其之六 勝利の狼煙

 孤立無援こりつむえん四面楚歌しめんそか張譲ちょうじょうは左手に赤い玉を握り、右手には火の球を生じさせて、辺りを火の海に変え、邸内を恐怖に包んでいる。

 吉利を取り巻く状況は絶望的だ。だが、吉利に動揺はない。むしろ、全神経を集中させ、沈着冷静でさえある。外廊の柱の影に身を隠しながら、視線は張譲の右手から離さない。

「隠れても無駄じゃ!」

 張譲が発した火の球が吉利が隠れる柱に当たって弾けた。火の粉がそこら中にばらまかれて、近くにいた私兵の袖に引火した。その私兵は喚きながら火を消そうとあがいたが、それはできずに上半身を火だるまにして、池へと飛び込んだ。

『直撃じゃなくてもマズいな』

 冷静に判断を下した吉利が外廊を走る。張譲の火の球がそれを追う。柱に当たった火の球が弾け、赤い気をたなびかせて火の粉を散らす。吉利にも外郎の柱にも当たらなかった火の球はその向こうの倉庫のような建物に命中した。木造の壁に穴が開き、火が付く。吉利は外廊の奥に続く前堂へ身を投げ入れた。

 ところが、間髪入れず、火の球も次々と投げ入れられる。それは壁に当たり、弾けてはりや天井を炎に包んだ。

「自分の屋敷を焼くつもりか?」

 吉利はそう皮肉りながら前堂を抜け、さらに奥の張譲の主邸に侵入した。

 そこも豪奢ごうしゃな家具と調度品で飾り付けられている。吉利はそれを一瞥いちべつしただけで、奥の部屋へ向かう。建物を遮蔽物しゃへいぶつとして利用し、身を隠しながら、張譲の死角に回り込むつもりだ。

 突如、意匠いしょうらされた窓枠が打ち破られ、火の球が吉利の背中をかすめた。

 それは飾られてあった絹の着物に命中し、あでやかだったそれを一瞬で無残な灰へと変える。さらに、数発の火球が部屋の中に打ち込まれた。その度に高価な調度品が破壊され、置物が床に落ちて砕け、壁に穴を開ける。飛び散った火の粉が部屋中に広がって、辺りを炎に包む。やかたごと吉利を焼き殺そうというのか。

「ちっ、狂ったか!」

 吉利は炎に包まれた部屋を縦断して、追い立てられるかのように裏から飛び出た。激しい憤怒ふんぬに駆られた今の張譲に自分の屋敷も財産も眼中にない。

 もっとも、その心に怒りの火を付けたのは吉利本人だが。

「本当に自分の屋敷を燃やし尽くしたいようだな。面白い。それなら、望み通りにしてやる」

 身をさらすのに憶することなく、吉利はあえて張譲の目に留まるように悠然と館内を移動してみせた。まるでそこが自分の屋敷であるかのように。時には調度品を手に取って鑑賞するようなおちょくりようだ。

 張譲? そんな奴は放っておけ。無視していい。火の球? 知ったことか。腐者ふしゃが為す術など恐れるに足らん――――吉利の態度からはそんな声が聞こえてきそうだった。

 それが邸外にある半狂乱の張譲をさらに刺激した。皇帝にも意見できる権力者の自分がここまでこけにされたことは未だかつてない。

「……私を誰だと……ここを誰の屋敷じゃと思うておるかっ!」

 怒りに任せて口走ったその台詞せりふと相反して、ますますヒートアップした張譲が火の球を乱発し、次々と屋敷に打ち込んだ。またもや飛散した火の粉がそこら中に火を付ける。

