其之前 白馬寺の幻想
十二歳の少年、
その日は秋にしてはかなり暖かい日で、
「今日はつまんなかったなぁ。疲れ損だよ」
「お前の腕が悪すぎるんだよ」
「違う。風のせいだ」
「嘘つけ」
「……どうしたんだ、阿瞞? 何をぼんやり眺めてんだ?」
前を歩いていた二人の仲間が立ち止まったままの阿瞞に気が付いて聞いた。
「見ろ」
阿瞞が
「何やってんだ、あの爺さん」
「おーい、引いてるぞ」
「聞こえないのかー!」
二人が声をかけても、老人は何の反応も示さない。
「
「ほっとこう」
二人は
「阿瞞、俺たちは先に帰るぞ」
「ああ」
阿瞞は二人を振り返ることなく、老人のもとに歩み寄って、声をかけた。
「ご老人、引いてますよ」
「分かっておる」
その老人は盲でも聾でもなく、口も
「何で上げないんですか?」
「その魚は
「凶魚? 見もしないでそれが分かるのですか?」
老人は黙って
いったいどんな不吉な姿をしているというのか。
「上げてみたいか?」
今度は阿瞞が頷く。
「かかってしまったものは仕様がない。これも運命じゃな。後はお主の判断に任せよう」
阿瞞はそれを聞いて、迷うことなく竿を上げた。釣れたのは赤い
「赤い色の魚なんて珍しいですね」
阿瞞は老人に言ったつもりだったが、それは独り言になった。その時、もう老人の姿はどこにもなかったのだ。
阿瞞は老人が残していった
「何だ、それは?」
大事そうに桶を抱えて帰ってきた阿瞞を認めた叔父が近寄ってきて、桶の中を
「今日の狩りの成果です。珍しいので持って帰ってきました」
「おお、確かにこんな魚は見たことがない……」
中央政府の下級役人を務めている叔父は興味深そうに赤い鮒を見ながらも、何か考えついたように言った。
「……阿瞞、これをわしに譲ってくれ」
「どうするのですか?」
「
「それなら、止めた方がいいと思います。この魚は凶魚だそうですから」
「凶魚? ……確かによく見れば、
「はい。私はそんなことは信じませんから。庭の池で飼おうと思って」
阿瞞は悪気なく言うのだが、叔父はそんな阿瞞の意図を叱った。
「ばかもん、わざわざ凶運を家に招き入れてどうする。家がつぶれてしまうぞ」
「そんな
「まったくお前はろくなことを考えないな。とにかく、そういうことなら、それをこの家に入れてはならん。どこかに捨ててまいれ」
叔父は凶魚という言葉を真に受けて、阿瞞を門外へ追い出した。
天文現象と人の行いは
『せっかく手に入れたのに、捨てるなんてできない。川に放しても、また釣られてしまうかもしれないしな……』
門外へ放り出された阿瞞は凶兆の魚が入った桶を抱えたまま、どうしようか思案に暮れた。
『誰かにやっても、凶魚だと知られたら殺されてしまうだろうし……。そう言えば、
そして、何かを思いついたように帰路を引き返した。
洛陽西郊三里(約一・二キロメートル)のところに仏教寺院・
この時代〝寺〟と言えば、役所のことを意味した。以降、浮屠の沙門が常駐するようになり、だんだん寺院という意味に移行していく。二人が白馬に乗ってやってきたというのがきっかけとなって、それは〝白馬寺〟と命名され、以来、西域の浮屠たちの受け入れ場所となっている。
仏教は伝来してまだ新しく、一般市民のほとんどが信仰していない。なのに、
『何でこんなに混雑してるんだ?』
阿瞞は白馬寺の門前を埋め尽くす人々を見て、足を止めるしかなかった。
浮屠の沙門は西域からやってきた、いわば外国人である。とはいえ、近年の洛陽ではそんな西域外国人の姿は珍しくない。群衆の声が
「なぁ、そのでかい外国人、どこから来たって言ったかな?」
「
「どこだい、そりゃあ?」
「西域よりずっとずっと西にある国だそうよ」
「はー。そんな遠いところからよく来たもんだねぇ」
「言葉は話せるのかい?」
「それが驚いたことに、片言だが、話せるらしい」
「俺よ、今日の朝、その男を見たんだよ。瞳が青くって、腕が脚のように太い。髪は
「一丈だって?」
一丈というのは、約二・二五メートルである。
「そんなのが一人じゃないんだろ?」
「ああ、五、六人ほど滞在してるって聞いたぜ」
彼らが話しているのは、大秦国からやってきた使者たちのことだ。
数か月前、大秦国
