其之前 白馬寺の幻想

 延熹えんき九(一六六)年、秋のこと。都・洛陽らくよう西郊。

 十二歳の少年、阿瞞あまんは洛陽郊外の道を噴き出した汗をぬぐいながら歩いていた。

 その日は秋にしてはかなり暖かい日で、悪童わるがき仲間たちと一緒に狩りに出かけ、獲物を求めて原野を走り回ったのだが、その甲斐なく、手ぶらで都の屋敷まで帰路の途中だった。

「今日はつまんなかったなぁ。疲れ損だよ」

「お前の腕が悪すぎるんだよ」

「違う。風のせいだ」

「嘘つけ」

「……どうしたんだ、阿瞞? 何をぼんやり眺めてんだ?」

 前を歩いていた二人の仲間が立ち止まったままの阿瞞に気が付いて聞いた。

「見ろ」

 阿瞞があごで指した方向に視線をやると、小川のほとりに老人が座っているのが目に入った。老人の前には細い竹の釣り竿ざおが立てられていて、その先がぶるぶると揺れていた。老人はそれをぼんやり見ているようなので、何か獲物がかかっていることには気付いているはずなのだが、一向に竿を上げようとしない。

「何やってんだ、あの爺さん」

「おーい、引いてるぞ」

「聞こえないのかー!」

 二人が声をかけても、老人は何の反応も示さない。

盲聾もうろうなんじゃないか?」

「ほっとこう」

 二人はあきらめて再び歩き始めた。阿瞞は一人老人の方へ近付いていく。

「阿瞞、俺たちは先に帰るぞ」

「ああ」

 阿瞞は二人を振り返ることなく、老人のもとに歩み寄って、声をかけた。

「ご老人、引いてますよ」

「分かっておる」

 その老人は盲でも聾でもなく、口もけた。

「何で上げないんですか?」

「その魚は凶魚きょうぎょゆえに、針が外れるのを待っておるのじゃ」

「凶魚? 見もしないでそれが分かるのですか?」

 老人は黙ってうなずいた。阿瞞はそれを聞いて、水面下の獲物に俄然がぜん興味を持った。

 いったいどんな不吉な姿をしているというのか。

「上げてみたいか?」

 今度は阿瞞が頷く。

「かかってしまったものは仕様がない。これも運命じゃな。後はお主の判断に任せよう」

 阿瞞はそれを聞いて、迷うことなく竿を上げた。釣れたのは赤いふな

 てのひらほどの大きさの鮒だが、体全体が赤く、さらに赤い斑点はんてんがいくつか付いている。古代中国で鮒が突然変異を起こしたものが金魚の起源だと言われるが、釣れたのはまさにそれであった。

「赤い色の魚なんて珍しいですね」

 阿瞞は老人に言ったつもりだったが、それは独り言になった。その時、もう老人の姿はどこにもなかったのだ。


 阿瞞は老人が残していった木桶きおけに小川の水とその魚を入れ、洛陽の屋敷に戻った。かなり裕福な家であるのは一目瞭然で、その屋敷は立派な門構えと大きな邸宅を備えている。

「何だ、それは?」

 大事そうに桶を抱えて帰ってきた阿瞞を認めた叔父が近寄ってきて、桶の中をのぞき込んだ。赤い鮒が桶のふちでじっとしていた。

「今日の狩りの成果です。珍しいので持って帰ってきました」

「おお、確かにこんな魚は見たことがない……」

 中央政府の下級役人を務めている叔父は興味深そうに赤い鮒を見ながらも、何か考えついたように言った。

「……阿瞞、これをわしに譲ってくれ」

「どうするのですか?」

陛下へいかに献上するのだ。陛下は濯龍園たくりゅうえんという庭園を造園されたばかりでな、そこがお気に入りなのだ。濯龍園でこの珍魚を飼われるように申し上げれば、お喜びになるだろう」

