其之五 虎口へ

 張譲ちょうじょう邸。広大な敷地の中央に張譲が余暇を過ごす私邸があった。敷地には自らの権勢を誇示するかのように大館たいかん高楼こうろうが立ち並んでいる。

 皇帝の側仕そばづかえである宦官は普段は都に居を構える。張譲ほどの有力宦官ともなると、帰郷するのは数年ぶりということも珍しくない。それでも、私財を蓄えた彼らはめったに帰ることのない郷里に豪邸を建て、荘園しょうえんを持ち、一族の住まいとしているのは普通のことであった。ぜいを尽くした邸宅内には細かな意匠いしょうほどこされた家具の数々が置かれ、香炉こうろ燭台しょくだいといったみやびな調度品、彫刻品や陶器などの優美な芸術品が所狭しと飾られている。

 主人が座る床にはシルクロードを越えてきた外国製の高級絨毯じゅうたんが敷かれ、背後には西域せいいきから運ばれてきた玉石の置物、部屋には乳香にゅうこうの甘い香りがうるわしく充満していた。どれもこれも一般人には縁のない大変貴重かつ高価な品々だ。

 だが、張譲が探し求めている物はこれらさえ比較にならない程の価値を有する。

 白い喪服姿の張譲がその所在を聞き出そうと、陳逸ちんいつを尋問していた。

「……御承知だとは思いますが、あなたの父は国家に反逆した罪でちゅうされました。ですが、それとは別にある罪にも問われていました。おおやけにこそなっていませんが、国宝の宝珠を盗んだ罪です」

 尋問が核心に迫った。言葉こそ丁寧であるが、その不自然な声の高さに陳逸は嫌気を覚えた。宦官とは去勢された男子。つまり、男であって男ではない。

 その不自然な存在の上に、男の権欲と女の執念をあわせ持つ。

「あの珠は陛下の側になければならぬ物。行方を御存知なら素直に教えてもらいましょうか?」

 切れ長の細い目から刺すような視線が放たれて、陳逸を鋭く射た。

 陳逸はただにらみ返すだけで答えない。

「知らないはずがない。……いいですか、これは国家の一大事なのです。陛下に忠義を尽くす気持ちがあるのなら、今ここで示してもらいましょう。その忠義を見届けたなら、私も陛下に恩赦おんしゃを願い出てもいいのですよ?」

 まるで検察官のように言うが、そんな取引が罠であることは百も承知だ。

「本当の忠義とはお前ら腐者ふしゃを誅すことよ。剣をもらおうか。その忠義を見せてやる」

「減らず口は親譲りですか?」

「ふん。お前ら腐者の考えはお見通しよ。父が今もお前ら腐者の腹黒さと悪行を教えてくれておるわ」

 男子を去勢する刑罰のことを〝宮刑きゅうけい〟とも〝腐刑ふけい〟ともいい、そこから宦官のことをさげすむ〝腐者〟という言葉が生まれた。

 ちょうど清流派と濁流派の抗争が激化した時は、宦官は悪の象徴のような存在となって、清流派は宦官のことを「腐者」と呼んだのだ。

「おやおや、随分卑屈だねぇ」

 張譲は顔が引きりそうになるのを抑え、平静を保って言った。

 確かに父親譲りの剛直な性格のようだ。陳蕃ちんばんを思い出して憎たらしい。

「実はな、今日は葬式じゃというのに、肝心の死人がおらぬのよ。素直に吐かないなら、お前に死人になってもらうよ」

 張譲は手段を変えて、今度は一転、言葉にやいばを持たせて恫喝どうかつした。本性を見せたのだ。が、そこに水を差すような報告が入った。

「御主人様、金藐きんびょう様が再びお見えになりました」

 使用人が扉の向こうで言った。それを聞いた張譲の顔が大きくゆがんだ。

 こちらの計画をふいにしてくれた欲にまみれた大馬鹿者。お陰で自ら尋問しなければならなくなった。

 実は陳逸が流刑に処されたのは、わざと陳逸に逃げ出すチャンスを与えるためだった。陳逸が仙珠の所在を陳蕃から聞いていたら、必ずそれを手にしようとするに違いない。拷問ごうもんにも口を割らなかった陳逸を泳がせ、それを追跡することで仙珠の在り処を探ろうという、張譲が立案した濁流派の遠謀深慮えんぼうしんりょだったのである。