 吉利は窓の向こうに捉えている張譲の様子に異変を感じた。顔は汗ばみ、肩で息をし、右手はだらんと下がっている。明らかに疲労の色が見て取れた。

『奴め、怒り疲れたか? 注意が散漫してきたようだ』

 一瞬、張譲は視線を落とし、吉利から目を離した。それを見た吉利は一転、素早く身を隠すと、部屋を二つほど走り抜けた。

「どこに隠れおった?」

 吉利の姿を見失った張譲が叫んでいる。吉利は横合いからその姿を捉えている。

 視線の先に一人の私兵が映った。火の球に焼かれるのを恐れたのか、別邸の門の裏側に隠れて狂気の主人の様子を窺っている。吉利は音を立てずにその私兵の背後に忍び寄り、首筋をふん捕まえると、喉元に剣を当て、

「協力してもらうぞ」

 その私兵を盾にして張譲へ突進した。張譲は気付くのが遅れた。陰湿な双眸そうぼうが私兵の背後に隠れた吉利を見つける。私兵の命など微塵みじんも顧みない。役に立たない私兵はゴミに等しい。張譲はより巨大な火の球を創出して、吉利諸共もろともそれを焼却処分しようとした。

「ぎゃあ!」

 胸の辺りに火の球の直撃を受け、その私兵が炎に包まれた。構わず、吉利は盾代わりにして前に押し出し、さらに後ろから背中を蹴り飛ばして、その哀れな私兵は燃え盛りながら張譲に向かって行った。張譲はそれを慌てて避けたが、炎をまとった私兵はそのまま別の館の扉に突っ込んで、木製の扉に炎が燃え移った。

 張譲はその一瞬の出来事でまたも吉利を見失った。

「どこへ消えおった?」

 いくら妖術が使えようとも、所詮は宦官である。武器を取って戦うことのない彼らが殺気を読むという芸当はできない。すぐ背後にまで迫った吉利に気付くのが遅過ぎた。強く握った赤い玉が張譲に悪運を与えたのかどうか確認する術はない。

 だが、肉薄した吉利に驚いた張譲はバランスを失って仰向けに倒れ込んで、吉利の剣がくうを斬ったのは事実だ。

「何っ!」

 倒れ込んだ張譲が勝利の笑みを浮かべ、赤い玉を握った左手を突き出した。

「死ねぃ!」

 至近距離から放たれた火の球が吉利を襲った。それは吉利の体に命中する直前、炎が消えて、赤い気だけが吉利に当たっただけだった。直撃を食らったはずの吉利は自分の体に何の異常も感じなかった。

「何が起こったのじゃ?」

 火の球を飛ばした当の本人が理解できない。左手の玉が発す気は弱々しくなっている。

「どうしたの……いぎゃ!」

 張譲が悲鳴を上げた。吉利がその手を蹴り飛ばし、赤い玉が地面を転がっていった。狙いを張譲から赤い玉に変えていた吉利の判断は驚くほど早かった。

 張譲を放置して咄嗟とっさにその玉を追った。そして、それをその手につかむ。

 溶解した鉄のような色をした宝玉。一瞬、熱い感触が吉利の手を刺激したが、

 シュウウゥゥ……。

 まるで水が注がれたかのように、急激にその熱は冷めていった。

 明るかった色は輝きを失い、暗くくすむ。そして、吉利の手に転がり込んだその玉はさらに気を弱め、ついに気を発しなくなった。

「こいつも高く売れそうだ」

 吉利は赤い玉の変化を目にしながらも、その価値を認めて言った。

盗人ぬすっとめ、それを返せ!」

「ふん、天下をかすめる盗人腐者が何を言う。お前こそ盗んだ天下を返すがいい」

 赤い玉を手にした吉利はそれをふところへしまいながら、冷めた口調で言う。

 盗賊風情に天下泥棒と皮肉られ、張譲は倒れたまま、怒りと屈辱で赤い玉のように顔を真っ赤にした。そして、

 「ぐぬぬぬ……何をしておるのじゃ、奴を殺せ!」

 自ら火の球を放って場を擾乱じょうらんさせたのを棚に上げ、自分の背後に小魚の群れのようにかたまりとなって、うろたえて働かない私兵たちを叱責した。

 主人は圧倒的な権力者だ。命令に従わなくても死が待っている。私兵たちは主の怒声に我に返って、再び吉利に襲いかかった。

 吉利は張譲を人質に取るのはあきらめ、屋敷の裏口に向けて走った。裏口といっても、そこは園林のようになっているところで、四方を高く堅固な土塀どべいが行く手をさえぎっていて逃げ道はない。