「それなら、止めた方がいいと思います。この魚は凶魚だそうですから」

「凶魚? ……確かによく見れば、血痕けっこんのような斑点だな。……ん、ということは阿瞞、お前、この魚が凶兆をもたらすと知っていながら持って帰ってきたのか?」

「はい。私はそんなことは信じませんから。庭の池で飼おうと思って」

 阿瞞は悪気なく言うのだが、叔父はそんな阿瞞の意図を叱った。

「ばかもん、わざわざ凶運を家に招き入れてどうする。家がつぶれてしまうぞ」

「そんな大袈裟おおげさな」

「まったくお前はろくなことを考えないな。とにかく、そういうことなら、それをこの家に入れてはならん。どこかに捨ててまいれ」

 叔父は凶魚という言葉を真に受けて、阿瞞を門外へ追い出した。

 天文現象と人の行いは相応あいおうずる(天人相応てんじんそうおう)という考えがなかば常識のようにまかり通っている世の中では、人々は周囲の様々な奇怪な現象を見ては、吉祥きっしょうだの凶兆だの言い合った。

『せっかく手に入れたのに、捨てるなんてできない。川に放しても、また釣られてしまうかもしれないしな……』

 門外へ放り出された阿瞞は凶兆の魚が入った桶を抱えたまま、どうしようか思案に暮れた。

『誰かにやっても、凶魚だと知られたら殺されてしまうだろうし……。そう言えば、浮屠ふと(仏教)は殺生せっしょうをしないと聞いたっけ……』

 そして、何かを思いついたように帰路を引き返した。


 洛陽西郊三里(約一・二キロメートル)のところに仏教寺院・白馬寺はくばじがあった。

 明帝めいてい永平えいへい十(六七)年、迦葉かしょう摩騰まとう竺法蘭じくほうらんという二人の浮屠ふと沙門さもん(仏僧)が仏典ぶってんを西域から運んできた。明帝は遠路遥々やってきた彼らのために寺を建立こんりゅうして、彼らの居所いどころとした。

 この時代〝寺〟と言えば、役所のことを意味した。以降、浮屠の沙門が常駐するようになり、だんだん寺院という意味に移行していく。二人が白馬に乗ってやってきたというのがきっかけとなって、それは〝白馬寺〟と命名され、以来、西域の浮屠たちの受け入れ場所となっている。

 桓帝かんてい建和けんわ元(一四七)年には大月氏だいげっし国の僧の支婁迦讖しるかせん支讖しせん)が、その翌年には安息あんそく国の安世高あんせいこうが布教活動のために上洛し、白馬寺に滞在して、サンスクリットで書かれた仏典を漢語に翻訳する訳経やっきょうに従事し始めた。

 仏教は伝来してまだ新しく、一般市民のほとんどが信仰していない。なのに、

『何でこんなに混雑してるんだ?』

 阿瞞は白馬寺の門前を埋め尽くす人々を見て、足を止めるしかなかった。

 浮屠の沙門は西域からやってきた、いわば外国人である。とはいえ、近年の洛陽ではそんな西域外国人の姿は珍しくない。群衆の声がおのずと理由を語る。

「なぁ、そのでかい外国人、どこから来たって言ったかな?」

大秦だいしん国って聞いたが」

「どこだい、そりゃあ?」

「西域よりずっとずっと西にある国だそうよ」

「はー。そんな遠いところからよく来たもんだねぇ」

「言葉は話せるのかい?」

「それが驚いたことに、片言だが、話せるらしい」

「俺よ、今日の朝、その男を見たんだよ。瞳が青くって、腕が脚のように太い。髪は黄金こがね色で、背丈は一丈はあったな」

「一丈だって?」

 一丈というのは、約二・二五メートルである。にわかには信じられない話だ。

「そんなのが一人じゃないんだろ?」

「ああ、五、六人ほど滞在してるって聞いたぜ」

 彼らが話しているのは、大秦国からやってきた使者たちのことだ。

 数か月前、大秦国安敦あんとんの使者を名乗る者たちが交州こうしゅうの日南郡に到着した。

 日南郡は後に大将軍・竇武とうぶの一族が流刑にされる後漢最南端の地、今のベトナムである。彼らは海路、南海郡に入ると、そこから陸路を北上して洛陽までやってきた。そして、皇帝に謁見えっけんして、象牙ぞうげ玳瑁たいまいなどの珍宝を献上したのだという。