 そうとも知らず、陳逸はうまく流刑先から脱走し、故郷に舞い戻ってくれた。

 そうとも知らず、金藐は仙珠の隠し場所を突き止める前に陳逸を捕えて連れてきた。

 金藐はそんな計画を知らなかったから、高額の懸賞金のかけられた党人を捕まえて御機嫌だった。張譲は何も持っていない手ぶらの陳逸を見て、怒り心頭、金を金藐に投げ与えて追い返したのだった。自分の計画が自分の部下の手によって破綻したのである。

 かつての陳蕃の計画を密告してきた功労者とはいえ、張譲はもともと金藐が好きではない。まだ仙珠の行方が定かでない以上、陳家の事情に詳しいということで依然利用してはいるが、美しい物を好む女性的な部分が濁声だみごえへつらってくる肉瓢箪にくびょうたんを生理的にも好きになれるはずがない。体臭も酷いのだ。また香を強めねばならない。

「……どういう用件でじゃ?」

「ご自分の口から御主人様のお耳に入れたいそうです。吉報だと申しております」

「分かった。通せ」

「はい」

 使用人は早速、金藐を迎えに立ち去った。

 吉報というなら我慢もしよう。もしかすると、仙珠のことかもしれない。

 と、そんな張譲の心理を知らない金藐は部屋に通されると、

「お取り込み中のところ、申し訳ありません」

 ただ拱手の礼をとるだけでも窮屈そうな肥満体を折り曲げて、にやけながら切り出した。

「実は謝礼のことで改めてお話がありまして……」

「不足じゃと申すのか?」

 張譲が蛇のような目でにやにやする間抜けづらを睨みつけた。

「いえいえ、滅相めっそうもございません。額は十分なものを頂きました。私が言いたいのはですねぇ、そのぉ……そこの陳逸だけではないですよねぇ、捕まえたら金になる党人は……ゲヘヘ」

 金藐は慌てて否定したものの、みるみる顔が緩む。陳逸はいきどおりに歯を食いしばる。

「何じゃ、勿体もったいぶらずに申せ」

「え~、実は私の部下が張倹ちょうけんという党人を捕えましたので、それを報告に参ったのです。つい先程のことでしたので、こうしてすぐに張譲様にご報告できました。ゲヘヘ……」

「張倹じゃと?」

 肉瓢箪を視界に入れようともしなかった陳逸だったが、その名前に思わず、振り返った。

「はい。張倹といえば、かなりの懸賞金がかかっていたと記憶しておりますが……」

 金藐はもはや陳逸の存在など忘れ、新たな褒美しか頭にない。

「……それが本当なら、その金もくれてやろうぞ」

 張倹は仙珠の秘密を知っている可能性が高い大物党人である。

「ゲヘヘ……そうですか。では、すぐに連れて来させます」

 金藐は一旦部屋を退出し、すぐに部下とともに戻ってきた。張倹を引き連れて。

 張譲は張倹を引き立ててきた顔面黒塗りの男たちに一瞬、警戒心を発したが、張倹という名高き清流がそれ以上に張譲の意識を引きつけた。金藐が自分をだましたり、裏切るような玉ではないことも承知している。間抜けな男も少しは役に立つ。