日南郡は後に大将軍・
ちなみに、大秦国というのはローマ帝国のことであり、安敦は時のローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことである。
彼らは賓客としてしばらく宮中でもてなされていたのだが、どこからかずっと宮中に留めておくのはよくないという意見が上がったらしく、代わりの滞在地が外国人の溜まり場となっている白馬寺に決まったのだ。彼らが白馬寺に入って日が浅く、暇な民衆たちは物珍しさに連日のように人だかりを作って、西洋の外国人を一目見ようと野次馬と化しているのである。
そんな野次馬根性の人たちだから、阿瞞の持った珍魚を目にすれば、今度はそれを目当てに騒ぎ出すに違いなく、阿瞞は彼らに気付かれないように早々と退散を決めた。阿瞞は再び自宅への道を帰る。無意味な往復。とんだ骨折り損に、
『本当に凶運をもたらす魚なんじゃないか?』
天人相応説など信じもしない阿瞞ながら、少し疑いを持ってしまった。
延熹九(一六六)年は〝赤〟に関する天象がはっきりと現れた年だった。
三月に都の上空に
天象を占う学者が言うには、これは近く皇帝が崩御する
九月には二人の清流太守、
成瑨は
二人の清流太守の血が流れることになったこの事件は
この結果に味をしめた濁流派はここぞとばかり、
その数は二百人以上に上った。
法律を
阿瞞が赤い鮒を手に入れたのは、ちょうどこんな時だったのだ。
阿瞞の父は大慌てだった。党錮事件の余波を受けて、どういうわけか叔父も逮捕されたのだという。
「どうして叔父さんが逮捕されたんです?」
「恐らく何か行き違いがあったのだろう。これから行って調べてみる」
父が屋敷を出ていった後、阿瞞は庭の池に急いだ。赤い鮒が泳いでいる。
白馬寺に寄付するのを断念した後、阿瞞は赤い鮒を家に持ち帰って、こっそり庭の池に入れておいたのだった。父も叔父も気付いていないが、
「まさかとは思うけど……」
叔父が危惧したように、この魚が家に凶運を招き入れたのだとしたら、これは見過ごせない。老人が釣り上げようとしなかった理由がこうなることを知っていたからだろうか。
とにかく、この魚を釣り上げてしまったのが自分自身なので、責任は取らなければならない。阿瞞は桶を片手に、足を池に踏み入れた。赤い鮒は阿瞞の意思を察知してか、池の中を素早く逃げ回った。
阿瞞が苦労して捕まえた赤い鮒を手に再び白馬寺を訪れた時は野次馬の姿はなかった。著名な二百人以上の清流人が逮捕されたという衝撃的な事件の方に関心が移って、彼らが連行される様子を見ようと、今度は城内の各路地を埋めていた。
勝手なものだ。しかし、凶兆を抱えた阿瞞にとっては有り難い。
『浮屠には邪気を清める力があるというし、白馬寺に寄付すれば、この魚に
その考えが正しいかどうか分からなかったが、阿瞞はとにかくこの凶魚をどうにかしなければならなかった。
「あの」
阿瞞は白馬寺の門前で静かに落ち葉を
「何でしょう? 何かお困り事ですか?」
その仏僧は穏やかな笑顔で聞いてきた。
「浮屠の教えは殺生を禁じていると聞きました。この魚を預かっていただきたいんですが」
「はい、構いませんよ」
仏僧は理由を聞くでもなく、阿瞞から凶魚の入った木桶を受け取った。
「
その仏僧に誘われて、阿瞞は白馬寺の敷地に入った。
境内は別世界だった。全体を沈静な空気が包み込んでいて、党錮事件の騒乱とはまるで無関係な平穏さだ。境内のほぼ中央に
白馬寺の
「何をしているんですか?」
「しっ、声を小さく」
仏僧が阿瞞に注意を
「……悟りに入っておられるのです。邪魔をしてはいけません。少し待ちましょう」
阿瞞は口を
しばらく静かな時が経過して、老僧が目を開いた。
「和尚様」
それを確認した仏僧が声をかけた。白い髭を生やしたその人が
「おお、
「この少年が珍しい魚をこちらで預かってほしいと」
「ほぅ、これは珍しい。では、そこの池に放してあげなさい」
支讖が支曜に指示した。支讖も支曜も理由を聞かない。阿瞞も理由を言わないのは申し訳なくなって、白状した。
「実はその魚は凶兆と言われている魚なんです。浮屠の教えは邪を清めると聞きましたので、持ってきました」