 ちなみに、大秦国というのはローマ帝国のことであり、安敦は時のローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことである。

 彼らは賓客としてしばらく宮中でもてなされていたのだが、どこからかずっと宮中に留めておくのはよくないという意見が上がったらしく、代わりの滞在地が外国人の溜まり場となっている白馬寺に決まったのだ。彼らが白馬寺に入って日が浅く、暇な民衆たちは物珍しさに連日のように人だかりを作って、西洋の外国人を一目見ようと野次馬と化しているのである。

 そんな野次馬根性の人たちだから、阿瞞の持った珍魚を目にすれば、今度はそれを目当てに騒ぎ出すに違いなく、阿瞞は彼らに気付かれないように早々と退散を決めた。阿瞞は再び自宅への道を帰る。無意味な往復。とんだ骨折り損に、

『本当に凶運をもたらす魚なんじゃないか?』

 天人相応説など信じもしない阿瞞ながら、少し疑いを持ってしまった。


 延熹九(一六六)年は〝赤〟に関する天象がはっきりと現れた年だった。

 三月に都の上空に火光かこう(赤い光)があって、それがゆっくりと宮殿の方角へ消えていった。それを見た洛陽の住民は大騒ぎした。それを阿瞞も目撃した。

 天象を占う学者が言うには、これは近く皇帝が崩御するしるしだという。不吉中の不吉、大凶兆である。

 九月には二人の清流太守、成瑨せいしん劉質りゅうしつが宦官に讒言ざんげんされ、罪に問われて死んだ。

 成瑨はあざな幼平ようへい弘農こうのうきょう県の人で南陽太守、劉質はあざな文理ぶんり平原へいげん高唐こうとうの人で太原たいげん太守であった。陳蕃ちんばんら清流派官僚が言葉を尽くして弁護したにもかかわらず、皇帝は宦官たちの言い分を信じて、二人に断罪を下したのである。

 二人の清流太守の血が流れることになったこの事件は党錮とうこの呼び水となった。

 この結果に味をしめた濁流派はここぞとばかり、目障めざわりな清流派人士を一斉に劾奏がいそうした。そして、国を揺るがす大事件――――第一次党錮の禁が起こる。

 司隷校尉しれいこうい李膺りよう太僕たいぼく杜密とみつ尚書しょうしょ魏朗ぎろう少府しょうふ王章おうしょう御史中丞ぎょしちゅうじょう陳翔ちんしょう議郎ぎろう巴粛はしゅくなど中央政府の高級官僚にはじまり、河南尹かなんいん羊陟ようちょく汝南じょなん太守・尹勲いんくん幷州へいしゅう刺史しし趙岐ちょうき功曹こうそう范滂ほんぼう督郵とくゆう張倹ちょうけんなどの地方官僚、さらに孔昱こういく夏馥かふく延篤えんとく符融ふゆうといった無官の者まで著名な清流派人士がこぞって摘発された。

 その数は二百人以上に上った。

 法律をてて功臣を追えば、赤祥せきしょうに関わる怪異あり――――という。

 阿瞞が赤い鮒を手に入れたのは、ちょうどこんな時だったのだ。

 阿瞞の父は大慌てだった。党錮事件の余波を受けて、どういうわけか叔父も逮捕されたのだという。

「どうして叔父さんが逮捕されたんです?」

「恐らく何か行き違いがあったのだろう。これから行って調べてみる」

 父が屋敷を出ていった後、阿瞞は庭の池に急いだ。赤い鮒が泳いでいる。

 白馬寺に寄付するのを断念した後、阿瞞は赤い鮒を家に持ち帰って、こっそり庭の池に入れておいたのだった。父も叔父も気付いていないが、

「まさかとは思うけど……」

 叔父が危惧したように、この魚が家に凶運を招き入れたのだとしたら、これは見過ごせない。老人が釣り上げようとしなかった理由がこうなることを知っていたからだろうか。

 姿形すがたかたち異なるものは変化のきざし。釣られるは摘発されることに通じる――――。

 とにかく、この魚を釣り上げてしまったのが自分自身なので、責任は取らなければならない。阿瞞は桶を片手に、足を池に踏み入れた。赤い鮒は阿瞞の意思を察知してか、池の中を素早く逃げ回った。