「これは、これは、張元節殿。ようやくお会いできましたね」

 張譲は直接見知っているわけではないのに、それが張倹本人だと確認できた。

 宦官連中は憎き党人のイメージを脳裏に共有しているのだ。仙珠の不思議な力によって。陳逸のこともそうである。直接は知らない陳逸の顔を知っているのだ。

 張倹は二人の男によって、陳逸の隣に座らされた。陳逸は張倹をその名声でしか知らない。その顔を確認しようとして、首を横に向けた。

「こんな形ではございますが、お初にお目にかかります。張元節ちょうげんせつでございます」

 張倹は首だけを下げて、隣の陳逸に礼をした。そして、

「今しばらくのご辛抱を」

 と、小声でそう付け加えた。

「あのぅ、張譲様……」

「分かっておる」

 二人の関係性を探ろうと様子を見ていたところに、また金藐が割って入ってきた。金藐の催促を苦々しく思いながらも、張譲は金を渡してさっさと消えてもらうのが最上だと思い立ち、使用人の男にそれを用意させた。

「ほれ、それを受け取ったらすぐに下がれ」

「はい、それはもう……お邪魔は致しません。グプッ」

 金藐は使用人が差し出した袋を両手で丁寧に受け取ると、後ずさるようにして退出した。黒塗りの二人も金藐に従って退出していった。


 予期せぬ中断。思わぬ幸運。やはり、自分に天運が味方しているのか。

 張譲は胸に手を当てると、愉悦ゆえつの笑みを浮かべ、疑惑の党人二人に向き直った。

「……さて、どこまで話しましたかな? これは元節殿にも関係があることですぞ」

 張譲が陳逸と張倹に向かって尋問を再開しようと思っていたところへ、今度は屋敷の裏手から喚声かんせいが上がって、またしても中断を余儀なくされた。

「今度は何じゃ?」

 張譲がいら立った。その問いには先程の使用人が駆け戻ってきて答えた。

「御主人様、賊どもが屋敷の外で騒いでいるようです」

「賊?」

「はい。ですが、ご心配には及びません。傭兵たちが即時対応しております。私めはもう一度様子を見てまいります」

 その報告に用心深い張譲は胸騒ぎを覚えた。使用人が言ったように警備は万全のはずで、それには不安はない。だが、このタイミングで賊が騒いでいるということに一抹いちまつの不安を覚えたのだ。この党人たちと関係あるのかもしれない。

 そして、その不安を掻き立てるように、二人の男が乱入してきた。あの黒塗りの。

「張譲様、賊が屋敷に侵入しようとしていやす! 金藐様から張譲様をお助けするように仰せつかりやした。ささ、こちらへ!」

「おめぇらも来い!」

 黒塗りの男の一人が張譲を外へ導こうとし、もう一人が二人の党人を連れて行こうとした。

「待てっ!」

 張譲が叫んだ。

「怪しい奴らめ。お前たちが金藐の部下というのはまことか?」

 陳逸と張倹を連れて行こうとした方の男がビクッと体を硬直させた。

「構うな、行け」

 吉利は凍りついた支丹の背中を押すように言った。支丹は決して振り向かず、二人を連れて出て行った。

「何者じゃ?」

「我々は梁上の君子、金藐様の手下ですよ。あの党人どもは返して頂く。他に売り飛ばせば、また金になるからな」

 怒気と殺気を漲らせた張譲の視線にも動じることなく、吉利は不敵に言い放った。

「……豚が君子じゃと?」

 黒塗りの男が言った台詞せりふが金藐の代弁だとすると、一層いら立ちが激しくなった。

「この私を裏切るか、どこまでも金に汚い豚め……。じゃが、この屋敷を生きて抜け出せると思っているのか?」

 金藐の反乱と知っても、張譲は慌てなかった。雇っている傭兵は百人以上。今日に限っては、その全てを屋敷とその周辺警護に当たらせている。どれも腕に自信のある猛者もさたちばかりだ。対して、邸内の金藐の私兵は数人に過ぎない。そのどれもが武装していないはずだ。この邸内に立ち入る者は厳重なボディー・チェックを受けて、武器は門衛に預けねばならないようになっているからである。