「凶兆? ふ~む……邪悪なものは感じないが、心配なら、一つ邪を
支讖は支曜から木桶を受け取って、それを地面に置き、再び座禅を組むと、両手を合わせて
支讖は大月氏という国からやってきた。二十年も前のことである。
もともと大月氏の人々は
それが北方騎馬民族の
前漢の武帝は匈奴の脅威に対抗するため大月氏と同盟関係を築こうとし、
後漢時代の大月氏は
支讖たちは仏教を広めるために遥々来訪したわけだが、その崇高な目的と遥かな道のりを想像すると、支讖の読経の意味は分からずとも、阿瞞には清涼なものに聞こえた。
そして、それに誘われるかのように現れた大男たち。大秦国からやってきたローマ人だ。彼らも目的こそ違うが、危険を
彼らの登場に阿瞞は目を見張った。そのうちの一人はさすがに一丈はないが、空を見上げる程の背丈に金色の髪、青い瞳。誰かが言っていた通りだ。
支讖の読経が止むのと同時に木の葉がふわりと凶魚の入った桶の中に舞い落ちた。
「オショウ、私たち帰ル。サヨナラです」
少し腹の出た中年とおぼしきローマ人が片言で言った。彼らはすでに荷づくりをして出発の用意を済ませていた。
「お、コレ何?」
金髪で彫りの深い顔立ちのそのローマ人は桶の中のものに気付いて聞いた。
「コレ、いいネ。コレ買います」
その男は別れのあいさつをしたばかりだというのも忘れて、唐突に支讖に交渉を持ちかけた。
「これは売り物ではない。それにこの魚の持ち主はわしではない。この少年じゃ」
支讖が言って、阿瞞を指した。
「おお、ボンジョルノ、少年さん。私、ペシオスです。コレ欲しい。いいですか?」
ペシオスは阿瞞に向かってあいさつと自己紹介を済ますと、単刀直入に訴えた。
実は彼らは大秦国の使者と言っているが、東洋の珍品を求める商人たちだった。
赤い珍魚を目にして、是非ともローマまで持ち帰ろうというのだ。
「それは凶兆の魚ですよ」
「キョウチョウ? 何ですか?」
「悪い魚」
阿瞞は気を
それを聞いたペシオスは首を振りながら、
「コレ、私たちにとって、いい魚。悪いは少年さん。少年さん、悪い火あります」
オーバー・アクションを交え、阿瞞の胸を指しながら言った。
「えっ?」
阿瞞は賢い少年であったが、さすがに片言のペシオスが何を言いたいのか分からなかった。
「この者は占いもやるそうじゃ。
その補足をしてくれたのが支讖和尚だ。
「私、少年さんの悪いモノ、いいモノあげます。そして、コレ買います。いいですか?」
阿瞞がまた通訳を求めて支讖を見ると、
「どうやら火難の相を
そう翻訳してくれた。交換条件のようらしい。
「どうしたらいいですか?」
「君が決めることじゃ。それに本来生き物に良いも悪いもない。全ては人の考え方次第じゃ。所変われば、良いものも悪く思われるし、悪いものも良いと思われる」
「分かりました」
「おお、いいですか?」
ペシオスの三度目の「いいですか?」に阿瞞が答える。
「いいです」
白馬寺の小さな池にペシオスが小瓶から取り出した白い粉末を
「コレ、私のヒミツ。誰に言わない。お願いします」
ペシオスはそう断ってから、ぶつぶつと理解のできない呪文を
支讖のサンスクリットとも違う音が阿瞞の耳に響く。しばらくその奇妙な音に耳を澄ませていると、まるでその呪文に導かれるかのように、池の底から水泡が上がってきた。
阿瞞、支讖、支曜らが見つめる中、泡立った水面が上下し、それが魚のような形となった。池の水でできた透明な魚。それが水面を
「ほぅ。見たこともない術じゃ」
西域から旅してきた支讖も初めて目にする西洋魔術。
阿瞞は言葉も失い、それを見つめた。そして、唖然とする阿瞞の目の前で、さらに驚くべきことが起こる。ペシオスが両手を空に
天空へ昇る龍を見上げた時、それは弾けるように散って、阿瞞の上に雨のように降り注いだ。お陰で阿瞞はびしょ濡れになってしまった。
「コレ、少年さんを悪い火守る」
商人であり、占い師であり、さらに魔術師の一面を見せたペシオスがそう阿瞞に言った。
「私、少年さん、いいモノあげました。コレ、いいですか?」
ペシオスはそう言って、阿瞞の足下に置かれていた桶の中身を所望した。
しかし、
「あっ」