 吉利が目指したのは土塀のすぐ側、園林の一角にある竹林だった。

「待ちやがれー!」

 追手の声が迫ってきた。吉利は手頃な太さの竹を一本切って、竹槍たけやりにした。

 一番先に追いついた男が一番手柄を得ようと息巻いた。

「このクソ野郎、てめぇはもう……」

 が、言い終わらぬうちに、その私兵は腹に突き刺さった剣に視線を落として突っした。

「なっ……、ハン! この馬鹿、今度はその竹槍で戦おうってのか?」

 仲間が捨て身の攻撃にやられたのには驚いても、二番手の男はいよいよ有利になった情勢に敵をあざける余裕があった。それがかんさわったので、吉利は竹槍を優雅に舞わせながらその私兵ににじみ寄り、十分に槍術そうじゅつ心得こころえがあるのを見せつけてから、穂先を私兵の鼻先へと突き付けた。

「うおっ!」

 その私兵は吉利の気迫に押されて後ずさりした挙句、仲間の死体につまずいて尻餅しりもちをついた。

「ふん。お前たちのような蛆虫うじむしをいちいち相手にしていても切りがない」

 吉利はその無様な様を鼻で笑った。このような雑魚ざこは釣り上げる価値もない。

 そんな雑魚の群れが園林の入口に続々と集まってきていた。吉利はそれを気にも留めない。目的は達成した。陳逸を救出し、赤い玉も奪った。もう用はない。

 吉利は竹槍をぐるぐると回した後でそれを地面に突き刺し、その反動を利用して、いわゆる棒高跳びの要領で塀を駆け上がった。支丹にはできない芸当だ。

 この脱出プランは前日、張譲の屋敷を視察した際、張譲を人質に取る第一案ファースト・プランが失敗した時の代替案セカンド・プランとしてひらめいたものだった。

 塀の上に立った吉利の視界に天に立ち昇る黒い煙が入った。炎が延焼して張譲の館を焼いているのだ。それは吉利にとって勝利の狼煙のろしだ。

 勝利者の吉利が敗北者の張譲の私兵たちを悠然と見下す。その目は私兵たちに向けられようとも、その心が向いているのは遥か彼方かなた炯眼けいがんの男だ。

『どうだ、許子将きょししょう……!』

 敵地に入って大暴れを演じ、捕らわれた清流派n男を解放した。濁流派の大物を相手にした吉利の最後の戦いは完勝といっていい。

「射ろ、射ろ!」

「逃がすなっ!」

 私兵たちの声が響き、土塀の上の吉利に見張り台から次々と矢が注がれる。

 だが、もはやそれらは天運を摑んだ吉利を捉えることはできず、吉利は塀の上から雑魚の群れに一瞥をくれて、屋敷の外へと飛び下りた。

 厳恪げんかくらが張譲の私兵の多くをおびき寄せるようにして逃げてくれたお陰で、すぐに吉利を追える者はいなかった。


 吉利が顔の炭を洗い落とし、衣服を着替え、まるで何事もなかったかのように陳寔ちんしょく邸に帰還した時はすでに日が傾きかけた頃だった。

 斜陽が照らす門前で出迎えてくれたのは、やはり、山賊の格好から貴族の青年の姿に戻った支丹だった。

「……生きて戻ったか」

「当たり前だ」

 吉利は支丹の心配を一蹴するように答えた。そこでの会話はただそれだけで、二人は陳寔邸に入った。客舎に入ると、陳寔邸に滞在する清流派の面々が敬意を表して、それぞれ殊勲しゅくんの吉利を迎えた。