 その証拠に目の前で大言を吐く黒塗りの男も帯剣していない。

 貴様らの企みは万が一にも成し得ない――――そんな余裕の上に胡坐あぐらをかいている張譲の問いには、不遜な態度で応じるまでだ。

「思っていなければ、こんな真似まねをするわけがないだろう」

 言い終わるやいなや、吉利はあっという間に張譲の背後をとった。

 そして、手首に巻いてあった帯状の布を解いて、張譲の首に巻き付けた。

「ぐえっ……!」

「その喪服は死に装束しょうぞくにちょうどいいな……!」

 布を締め上げる吉利の腕に力がこもる。吉利は自分が不遜な態度を取りがちなのは自覚しているが、他人にそのような態度を取られるのは許せない。その気質が無意識に力をこめさせているのだ。

 ただ、この時だけは一瞬の感情としてそれを表しただけで、すぐにそれを緩めた。窒息ちっそくして悶絶もんぜつしていた張譲があえぐように呼吸した。と、次の瞬間、

「けっ!」

 またもや首を絞められて、張譲はにわとりのような鳴き声を発した。

「いっしょに来てもらおう」

 吉利は布を引っ張り、強引に張譲を部屋から引きずり出した。

 その頃、陳逸と張倹を連れた支丹は、張譲が自分たちを殺して金を奪い返そうとしていると、らしからぬ演技で肉瓢箪をあざむこうと奮闘していた。

「……ど、どういうことだ?」

「用済みってことですよ!」

 前庭まで来たところで、屋敷の裏手で喚声が上がっているのを聞いた。

 何事か分からずに、ただならぬ様子を感じていたところへそんな報告を受けて、金藐は当然のように混乱した。そんな慌てふためく肉瓢箪だったから、なぜ支丹が陳逸と張倹を連れているのか、しかも、その縄目が解かれているのかなど分かるはずもなかった。弟の金虎武きんこぶも知恵が働かない男なので、

「金虎武殿、早く武器を!」

 支丹にそうかされると、その通り行動するだけだった。自分の私兵を連れて門へ走ると、門番から武器を奪い返して、いよいよ反乱の形をとった。

 裏で騒ぎを起こしているのは周済が連れてきた黒塗りの男たちで、指揮しているのは同じく黒塗りの周済と危うく餌にされかけた厳恪である。

 彼らが相当数の傭兵たちの注意を惹きつけてくれているとは思いたかったが、異常事態を察知した張譲の傭兵たちが続々と集まってきた。

 張譲の私兵と金藐の私兵。ここにおいて、吉利の仕掛けた同士討ちが始まった。

「門の方へ!」

 支丹は陳逸と張倹を誘って、まだ閉ざされたままの門へ走った。

 肉瓢箪とさげすまれるその肥満体ゆえ、動きの鈍重どんじゅうな金藐は数歩も移動しないうちに、

「グエップゥ……!」

 張譲の私兵たちの手にかかり、あっけなく絶命した。因果応報。何本もの剣が突き立てられたその肉瓢箪の巨体に、陳逸は走りながら侮蔑ぶべつ一瞥いちべつをくれてやった。

 力自慢の金虎武の方は何人もの張譲の私兵を斬り殺す奮闘ぶりを見せていて、この状況においては頼もしいかぎりだった。とはいえ、多勢に無勢。金藐の私兵はまたたく間に殲滅せんめつされ、最後まで踏ん張っていた金虎武もついに憤死してしまった。

