代から曹家と袁家は親交がある。

 袁紹から曹操のことを聞いていた袁逢はある日曹家の屋敷を訪れて、曹操に祝辞を述べた。

「少々遅くなったが、此度こたびの北部尉の就任をお祝いする」

「ありがとうございます。本初ほんしょに比べたら、小さな官職ですが」

 曹操は一応謙遜して見せた。友人の袁紹本初は濮陽ぼくよう県長、一城のあるじである。

「いや、謙遜は無用。今の北部尉は君にしか務まるまい。りょう尚書の決定は的確であった」

 曹操を洛陽北部尉に配したのは梁鵠りょうこくという人物である。

 梁鵠はあざな孟黄もうこうといい、涼州安定郡烏氏うしの人である。書道の腕に優れていたので、書芸好きの現皇帝に任用されて選部尚書となった。選部尚書とは官吏の登用と異動をつかさどる。

「ただ祝いの言葉を述べに来たわけではないでしょう。欲しいのは例の強盗団の情報ですね?」

「さすがに鋭いな。何人か捕えたと聞いたのだが」

「いえ、あれはただのごろつきでした。名をかたって私を殺そうとしただけのようです。すでに司隷しれい校尉に引き渡しましたので、もう尋問はできませんが、間違いなく無関係でしょう」

「そうだったか……」

 袁逢は少々落胆した様子を見せた。曹操は馮方の食客たちを捕えてすぐ、いくつかの罪状で棒叩きの刑に処した。ちょうど全員に処罰を終えた頃、司隷校尉の段熲だんけいが現れて、半死の彼らの身柄引き渡しを要求してきた。司隷校尉は洛陽を含む首都圏の警視総監的な役職であるから、それは何ら不当なものではない。

 そうではあるが、段熲は皇甫規と同じ西の名将ながら、王甫にくみする濁流派と見られている。

「何かこだわる理由があるようですね」

 曹操はそれを見抜いて言った。袁逢は静かに頷きながら、その経緯を語った。

「我が家も屈強な私兵を持っているので、人的被害はそれほどでもなかったが……」

 袁逢は少し言葉を濁しながら、本題を打ち明けた。

「ある国宝が盗まれてしまった。すでに夏甫かほから聞いたそうであるから打ち明けるが、黒水珠という宝珠だ」

 一年前、陳逸ちんいつ救出の作戦をっていた陳寔ちんしょく邸にやってきた寒蝉かんせん袁閎えんこうが示した仙珠の一つ。

『やはりな。それが狙われた理由だったか……』

 曹操は袁家が強盗に入られた理由を納得した一方で、

「確かに以前袁閎殿から話は聞きましたが、あれは袁家が袁閎殿に託して隠したのでしょう? それがどうして洛陽の袁家にあったのですか?」

 濁流派の目から仙珠を隠すために、袁氏は一族の隠者である袁閎にその役目を託したのだ。

「昨年、夏甫がふらりと上洛してきて、ただ隠すのは止めるべきだと言ってきたのだ。濁流派を打倒するために清流派が力を合わせれば、黒水珠が天運を授けてくれるだろうと、どういうわけか珍しく熱く語って、黒水珠を置いていった」

 袁閎は陳寔邸で曹操に黒水珠の受領を拒否された後、その足で洛陽に赴いたのだ。

「私は君の影響だと思っている」

 袁逢が曹操の目をじっと見据みすえて言った。

「私に責任があると?」

「いやいや、そうではない。あるのは人を引き付け、感化する能力だろう。本初も夏甫もそれに影響を受けているのだと思う」

 許劭きょしょうや橋玄の曹操評は袁逢の耳にも入っている。

「……とにかく、君は有能だと聞いている。仙珠についても知っている身なのだから、取り返すのに力を貸してほしい」

 名門・袁氏の頭領ながら、袁逢は丁寧に一介の若者に協力を要請してきた。

「務めは果たします」

 その時はそう言うに留めておいた。北部尉としてできることはする。そういう意味である。


 その夜、北部尉の屯所に向かおうとした曹操は屋敷の庭で立ち止まった。

 いつも携帯している赤い玉を取り出す。それを見つめて考えた。

 小さなそれは球形をしているだけで、一見するところ路傍ろぼうの石と見分けがつかない。だが、それが特別であることは日が暮れると明らかとなる。石の中心がかすかに赤く光を保っているのだ。弱々しく、今にも消えそうな光だ。

 曹操のてのひらの中で、明かりがぼんやりと灯っている。触ればほのかに温かい。

 一年前に張譲ちょうじょう邸で手に入れた赤き玉。

『仙珠が狙われているのだとしたら、これもいずれぎつけられるかな?』

 それを見ていると、曹操はふと許劭の言葉を思い出した。

「――――そなたの瞳の深淵に赤い星が見える……」

 許劭は曹操の瞳の向こうの宇宙をのぞき込んで、そうつぶやいた。

 実際の天空もはるかな宇宙に覆われ、赤い星が浮かんでいた。

 そこに小さな光を放つ赤い玉を掲げてみると、それはまさしく赤い星のようであった。また、曹操の目にはその微かに揺れる赤い光が小さなふなのように見えた。

『この石は凶運を呼ぶだろうか?』

 答えは返ってこない。しかしながら、曹操は自分がとてつもなく大きな時代の潮流に乗ったような気がしていた。

 国家の秘宝、五仙珠を巡る清濁の争い――――。

 自分はその中心を行くことになるのかもしれない。曹操は赤き玉を握りしめた。

 微かに温かさ放つ光がすっと自分の中に溶け込むような気がした

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三国夢幻演義 清濁抗争篇 第一章 赤き新星 光月ユリシ @ulysse

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