「おお、無事で何より。若き英雄の凱旋がいせんだ」

此度こたびはかりごと、まさに神算鬼謀しんさんきぼうというべきであるな」

「まさしく。感服つかまつった」

 陳紀ちんき陳諶ちんじん韓融かんゆうの賛辞に続き、荀爽じゅんそうが吉利の手並みを評する。

「鮮やかであったな。どんな詭計きけいであれ、この結果を見れば見事と言うほかない」

 吉利の詭計が披露された時は、危険すぎる賭けと清流的ではないやり方に少なからず反感を抱いていた彼らも、最大の結果を得て溜飲りゅういんを下げたようだった。

 吉利は自らの才覚一つで清流派名士たちに自分を認めさせたのである。

 しかし、まだ気を緩める吉利ではない。党人二人の後先を荀爽に尋ねた。

「喜ぶにはまだ早い。お二方はどうされましたか?」

「厳恪とともに去った。もう随分前だ」

「よし」

 あらかじめ吉利が指示していた通り、陳逸も張倹も陳寔邸には戻らずに、そのまま行方をくらませた。カモフラージュはしてみたが、張譲が今回の事件をいつまでも金藐きんびょうの反乱と思うはずがない。すぐに清流派が絡んでいることを突き止め、追手を差し向けるだろう。当事者は皆、一刻も早くこの地を去る必要があった。

 荀爽や韓融も例外ではない。予め決めておいた吉利や支丹、厳恪らの逃走経路に馬や食糧、着替えの服を用意して、後方支援を行ったのは荀爽ら清流派の党人たちだった。

 彼らは豪族の出である。彼らの声名をしたう人たちの援助もあろう。逃亡資金には困らないはずだ。吉利が案じたのは協力を仰いだ義賊たちのことだった。

「金はちゃんと渡したか、支丹?」

「もちろんだ。半分は厳恪に、半分は周済しゅうせい殿に渡した」

 すでに周済も義賊たちと姿を消していた。

 先に吉利が陳逸救出作戦の全容を披露していた時、周済がその場にいなかったのは、この義賊たちを集めるのに奔走していたからだった。そのほとんどは悪徳な者に土地や財産を奪われ、流浪せざるを得なくなった人たちで、彼らはその恨みをすすごうと、濁流貴族たちの財産を奪う義賊となった。中には肉瓢箪に財産を奪われた者もいて、そうした背景から彼らはこの計画に全面的に協力してくれたのだった。

 吉利がわざわざ陳逸や張倹にかけられた懸賞金を騙し取ることを計画に盛り込んだのは、そんな事情も考慮してのことである。その機転で、懸賞金は彼らの救済金、逃亡資金へと変わった。

慈明じめい元長げんちょうも、お前さんたちも早く発った方がよいぞ。儂は張譲に恨まれておらんが、念のためじゃ」

 文範先生・陳寔が部屋に入ってきて、皆の出立を促した。

「そう致します。では、先生、お達者で」

 韓融に続き、

「先生、文若ぶんじゃくをよろしくお願い致します」

 荀爽は甥っ子の面倒を陳寔に託し、深々と礼をすると、文諝ぶんしょとなって部屋を出て行った。吉利は袁閎えんこうの姿を探したが、その姿はもう見えなかった。

「先生、袁夏甫えんかほ殿は?」

 吉利は屋敷を出ようと歩みを進める支丹の後ろで、小声で陳寔に尋ねた。

「昨夜のうちに帰ったよ。久しぶりに外の空気を吸って気が済んだようじゃ」

「何か言伝ことづてはありましたか?」

「いや、何も聞いておらんが……」

「そうですか」

 吉利と袁閎の会談内容は陳寔にも伝えられていなかった。

 仙珠の情報を宦官が狙っている。それを知る者は陳逸のように捕えられ、尋問・拷問ごうもんを受けることになる。他の清流派たちを危険にさらさないために、袁閎は仙珠の情報を他言することなく、独りそれを秘匿ひとくしてきたのだ。