「ああっ!」

 未だ逃げ道を確保していないうちに、盾となるべき金藐の私兵たちが全滅してしまったのを見て、支丹の口から動揺の声が漏れるのと、

「ご主人様……!」

 自分たちの主人が黒塗りの男に人質に取られているのを見て、私兵たちの口から動揺の声が漏れるのは、ほぼ同時だった。

「落ち着け!」

 場を切り裂くような吉利の一喝は動揺を隠せない支丹に対して投げかけられたものだったが、図らずも、主人を人質に取られた私兵たちへの恫喝にもなった。

 彼らもまさかこのような展開になるとは想像だにしていなかっただろう。

 吉利は私兵たちの間に広がる動揺を見て語気を強めた。有利に立っているのはこちらだ。

「主人の葬式をしたくなかったら、言われた通りにするんだな。武器を捨てろ!」

 よく飼い慣らされた私兵たちだ。命令には従順に反応した。それぞれ手持ちの武器を投げ捨て、吉利の次の指令を待った。

 裏ではまだ喚声が上がっていた。厳恪たちがうまくやっているようだ。

「ちゃんと党人を捕まえたんだ。褒美はきっちり頂こう」

 支丹は吉利の抜け目なさに、この男はどこまで胆が太いのかと半ば呆れながら、しかばねと化した肉瓢箪のふところから金の入った袋を取り上げた。

「そのまま動くな」

 吉利は再び張譲の私兵たちに厳命して、行け、と支丹に目配めくばせした。

 支丹はうなずくと、立ちすくむ門番に門扉もんぴを開かせ、陳逸・張倹とともに門外へ逃れていった。吉利はそれを見届けると、張譲を盾にしながら周囲に素早く目を配った。

 ここまでは自分が立てた作戦通りに事は進んでいる。後はこのまま張譲を人質にして自らも脱出すればいい。苦しむ張譲を引きずって、吉利が門へにじり寄ろうとした時だった。何とか布の緊縛を緩めようとして両手を首にやっていた張譲の左手が懐へ伸びた。

『何か武器を忍ばせているのか?』

 吉利が警戒して、さらに布をきつくしぼりあげた。だが、絞め殺してしまっては人質の用を為さなくなる。その生死の狭間はざまが張譲に悪運を与えた。

「ぐぇぇ……!」

 顔面を蒼白させ、窒息死の寸前にありながらも、張譲は懐をまさぐる手を止めない。そして、その手が何かを探り当てた。次の刹那せつな、張譲は吉利の拘束から逃れて地面に転がっていた。

「何……?」

 獲物を失った布が吉利の手から力なく垂れ下がっている。ひ弱な宦官に布をじ切る力はない。懐から短刀が出てきたわけでもない。現に未だ立ち上がることもできずに、よだれを垂らしながら、荒々しくあえいでいる張譲の手は懐に差し込まれたままだ。

 布を引き上げてみると、布の先はどういうわけか黒く焼き切れていて、微かに焦げた臭いがした。

「……ちっ!」

 一体、何が起きたのか? だが、今はそれを考えている暇はない。

 吉利は瞬時に頭を切り替え、すぐさま投げ捨てられた剣の一つを拾い上げて、開け放たれた門へ向かって猛然とダッシュした。

 その急激な事態の変化に反応が遅れた私兵たちだったが、主人が解放されたのを見て、ようやく金縛りの緊縛から抜け出し始めた。

「逃がすんじゃねぇ!」

 各々武器を拾い、威勢のよさを取り戻して吉利を追った。門衛もこのとんでもない狼藉者ろうぜきものを逃すまいと再び門を閉ざして、間一髪、吉利を邸内に閉じ込めた。

「ちっ、完璧とはいかなかったな」

 意外なほど淡々とした言葉だった。が、諦めたわけではない。

 この絶体絶命のピンチにあっても冷静さを失っていない証拠だった。こんなところでむざむざ死ぬつもりもない。閉ざされた門を背にして、剣を構えた。

「もう逃げられねぇぞ!」

「どこのどいつだか知らねぇが、とんでもねぇことをしでかしやがって!」

「おとなしく殺されな!」

「待て待て。このまま切り刻んでもいいが、それでは張譲様が収まるまい。半殺しにして、後は張譲様にお任せした方がいい」

「ああ、そうだな。そうしよう」

 私兵たちは口々に勝手な発言をする。吉利はそれを一蹴して言った。

「ふん。腐者にわいた蛆虫うじむしどもが、もう勝ったつもりでいるのか?」

「何だと、この野郎!」

「このに及んで減らず口たぁ、イカれてんのかぁ?」

「何でもいい、やっちまえ!」

 あくまでも冷静沈着な吉利に、殺気を剥き出しにした張譲の私兵たちが襲いかかった。吉利は先陣を切って襲いかかってきた私兵の一人を斬り伏せ、その体を私兵の集団に向けて蹴り飛ばした。突っ込もうとしたところに仲間の体を浴びた一人がもんどりうって倒れ、それに巻き込まれて、さらに二人が倒れ込んだ。