 阿瞞が苦労して捕まえた赤い鮒を手に再び白馬寺を訪れた時は野次馬の姿はなかった。著名な二百人以上の清流人が逮捕されたという衝撃的な事件の方に関心が移って、彼らが連行される様子を見ようと、今度は城内の各路地を埋めていた。

 勝手なものだ。しかし、凶兆を抱えた阿瞞にとっては有り難い。

『浮屠には邪気を清める力があるというし、白馬寺に寄付すれば、この魚にいた悪いものもなくなるんじゃ……』

 その考えが正しいかどうか分からなかったが、阿瞞はとにかくこの凶魚をどうにかしなければならなかった。

「あの」

 阿瞞は白馬寺の門前で静かに落ち葉をいていた浮屠の僧に声をかけた。

「何でしょう? 何かお困り事ですか?」

 その仏僧は穏やかな笑顔で聞いてきた。

「浮屠の教えは殺生を禁じていると聞きました。この魚を預かっていただきたいんですが」

「はい、構いませんよ」

 仏僧は理由を聞くでもなく、阿瞞から凶魚の入った木桶を受け取った。

和尚おしょう様に話してから境内けいだいの池に放しましょう。どうぞ、こちらへ」

 その仏僧に誘われて、阿瞞は白馬寺の敷地に入った。

 境内は別世界だった。全体を沈静な空気が包み込んでいて、党錮事件の騒乱とはまるで無関係な平穏さだ。境内のほぼ中央に仏塔ぶっとうがあって、一際目を引いた。

 白馬寺の柘榴ざくろの樹の見事さは風の噂に聞いたことがある。奥に果実をたわわに実らせた柘榴があって、小さな池はその傍にあった。その木の下では、一人の老僧が瞑目めいもくして座禅ざぜんを組んでいた。座禅というものを初めて見た阿瞞が尋ねた。

「何をしているんですか?」

「しっ、声を小さく」

 仏僧が阿瞞に注意をうながした。

「……悟りに入っておられるのです。邪魔をしてはいけません。少し待ちましょう」

 釈迦しゃか菩提樹ぼだいじゅの大樹の下で悟りを開いたと言われる。明帝が来訪した迦葉摩騰と竺法蘭のために寺を建立することを決めた時、その場所として二人は菩提樹に似たこの木の下を選んだ。

 阿瞞は口をつぐみながら、不思議そうに老僧の瞑想めいそうを見つめていた。

 しばらく静かな時が経過して、老僧が目を開いた。

「和尚様」

 それを確認した仏僧が声をかけた。白い髭を生やしたその人が支讖しせんと呼ばれる高僧である。

「おお、支曜しようか。どうした?」

「この少年が珍しい魚をこちらで預かってほしいと」

「ほぅ、これは珍しい。では、そこの池に放してあげなさい」

 支讖が支曜に指示した。支讖も支曜も理由を聞かない。阿瞞も理由を言わないのは申し訳なくなって、白状した。

「実はその魚は凶兆と言われている魚なんです。浮屠の教えは邪を清めると聞きましたので、持ってきました」

「凶兆? ふ~む……邪悪なものは感じないが、心配なら、一つ邪をはらきょうを読んでしんぜよう」

 支讖は支曜から木桶を受け取って、それを地面に置き、再び座禅を組むと、両手を合わせて読経どきょうを始めた。聞き慣れないサンスクリットの言の葉が心地よいリズムに乗ってつむがれていく。