見ると、桶は降り注いだ水で
「ああ、悪い!」
ペシオスは自らの術が招いた凶運に頭を抱えた。びしょ濡れの阿瞞はそれもこれも赤い鮒がもたらしたもののような気がした。
「ははは、自分の故郷を離れたくないのじゃ」
支讖が鮒の気持ちを代弁して
失意のペシオスらローマ人の一団は白馬寺を
門前でペシオスが支讖に別れを告げる。
「今、ブッソウ。オショウ、気をつけて」
それは党錮の大騒ぎが原因でもあった。彼らも政治が混乱している事情を察して、洛陽から退避するのが一番だと決めたようだ。すでに洛陽の市場で入手した東洋の珍品が荷車に満載してある。混乱でこれらを失うことになっては
「そなたたちの旅の安全を祈ろう」
支讖が彼らのために手を合わせた。
「アリガトウ。サヨナラ。少年さん、サヨナラ」
ペシオスは支讖と阿瞞に別れを告げ、ローマ人の一団は南へと去って行った。
「和尚様、私もこれで失礼します」
凶兆の魚を釣り上げたことが叔父や清流派人士の拘束という事態を招いたのだとしたら、その魚を放してやれば、彼らも解放されて、事態はよい方向に収まるのではないか――――。
凶兆の魚を適当なところに手放して、憂いがなくなった阿瞞も家に戻ることにした。
その効果があったのか、叔父の誤認逮捕はすぐに明らかとなった。
阿瞞の叔父はその時、用があって三世三公の名家・
袁家の一族に
叔父の名も、たまたま〝忠〟であったので、それが単純な誤解を生んだらしい。
「阿瞞の持ってきた凶運のせいでえらい目に
釈放された阿瞞の叔父はその幸運を喜ぶどころか、自らの不幸があの赤い凶魚のせいだと信じて、阿瞞の父に
話の
「凶兆の魚? 何ですか、それは?」
阿瞞は眉をひそめて、堂々とすっとぼけた。
「お前が家に持ち込んだと聞いたぞ」
阿瞞が
「やれやれ、叔父上にも困ったものです……。叔父上は私のことをよく思っていませんから、そんなことを言って私のせいにするんですよ。確かに川で釣った魚を持ち帰りましたが、何の
阿瞞が立て板に水の如く語るので、どっちが正しいのか父も首を傾げて、
「……まぁ、よいわ。世の中どんなことで誤解を招くか分からん。我が家に凶運を招かぬよう、これからはいつも以上に身を
そんな
阿瞞とは〝ほら吹きくん〟といったニュアンスがある呼び名だ。
赤い凶魚を釣り上げたこと。白馬寺でローマ人の
それら
自分たちを
『まぁ、いいか』
阿瞞は別にそれを気にする風でもなかった。
白馬寺で見たそれは本当に幻想なのかもしれなかったが、それは確かに阿瞞の脳裏に焼き付き、阿瞞を火難から守る力は確かにその中に宿ったのだ。
「君の叔父さんには悪いことをしたな。そんな凶魚が存在するんだったら、今度釣り上げた時は俺に言ってくれ。宦官に送り付けてやる」
凶魚の話を信じたわけではないが、一人だけ、そう言う者があった。袁家の
「それはいい。もう凶魚を釣るのは御免ですが、さっそく何か送り付けてやりましょう」
「どうするんだ?」
「そうですね……。腐った魚を高価な箱か何かに入れ、上から土を
阿瞞は鼻をつまむ仕草で
「はっはっは、それは面白い」
二日後、袁忠を取り調べているという宦官・
この一件がきっかけとなって、二人は悪童仲間として親密になっていく。
そして、凶魚が解放されて十日――――党錮で逮捕された清流人たちも、皆釈放されて一連の
郷里に帰されて、官吏に登用されない禁錮処分は続いたものの、翌年、党錮の命を下した桓帝が崩御して、李膺や杜密、袁忠などの清流人たちの罪も消え去った。
禁錮処分が解けた彼らはこぞって再登用され、再び政治の浄化に努めることになるのだが、それも束の間のこととなる。ともあれ、
「今やあの凶兆の魚は吉祥の魚となったな。オレも名を
「どんな名だ?」
「
「はっきり言って似合わないぞ。阿瞞の方がよっぽどしっくりくる」
「構わないさ。吉利と支丹、ちょうどいい感じだ」
「その支丹って名、どうも気に食わない」
「いいじゃないか。王甫に一発食らわせた英雄の名だぞ。これからは吉利と支丹だ」
不満顔の支丹の横で、阿瞞改め吉利が愉快そうに笑った。
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