『秘密を抱えてまた眠るか……』

 また土室へ戻って仙珠とその情報をひた隠す生き方をするのだろうか。

 だが、袁閎がそれを続ける限り、濁流派の連中に黒水珠を探し当てられる危険性は低いだろう。

『仕方ない。また次の機会にするか……』

 時間さえあれば、ふところの赤い玉と張譲が行った妖しげな術について袁閎に尋ねてみたかったが、今はその疑問を心の内にしまい込んだ。

「それでは、先生。お世話になりました」

 支丹が拱手して別れのあいさつをした。

「うむ。お前さんたちのお陰で消えかけた清流が一つ救われた。礼を言うよ。いずれお前さんたちに清流の行く先を託す日がくることじゃろう。それまで身を清めておきなさい」

 陳寔はそう言って、二人の有望な若者を未来へと送り出した。

 

 商人に身をやつした党人三人は馬を駆って間道を抜け、東へ向かった。そして、 日が落ちるのを前にして小さな逆旅げきりょ(宿屋)で一夜を過ごすことにした。

 許の県城から遠く離れてたたずむそこには三人以外に客はなく、彼らは安心して疲れた体と気を休めることができた。

「……遅くなったが、命拾いしたこと、礼を言う」

 陳逸が厳恪こと張邈ちょうばくに拱手して頭を下げた。

「あいや、お止めください。私はただお二方を連れ出しただけ。礼は吉利に言ってください」

 張邈は慌てて陳逸の腕を抱え上げ、謙遜して言った。そして、

「それにまだ安心はできません。すぐに追手に見つかることはないでしょうが、未明にも発ちましょう」

「三人で行動すれば、おのずと目立ってしまう。私は一人で発とうと思う」

「行く宛てはあるのですか?」

「ない。ないが、どうにでもなる」

 自分と関わってきた者たちを多く殺してしまった自責の念。張倹の心からそれは永遠にぬぐい去れない。

「分かりました。では、子実しじつ様にはこれを渡しておきます」

 部屋の隅に腰を下ろしていた張倹のもとに歩み寄って、張邈はふところにしまっていた袋を差し出した。

「これは?」

肉瓢箪にくびょうたんから奪った金です。もともと子実様に懸けられていた懸賞金ですから、子実様が逃亡資金としてお使いください。優に数年分は足りると思います」

「かたじけない」

「いえ、これも全て吉利の計画のうちですから」

「君はあの吉利という男の友人だったな。恐ろしくないのか?」

「恐ろしい? 何がですか?」

「鋭過ぎるあの思考だ」

「確かに鋭さは天下一品でしょうが、それがなければ、お二方を助け出すことはかないませんでした」

「……そうかもしれないが、私は恐ろしいと感じた」

 怜悧れいりさを秘めたあの鋭さは諸刃もろはの剣だ。一つ使い方を誤れば、自分の身をも切り裂き、味方をも傷つける危うさを秘めている。自分がその材料にされたことで、張倹は吉利という男の恐ろしさを身をもって知った。

 同じくえさにされかけた張邈であったが、吉利をよく知る分、その刃に慣れてしまっていて、少し鈍感になっているのかもしれない。逆に吉利の才覚に改めて感服していた。

「人物評では天下一品の許子将殿が吉利を〝治世の能臣、乱世の奸雄〟と評したそうです。私は彼こそこのような時代に必要な人物だと思っています」

 ただ清廉正義を振りかざして濁流派に対抗しても、歪んだ政争に勝てないことは党錮という二度の歴史が示している。濁流派の悪しき策謀に打ち勝つためにはそれに代わる新たな武器が必要なのだ。

 常道を飛び超え、常識を覆すような革新的な才能。吉利はそれを持っている。

「そうか……」

 張倹はそれ以上、何も聞かなかった。

「正義は死なずだ。今は命があることを喜ぼうではないか」

 吉利のことを知らない陳逸は経緯がどうであれ張譲の魔手から逃れられて、心から安堵していた。仙珠の情報を張譲などに漏らすわけにはいかない。亡父の願いを叶えるため、まだ死ぬわけにはいかない。