 一点突破。集団の中に開けたその血路を吉利が切り抜ける。

 正面から二人の私兵が雄叫おたけびをあげて向かってきた。が、次の瞬間、そのどちらも、

「ぐはぁっ!」

 吉利の斬撃を首筋に浴びて倒れた。即死である。このような死地に平気で飛び込むのだから、吉利もかなりの剣術を身につけている。そして、吉利の剣撃は力任せの荒々しい私兵たちのそれとは違い、速く鋭い。俊敏に動き、俊敏に斬る。

 さらに二人を斬って捨てた。

 ここで私兵たちもようやく敵が只者ではないということを悟って、迂闊うかつに近付かなくなった。吉利はそんなことはお構いなしに、無防備の張譲に向かって駆けた。

 いくら剣が達者な吉利であっても、武勇だけでこの四面楚歌しめんそかの状況を切り抜けるには無理がある。知略がいる。ならば。この剣を首筋に付き当てて、もう一度張譲を人質に取ればいい。ゆらりと立ち上がった張譲の周りには私兵はいない。

 事、成れり――――そう思ったのも束の間、

「……この無礼者めがっ!」

 鬼の形相ぎょうそうに変わった張譲が懐に差し込んでいた左手を抜き出して吉利を狙った。

「何だとっ……!」

 驚いた吉利は思い切り体をじって、辛うじてそれを避けた。

 飛んできたのは火の球。吉利の背後でその火の球の直撃を受けた私兵が、ギャーッという悲鳴をあげて燃え盛った。背後で火を消そうと私兵たちが大騒ぎしていた。それを振り向きもしない。吉利が凝視するのは張譲の左手。張譲が握っていたのは赤い玉。それを握る指の隙間からゆらゆらと赤い気が立ち昇っていた。

 その気が回転するようにまとまって球体を形成し、中心で炎がともる。

「お前が死人になるがよいわっ!」

 怒気が火の球となって再び吉利を襲った。吉利は地面に伏せてそれを避けたが、張譲の怒りは収まらず、次々に火の球を作り出して吉利を焼き殺そうとした。

「ちっ!」

 吉利は張譲を人質に取るプランが狂って舌打ちした。今や張譲は非力な宦官ではなく、妖術をあやつる強敵と化した。素早く走って火の球をかわす。吉利が避けたせいで、背後にいた巨漢の私兵はその直撃を受け、めらめらと炎上した。

 私兵たちは狂気の張譲と火の球の無差別攻撃に吉利を追うどころか、うろたえて逃げ惑うだけだった。

『あれは仙珠か?』

 現実主義者の吉利は火の球が飛ぶという超常現象を目にしながら、同時にそれを現実のものとして受け入れ、消化した。混乱する私兵たちをよそに、冷静に事態を見据えた。

 吉利の頭上をまた火の球が飛んで行った。張譲の持つ赤い玉がこの妖術の根源と見える。持ち主に天運を付与するというからには何らかの神秘的な力を宿したものなのかもしれない。張譲は清流派の李膺りようを殺し、党錮にも加担した。王甫おうほ曹節そうせつに次ぐ位置に居る宦官だ。強力な悪運が味方していると考えられないでもない。

 昨夜、袁閎えんこうから聞いた話が記憶に新しく脳裏に残っていた。あれが国家の秘宝なら、悪辣あくらつ非道の腐者に持たせておくべきではない。

 事態は流動する。それに合わせて吉利の中のプランがまた更新された。

 赤い玉。あれを奪う――――。



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