 支讖は大月氏という国からやってきた。二十年も前のことである。

 もともと大月氏の人々は河西かせい地方(黄河の西)の祁連きれん山脈の麓に居住していた。

 それが北方騎馬民族の匈奴きょうどとの戦いに敗れ、住処すみかを追われて、現在のアフガニスタン北部の辺りに移住を強いられた。

 前漢の武帝は匈奴の脅威に対抗するため大月氏と同盟関係を築こうとし、建元けんげん二(紀元前一三九)年、張騫ちょうけんを使者として派遣した。およそ二百年前の出来事である。これらは『史記しき』や『漢書かんじょ』といった史書に記されており、支讖の読経のリズムがそれらを学んでいた阿瞞の頭の中に、大月氏の変遷と張騫の苦難の旅路の情景を想像させた。

 後漢時代の大月氏は貴霜クシャーンと名を変え、インド北部まで支配地を広げて、仏教文化を取り入れて隆盛を極めていた。後漢では彼らを〝大月支だいげっし〟と改称し、そのため、大月支出身者の漢名は〝支〟の字が用いられる。

 支讖たちは仏教を広めるために遥々来訪したわけだが、その崇高な目的と遥かな道のりを想像すると、支讖の読経の意味は分からずとも、阿瞞には清涼なものに聞こえた。

 そして、それに誘われるかのように現れた大男たち。大秦国からやってきたローマ人だ。彼らも目的こそ違うが、危険をかえりみず、遠路遥々やってきた。

 彼らの登場に阿瞞は目を見張った。そのうちの一人はさすがに一丈はないが、空を見上げる程の背丈に金色の髪、青い瞳。誰かが言っていた通りだ。

 支讖の読経が止むのと同時に木の葉がふわりと凶魚の入った桶の中に舞い落ちた。

「オショウ、私たち帰ル。サヨナラです」

 少し腹の出た中年とおぼしきローマ人が片言で言った。彼らはすでに荷づくりをして出発の用意を済ませていた。

「お、コレ何?」

 金髪で彫りの深い顔立ちのそのローマ人は桶の中のものに気付いて聞いた。

「コレ、いいネ。コレ買います」

 その男は別れのあいさつをしたばかりだというのも忘れて、唐突に支讖に交渉を持ちかけた。

「これは売り物ではない。それにこの魚の持ち主はわしではない。この少年じゃ」

 支讖が言って、阿瞞を指した。

「おお、ボンジョルノ、少年さん。私、ペシオスです。コレ欲しい。いいですか?」

 ペシオスは阿瞞に向かってあいさつと自己紹介を済ますと、単刀直入に訴えた。

 実は彼らは大秦国の使者と言っているが、東洋の珍品を求める商人たちだった。

 赤い珍魚を目にして、是非ともローマまで持ち帰ろうというのだ。

「それは凶兆の魚ですよ」

「キョウチョウ? 何ですか?」

「悪い魚」

 阿瞞は気をかして、分かりやすそうな言葉で言った。

 それを聞いたペシオスは首を振りながら、

「コレ、私たちにとって、いい魚。悪いは少年さん。少年さん、悪い火あります」

 オーバー・アクションを交え、阿瞞の胸を指しながら言った。

「えっ?」

 阿瞞は賢い少年であったが、さすがに片言のペシオスが何を言いたいのか分からなかった。

「この者は占いもやるそうじゃ。火難かなんの相があると言いたいのじゃろう」

 その補足をしてくれたのが支讖和尚だ。

「私、少年さんの悪いモノ、いいモノあげます。そして、コレ買います。いいですか?」

 阿瞞がまた通訳を求めて支讖を見ると、

「どうやら火難の相をはらってやるから、その魚を譲ってくれと言いたいようじゃな」

 そう翻訳してくれた。交換条件のようらしい。執拗しつように赤い鮒を所望しょもうするペシオスにどう対処したらいいか、阿瞞は困って、支讖に聞いた。

「どうしたらいいですか?」

「君が決めることじゃ。それに本来生き物に良いも悪いもない。全ては人の考え方次第じゃ。所変われば、良いものも悪く思われるし、悪いものも良いと思われる」