 いずれ仙珠を取り戻す仲間を見つけ、濁流派と対抗する――――。

 それを成すのは張邈が言う吉利という男になるかもしれない。

「その通りです。この暗い時代に吉利が火を灯してくれるでしょう。それが赤く明るい火だと信じましょう」

 友に誓って、自分は生きなければならない。張邈の言葉に張倹はただ黙って頷いた。


 激戦の許県を後にし、吉利と支丹を乗せた馬がゆっくり街道を行く。

 二人はくつわを並べながら、最後の吉利・支丹の会話をした。

「俺はこのまま濮陽ぼくように向かうことにする」

「山賊がどこぞの県長になる世の中か」

「協力してやったこの俺に、よくそんな口が利けるな」

「怒ることもないだろう。支丹が袁紹えんしょうになる、そういう意味だ」

「そうだ。もう支丹は卒業だ。これ以上お前の悪ふざけに付き合わされるのは二度と御免だ」

 支丹を卒業――――それは、偽名を捨てて、袁家の御曹司本来の姿に戻るということだ。

 本名は袁紹、あざな本初ほんしょという。いずれ、曹操のライバルとして立ちはだかる男である。

「お前も孟徳もうとくに戻ると言ったな。これからどうするつもりだ?」

 吉利の本名こそ、曹操そうそうあざなを孟徳。これからの時代を築く中心人物となる若き英雄だ。

平輿へいよで陳家の使用人だった爺さんにってな。陳君の身を案じていたから、戻って無事を知らせてやろうと思う。肉瓢箪の死を併せて伝えてやれば、大層喜ぶだろう」

 曹操はその後に本心を打ち明けた。

「……それに、もう一度、許子将に会いたい」

「子将殿の評価をもらわなくても困りはしないだろう。遠回りをする奴だ」

 袁紹は曹操が人物鑑定の名士たちを訪ね歩いているらしいことは知っていた。

 ただ、今回の曹操と許劭きょしょうとの間にあった駆け引きは知らない。

「遠回りがいい時もある。面白いことに立ち会えた」

 曹操は満足げに言った。

 許劭の評価、張倹ら清流派名士たちとの出会い、袁閎が語った清濁抗争の背後に隠された秘密。張譲の使った妖しい術。そして、危機に身を晒して戦い、手に入れた赤い玉……。

 この赤き玉を手に入れたことは決して偶然ではない。許劭は自分の瞳の中に赤い星を見た。

「ふ~……。やっぱり、よく分からん奴だ」

「結構だ」

 曹操は奸知かんちけた変人奇人だ。頭を振る袁紹の目にはそう映る。それは構わない。袁紹に理解されなくてもいい。だが、許劭は分かっただろう。曹操は許劭との見えない闘いにったと思った。

 自分の才知で陳逸を助け出した。自らの実力で天運を導き、赤い玉を手にした。

 許劭の眼に対して、己が実力を証明してみせたと思った。だからこそ、再び許劭とまみえるのが楽しみなのだ。一体、どんな顔でどんな言葉を吐くのか?

 何にせよ、その言葉が自分の未来を切り開くものになるということを、はっきり確信できた。

 曹操は思い切り息を吸い込み、吐き出した。新鮮な空気、勝利の余韻よいんが気持ち良かった。これからの一息一息、一歩一歩が曹操孟徳のものだ。

 若き英雄・曹操を照らす真っ赤な夕陽。日が沈もうとしていた。

「さらばだ、孟徳」

「おう」

 二人は道が南北へ分岐するのに合わせて別れた。

 袁紹は北へ、曹操は南へ――――。

 二人の進む道が再び合流し、交差するのは、しばらく先のことになる。

「はいやっ!」

 曹操は馬にむちを入れた。混沌の時代に突如現れた赤き新星。

 曹操孟徳を乗せた馬は地平線に半分姿を隠した落陽らくようの赤い日差しに吸い込まれるかのように駆けていった――――。

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