「分かりました」

「おお、いいですか?」

ペシオスの三度目の「いいですか?」に阿瞞が答える。

「いいです」


 白馬寺の小さな池にペシオスが小瓶から取り出した白い粉末をいた。

「コレ、私のヒミツ。誰に言わない。お願いします」

 ペシオスはそう断ってから、ぶつぶつと理解のできない呪文をとなえ始めた。

 支讖のサンスクリットとも違う音が阿瞞の耳に響く。しばらくその奇妙な音に耳を澄ませていると、まるでその呪文に導かれるかのように、池の底から水泡が上がってきた。

 阿瞞、支讖、支曜らが見つめる中、泡立った水面が上下し、それが魚のような形となった。池の水でできた透明な魚。それが水面をねる。

「ほぅ。見たこともない術じゃ」

 西域から旅してきた支讖も初めて目にする西洋魔術。

 阿瞞は言葉も失い、それを見つめた。そして、唖然とする阿瞞の目の前で、さらに驚くべきことが起こる。ペシオスが両手を空にかかげるのに合わせて、その魚が勢いよく上空へ立ち昇ったのだ。あたかも池の水が天に吸い上げられるように水柱みずばしらとなって昇っていく。それは阿瞞に龍を想わせた。

 天空へ昇る龍を見上げた時、それは弾けるように散って、阿瞞の上に雨のように降り注いだ。お陰で阿瞞はびしょ濡れになってしまった。

「コレ、少年さんを悪い火守る」

 商人であり、占い師であり、さらに魔術師の一面を見せたペシオスがそう阿瞞に言った。

「私、少年さん、いいモノあげました。コレ、いいですか?」

 ペシオスはそう言って、阿瞞の足下に置かれていた桶の中身を所望した。

 しかし、

「あっ」

 見ると、桶は降り注いだ水であふれていて、赤い鮒はそれに押し出され、地面の上をピチピチと撥ねていた。そして、ぱくぱくとあぎといながら何度か撥ねると、さいわいにも池の淵へ辿たどり着いて、その中へ落ちて水面下に消えてしまった。

「ああ、悪い!」

 ペシオスは自らの術が招いた凶運に頭を抱えた。びしょ濡れの阿瞞はそれもこれも赤い鮒がもたらしたもののような気がした。

「ははは、自分の故郷を離れたくないのじゃ」

 支讖が鮒の気持ちを代弁してほがらかに笑った。

 失意のペシオスらローマ人の一団は白馬寺をつことを急いだ。

 門前でペシオスが支讖に別れを告げる。

「今、ブッソウ。オショウ、気をつけて」

 それは党錮の大騒ぎが原因でもあった。彼らも政治が混乱している事情を察して、洛陽から退避するのが一番だと決めたようだ。すでに洛陽の市場で入手した東洋の珍品が荷車に満載してある。混乱でこれらを失うことになってはたまらない。

「そなたたちの旅の安全を祈ろう」

 支讖が彼らのために手を合わせた。

「アリガトウ。サヨナラ。少年さん、サヨナラ」

 ペシオスは支讖と阿瞞に別れを告げ、ローマ人の一団は南へと去って行った。

「和尚様、私もこれで失礼します」

 凶兆の魚を釣り上げたことが叔父や清流派人士の拘束という事態を招いたのだとしたら、その魚を放してやれば、彼らも解放されて、事態はよい方向に収まるのではないか――――。

 凶兆の魚を適当なところに手放して、憂いがなくなった阿瞞も家に戻ることにした。


 その効果があったのか、叔父の誤認逮捕はすぐに明らかとなった。

 阿瞞の叔父はその時、用があって三世三公の名家・えん家の屋敷を訪問していたのだが、ちょうどその時に濁流派の放った官兵が踏み込んできて捕縛された。

 袁家の一族に袁忠えんちゅうと言う者がいた。彼は袁家の中でも一番の清流派の人物で、不正を憎む清廉高潔さから濁流派に目を付けられており、此度こたびの党錮の逮捕者リストに名を連ねていた。

 叔父の名も、たまたま〝忠〟であったので、それが単純な誤解を生んだらしい。

「阿瞞の持ってきた凶運のせいでえらい目にったわ」

 釈放された阿瞞の叔父はその幸運を喜ぶどころか、自らの不幸があの赤い凶魚のせいだと信じて、阿瞞の父に愚痴ぐちをこぼした。

 話の子細しさいを聞いた阿瞞の父が家に戻ってきて、阿瞞に問いただした。

「凶兆の魚? 何ですか、それは?」

 阿瞞は眉をひそめて、堂々とすっとぼけた。

「お前が家に持ち込んだと聞いたぞ」

 阿瞞が大仰おおぎょうに首を振りながら、もっともらしいことを口車に乗せる。

「やれやれ、叔父上にも困ったものです……。叔父上は私のことをよく思っていませんから、そんなことを言って私のせいにするんですよ。確かに川で釣った魚を持ち帰りましたが、何の変哲へんてつもない普通の鮒でしたよ。仮にそれが本当に凶魚だったとしたら、こうも容易たやすく叔父上が釈放されるはずがありません。もっと大変なことになっていたはずですよ」

 阿瞞が立て板に水の如く語るので、どっちが正しいのか父も首を傾げて、

「……まぁ、よいわ。世の中どんなことで誤解を招くか分からん。我が家に凶運を招かぬよう、これからはいつも以上に身をつつしむのだぞ、阿瞞」

 そんな訓戒くんかいを垂れるだけで、それ以上追及しなかった。

 阿瞞とは〝ほら吹きくん〟といったニュアンスがある呼び名だ。

 赤い凶魚を釣り上げたこと。白馬寺でローマ人の魚龍ぎょりゅうの魔術を見たこと。

 それら突拍子とっぴょうしもない話を悪童仲間たちは誰も信じようとはしなかった。

 自分たちをだますいつもの手口だろうとか、阿瞞の見た幻想ということで片付いてしまった。

『まぁ、いいか』

 阿瞞は別にそれを気にする風でもなかった。

 白馬寺で見たそれは本当に幻想なのかもしれなかったが、それは確かに阿瞞の脳裏に焼き付き、阿瞞を火難から守る力は確かにその中に宿ったのだ。

「君の叔父さんには悪いことをしたな。そんな凶魚が存在するんだったら、今度釣り上げた時は俺に言ってくれ。宦官に送り付けてやる」

 凶魚の話を信じたわけではないが、一人だけ、そう言う者があった。袁家の御曹司おんぞうしである。

「それはいい。もう凶魚を釣るのは御免ですが、さっそく何か送り付けてやりましょう」

「どうするんだ?」

「そうですね……。腐った魚を高価な箱か何かに入れ、上から土をかぶせて臭わないようにしておいて、それを送り付けるというのはどうですか? 開けたら……」

 阿瞞は鼻をつまむ仕草で眉間みけんしわをよせた。悪知恵全開である。

「はっはっは、それは面白い」

 二日後、袁忠を取り調べているという宦官・王甫おうほの屋敷にその臭い爆弾が届いた。厳重に密封された箱には阿瞞が考えた架空の人物〝支丹したん〟の名が大書されており、うっかりそれを開けた王甫邸の誰かが激臭に悲鳴を上げたという。

 この一件がきっかけとなって、二人は悪童仲間として親密になっていく。

 そして、凶魚が解放されて十日――――党錮で逮捕された清流人たちも、皆釈放されて一連の災禍さいかは一旦の収束を見る。

 郷里に帰されて、官吏に登用されない禁錮処分は続いたものの、翌年、党錮の命を下した桓帝が崩御して、李膺や杜密、袁忠などの清流人たちの罪も消え去った。

 禁錮処分が解けた彼らはこぞって再登用され、再び政治の浄化に努めることになるのだが、それも束の間のこととなる。ともあれ、

「今やあの凶兆の魚は吉祥の魚となったな。オレも名を縁起えんぎがいいものに変えるか」

「どんな名だ?」

吉利きつり

「はっきり言って似合わないぞ。阿瞞の方がよっぽどしっくりくる」

「構わないさ。吉利と支丹、ちょうどいい感じだ」

「その支丹って名、どうも気に食わない」

「いいじゃないか。王甫に一発食らわせた英雄の名だぞ。これからは吉利と支丹だ」

 不満顔の支丹の横で、阿瞞改め吉利が愉快そうに笑った。

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